角砂糖をちょうだい-4

あのファミレスで

 まだ雨が降っていた。スマホで天気予報を見ると、夕方には上がるみたいだ。少しゆっくりしていくか、と思った私は、元職場のファミレスで昼食を取ることにした。
 歩いて五分もかからないファミレスに着くと、濡れた傘にビニールをかぶせて、店内に踏みこんだ。まだぎりぎりランチタイムだけど、雨のせいか店内はそんなに騒がしくない。「いらっしゃいませ」と早足に近づいてきたウェイトレスに案内されたのも、四人がけの席だった。
 私はメニューを開き、夕べはパスタだったし、とか迷った挙句、ビーフシチューにパンをつけることにした。ベルで呼んだウェイトレスに注文を告げると、彼女は私がいた頃より薄型になった機械に注文を入力し、「かしこまりました」と去っていった。また知らない子だったなあ、なんて思いながら、お冷やに口をつける。
 私がこのファミレスに勤めはじめた頃、店長だったのは真垣さんという男性の社員さんだった。とてもおっとりした人で、私も紅磨くんも、他のバイトもとても懐いていた。私と紅磨くんのことを秘かに応援もしてくれた。
 でも、社員さんにはどうしても異動がある。真垣さんもエリアマネージャーに昇進したことで、この店舗を離れることになった。代わりに来た女性の水津さんという社員さんは、初めは冷ややかで愛想もないという印象で、バイトからの評判も悪かった。辞めてしまう子もいた。
 でも、実はひどい人見知りだということ、そんな自分を励ましてくれた真垣さんを想っていることを私が偶然知ったので、それから水津さんはずいぶん変わってバイトと協力するようになった。真垣さんもエリアマネージャーの仕事も兼ねて店舗を覗きにきたとき、そんな水津さんを嬉しそうに褒めていたっけ。
 水津さんもいつ異動の話が来るか分からない。そして、どこに飛ばされるかも分からない。まだある程度近くにいるあいだに真垣さんに想いを伝えたほうがいい、と応援したのは私だった。
 それでも、さすがに水津さんが勇気を持てずにいると、ある日、真垣さんが水津さんに自分の店舗を手伝ってみないかという話を持ちかけてきた。「せっかく水津さん馴染んできたとこなのに」というバイトの声もあったけど、それに対しても含め、真垣さんは水津さんに柔らかく伝えた。
「結婚したら、うちの会社は夫婦で店舗を預けてもらえるって知ってますか?」
 水津さんがぽかんと真垣さんを見つめた。すぐに意味を理解したバイトたちは、わっと声を上げて、そういうことならと水津さんの背中を押した。「でも」と水津さんは不安そうに私を見て、「ふたりのお店、いつか紅磨くんとお邪魔しにいきます」と私は笑みを作った。
 水津さんは真垣さんと向かい合い、「私でよければっ」と大きくお辞儀した。そんなわけで、現在は真垣さんと水津さんは結婚を前提におつきあいをしている。結婚したら、さすがにあのふたりからは連絡が来ると思うので、そのときは紅磨くんとお店を訪ねたいと思っている。
 濃厚な匂いのビーフシチューと焼きたてのパンが来ると、私はほろほろのお肉や煮こまれた野菜をすくって、湯気を吹いてから口に運ぶ。チェーンのファミレスとはいえ、なかなかお料理はおいしい。パンをちぎってシチューをつけて食べたりしていると、「すみません」とふと声がかかった気がして顔を上げた。
 そして、思わず口元にこぼれたシチューを慌ててナプキンでぬぐう。
「一緒にいいですか」
 私のテーブルの脇に来ていたのは、茉莉紗さんだった。相変わらず綺麗な長い黒髪は後ろでたばねている。白い肌や赤い唇のせいか、やっぱり日本人形のような美しさだ。高校時代よりさらにすらりと背が高くなり、特に脚が長いから、モデルもできるんじゃないかな、なんて思う。
「あ……、えと、どうぞ」
