夏休み明け
せっかちな目覚まし代わりだった蝉の声は氷河期に入ったけれど、肌を燻す暑さはまだまだ続く。
四十日ぶりの制服は、クリーニングに出していた糊がきいていた。澄み切って青い空の元、小学生やすずめが騒がしい道路を、言うまでもなくトーストよりかりかりな雪乃ねえちゃんと歩いている。
この人は、悪い気分になるとトゲっぽく突っかかるのに、俺は正反対だ。どろどろに沈んで閉じこもる。自分がどんなふうに悩むかなんて把握してこなかったが、今回のことでよく分かった。タチが悪い。方向は正反対ながら、そのタチの悪さは俺と雪乃ねえちゃんはそっくりだ。
「浮気されたような顔」と生半可な知識で述べると、昨日三ミリ切った前髪を気にする雪乃ねえちゃんは案の定ぎろりとしてきた。
「あんたこそ、その趣味直さないと恋人できないわよ」
ぎくりと通信表と宿題だけで軽い手提げを握りしめても、表面では平静を偽る。
「どういう意味だよ」
「その、余計なひと言を言う趣味よ」
雪乃ねえちゃんを見、その背を追い抜きかけているのに気づきながら、足元に暗いため息をつく。またこういう細かい過敏が始まるわけか、なんてさっそく塞ぐ。「何よ」ととがった目を向けられると、操作されているみたいに無意識に、「別に」なんて肩をすくめる。
「三ミリぐらいで、切りすぎたなんて思うなよ」
「学校が始まるのが嫌なのよ。あと、三ミリじゃなくて五ミリよ」
「どうせ誰も気づかないよ。セットしちゃってるし」
それでも、女はそんなくだらないことにぶつぶつ言い続ける。でも、うらやましいかもしれない。俺もそんなふうに、切りすぎた前髪が気になる程度だったらいいのに。
俺につきまとうのは、どんよりした無気力だ。朝が来るたび、乗り切らなくてはならないその日一日に嫌悪が湧き、何にもしたくないどん底に滅入る。やろうと思えば、嘘も皮も俺の意志でやめてしまえるのだけど、意思を感情が踏みつけている。学校が始まるのが嫌なのは、こちらのほうだ。
夏休み中でもよく通った坂道で学校に到着する。楽しげに笑い合う生徒もいれば、不機嫌な夢遊病者みたいな生徒もいる。靴箱で偶然逢った笹原と二階の教室に到着すると、そこは旧交でわりとにぎやかだった。窓際の席にいく途中で、「柊」とあの声がかかる。ほんの一瞬痛みが走っても、すぐさま笑顔をかたちづくる。
「賢司」
雑談を中断してつくえを縫ってくる彼に、教卓のそばで足を止める。
「おはよ」
「おはよ。三日ぶり」
笑った彼とは、夏休み中にもしょっちゅう会っていたから、ほかのクラスメイトに感じる、焼けた肌に見慣れない感はない。
「あいつら、いいの?」
後ろのほうに溜まる賢司が混ざっていた数人を見やると、「構わないよ」と賢司は俺の肩を窓際へと押す。薄い夏服越しにほのかに感じた彼の体温に、やっぱりどきりとしても、何とか水平な冷めた気持ちを保って血を抑制する。
「笹原と来てたな」
「靴箱で逢って。あいつの身長って、気づくたび伸びてる」
「はは。柊もちょっとは伸びただろ」
「でも、身体測定は楽しみじゃないな」
苦笑混じりに前から四番めの席に手提げを放り、カーテンもなく、レンジの熱する光みたいにまばゆい窓を向く。
「ここ暑いんだよな。席替えいつだろ」
「明日か、あさってじゃないか」
「俺って運ないから、また窓際になりそう」
「はは。宿題は全部片づいた?」
「何とか。賢司は」
「誰かさんのを写したりしつつ」
笑って椅子に腰かけ、「一流高校に行きたい奴にだけ出せばいいのにな」と手提げを脇にかける。賢司も噴き出しつつ、何だか俺を見つめて満足そうに改めて咲う。
「何?」
決まり悪く首をかたむけると、賢司はかぶりを振り、「戻ったなあと思って」と軽いジャンプで身軽につくえに腰かける。戻った──。「うん」と陽の当たる手元にやや無重力に微笑むと、すでにひどい気持ちで何度か聞いた彼女についてつついたりした。
自分がゲイだと認めても、それは何のたしにもならず、二学期もそうしたふうだった。家庭でも学校でも、軽蔑を恐れて自分を偽っている。
誰にも言えない。そんな日が積み重なるほど、腐敗する組織のように未来に不安がふくれあがる。このまま押し殺すのか。いつかばれるのか。いずれにしろ憂鬱で毎日が楽しくない。どうしたら、この無数の落とし穴を埋め、落ちこまずに安定して歩いていけるのだろう。
何も分からない。教えてくれと誰かに相談もできない。自分ひとりで何でもできるって奴はそうとうすごいか、そうとう幸せなんだな、とグレた毒をつぶやいて、つくえやまくらに突っ伏すばかりだ。
雪乃ねえちゃんによると、一年生の二学期に大した行事はないそうだ。十一月に文化祭もどきはあれ、それも純粋に文化の祭りで、芸術作品の展示が続いて、店が出たり遊んだりはないらしい。「そんなの楽しい?」と訊くと、「ないほうがマシ」とすげなく返ってきた。
何かあっても、俺は気が紛れるより、かえって憂鬱になるタイプだ。二学期は、慣れてきた退屈な日々の中でやりすごすだけの模様なのは、あれこれ行事があるよりマシだった。
型通りの生活も、途方がなくて滅入ってくるけれど──この毎日は、昔聞いた怪談に似ている。その日が終わらない。その日に留まり続けて、明日に進めない。一日の最後にショックなことがあり、途端その日の朝に逆戻りして、その日を繰り返す。今の俺はそんな感じだ。毎日同じように始まり、同じように過ぎ、同じように終わり、次の日にはまた同じように目覚めている。牢獄に閉じこめられたように、何もかも同じ日が終わらない。
九月の席替えで廊下側二番めの席になれた俺は、残暑の日射しは解放されて、数学の授業を受けていた。数学教師は、受けの悪いこの科目を少しでも楽しんでもらおうと、混ぜたカードから引いた数字で、ゲーム感覚で生徒を当てたりする。けれど、そんなのはいつ自分が当たるかしれなくてむしろ窮屈だ。
今日も肌が息づまる快晴で、三時間目なのに開襟シャツには汗がにじんでいる。溶けそうな脳みそを頬杖で支えつつ、光が当たって見にくい角度の黒板を眺める。
嫌なことばかり考えていると、たまに虚しい億劫さに憑りつかれ、建設的にゲイとして生きることを考察してみたりする。ほかのゲイがどんなものか知らないけど、とりあえず、自分の本能がアメーバみたいに変わったり移ったりするものでなく、生まれつき根づいているタイプであるのはよく分かった。揺るぎない事実というわけだ。
これをどう受け入れ、消化し、取りあつかっていくか。単に認めただけで、俺はそういうところはまだよく考えていない。
そういうのがはっきり固まれば、多少打たれ強くなるかもしれない。人が何と言おうと、自分はそう信じているから気にしないと。それを自信と呼ぶか、自我と呼ぶかは分からないけれど。ため息が澱む。俺は自分で自分を軽蔑している。ホモなんてやばい。この認識をまず変えなくてはならないのだろう。でも、それが自尊なのか自愛なのか謎だ。
ゲイなのは逃げられないのだし、自分ぐらいかばってやるべきなのだろう。軽蔑するなら、押し通して女の子とつきあうべきだ。嘘にも皮にも何も感じなくなるべきだ。どこかで俺は、自分を軽蔑しきれていないのだろう。違和感も罪悪感も痛む。自分を尊重できたらと思っている。だったら、人にはひとりよがりと思われても、自分の中ではこの本能を間違ったものとしては見ない。
でもそれって最終的には公表することかという局面に行き着くと、前向きは失速する。それは、また、いろいろある。俺はそんなに強いだろうか。強くなれるだろうか。
いざ金を出す段階になると契約を渋るみたいにみじめだとは思うが、凡人の俺は、取り返しがつかなくなるかもしれないことなんて、どうしても尻込みしてしまう。心に強い信念があれば外側はどうでもいい柔軟性を持てるかな、とかいう方向につい走る。強い信念があれば、嘘なんてつけなくなる気もするが。
まだ分からない。自分がこの自分をどう受け入れるのか。きっとすごくかかるのだろう。俺はテレビに出れる奴とかみたいに器用ではないのだ。クラブに行ける奴ほど軽くもない。
自分だけでも信じるとか、認識を変えるとか、考えるのは簡単だけど、それにともなう感情はきっとすごく重たくて、そこを思うと気分は空まわりする。受け入れるために考える時間のあいだは、しょせんこんなふうに偽っていていなくてはならないし──答えなんて出るのかな、と解決なんてまるで現実味がなく、結局はずっとこんな泥沼を揺蕩っている気がする。
解説を終えた数学教師は、黒板の説明と例題をノートに写すよう指示した。今猛烈に人生について悩んでいるから言えるけれど、あんな数式は、生きていく上で何のなぐさめにもならない。
問題の答え合わせは、またカードで当てるらしい。小学生にやっとけよな、と思いつつ、シャーペンを取ると、汗でわずかに湿る前髪をはらってノートにくだらない数式を書き取っていった。
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