 ほかの席空いてないのかな、と思っても、きょろきょろとそれを確かめるのも失礼な気がした。茉莉紗さんは私の正面の座席にすべりこみ、「すぐお冷やをお持ち致します」とひかえていたウェイトレスは頭を下げて立ち去った。茉莉紗さんはメニューを広げ、綺麗な眉をわずかに寄せてしばらく悩む。
「ここ、春は何がおいしいですか?」
 決めかねたのか不意にそう尋ねられ、「えっ、と」と私はとっさに昔は暗記していたメニューを思い返す。春においしいって、チェーンのファミレスには、期間限定のメニュー以外は季節感なんて少ないけども──
「キャベツとベーコンのクリームパスタ、ですかね。今、春キャベツが甘いので。まだメニューにあったと思います」
「さらっと出てくるのすごいですね」
「まあ、長かったので」
「じゃあ、それにします」
 茉莉紗さんがメニューを閉じたとき、ちょうどさっきのウェイトレスがお冷やを持ってきた。茉莉紗さんはそのウェイトレスに注文を済ませ、「かしこまりました」と彼女が下がると、しっとりした色白の手でグラスを取ってお冷やに口をつける。
 私は一度スプーンでビーフシチューをぐるりとかきまぜると、何を話せば、とやや混乱する。茉莉紗さんには感謝していることももちろんあるのだけど、どうしても目の前に来られると、その美貌に圧倒されてしまう。
 茉莉紗さんはスマホを取り出して何やら着信をチェックしているようなので、私もひとまず食事に戻ることにした。でも、ブロッコリーを口を入れる手前で、「そういえば」とつぶやいてしまう。
「こないだ、蒼磨くんがうちに来たんですけど」
「蒼磨が」
「絵梨紗ちゃんのこと話してて──あ、絵梨紗ちゃん、高校入学おめでとうございます」
「ありがとうございます。伝えておきます」
「蒼磨くんは、その──何というか、絵梨紗ちゃんが気になってる感じなんですけど」
「みたいですね」
「絵梨紗ちゃんは、蒼磨くんのこと……まったく意識してない感じなんですか」
「どうなんでしょうね。あまり、そのへんの話しないので」
「そうなんですか」
「紫磨のほうが詳しいと思います」
 紫磨ちゃんとは紅磨くんの妹で、蒼磨くんの姉である女の子だ。春先に高校を卒業して、今年大学に入学したところだったように思う。
「そっか、紫磨ちゃんと絵梨紗ちゃんが親友同士なんですよね」
「はい。昔は、蒼磨はそれに入れてもらえないと駄々をこねたりしてましたけど、あの子も中学三年生ですし」
「蒼磨くんは、年下のせいか絵梨紗ちゃんに相手にしてもらえないって気にしてまして」
「年下っていっても、紅磨と悠海さんに較べたら、大したことないと思いますけど」
「あの年代の一歳差は大きいのかと」
「……そうなんですかね。まあ、あたしは絵梨紗は蒼磨とつきあうだろうなって見てますけど」
「ほんとですか」
「女が年上って、そんなに卑屈になることなんですか? あたしはそれがよく分からなくて」
「卑屈というか──年下にアプローチされたら、茉莉紗さんはとまどいません?」
「別に。男は全部男に過ぎないと思ってます」
 私よりはるかに達観している。モテる女の子とは、そういうものなのかもしれない。
「茉莉紗さんは、そういう、彼氏さんとか」
「今は仕事がいそがしいです」
「……そうですか」
 本当は、茉莉紗さんには早く恋人を作ってほしい、と思う私がいる。そうしてもらわないと、どうしても紅磨くんに重なる影のようなものを感じる。
 今だって、紅磨くんの話題をさらりと出したくても、喉でつっかえる。茉莉紗さんが「紅磨」と呼び捨てにすると胸がざわめく。私が心狭いんだろうなあ、とやってきた料理を食べはじめる茉莉紗さんをちらりとして、わずかに落ちこみそうになったときだった。

第五章へ

error: