恐ろしい波紋
うわさが広がるのは、一滴の水滴が広める波紋のようにあっという間だった。クラスに広がり、学年に広がり、きっとすぐさま学校全体に広がるのだろう。
よく分からない。学年までは仕方がない気が自分でもしたけど、本気でこの指向は、学校全土に広がるほどものすごいことなのだろうか。学校をはみだして、この町ぐらいは平気で飲みこむのかもしれない。郊外で都会というわけでもないこの土地の感覚も、影響しているのだろう。
こんなことなら、せめてさっさとゲイだと認めて、建設的に事を考察しておけばよかった。自分がゲイで、それでどうするという方針なんか、いっさい固めていなかった。ようやく観念したところだったのだ。
事実をどういうふうに取りあつかい、どういうふうに生きていくとか決めていれば、ばれても対応できていたかもしれない。姑息に繕うなり、堂々と認めるなり。俺はまた、狼狽にかまけて最悪の行動を取った。何も言えない。それでは勝手に決めつけられ、毒された偏見がウイルスのように蔓延っていくだけだ。
そして、案の定のざまだ。どうしてだろう。俺は肝腎なときに限ってうまく動けず、事を悪化させる。事態は俺の手には負えない。いまさら俺がどんなにわめいても、こう広まってしまえば、本人のひと言より多くの流言が真実なのだ。
日に日に、朝の目覚めが墨を含んだ筆を洗った水のように、澱んで重苦しくなる。本気で登校を拒否したほうが精神衛生になると思う。でも、俺の親はぜんぜん分かってくれない。大人は精神的なものを見縊っているのだ。
説明をすれば、世間体で俺を家に軟禁するかもしれないが、軟禁するかもなんて予想が立つ親にどうやってあえて告白できる? 家族はまだ知らないようなのだが、どうせ時間の問題だろう。
処刑台に上がるような足取りで学校に到着し、このままゲーセンにでも行ってグレてしまおうかという道も検討する。そしてやられる前にやるようになるとか、酒や覚醒剤で何にも分からなくなるとか、女をたらしまくって童貞の同級生たちをあざわらって挽回するとか、いかにも素人の考えそうな妄想を抱く。が、小心者にはどんな神経が実際にそんな方向に走らせるのかも理解できず、しょせんはのろのろと校門をくぐる。
イジメに遭ってる奴ってこんな気分で学校来てんのかな、とこれまでに餌食になっているのを見て見ぬふりをしてきた、クラスメイトたちを閻魔帳をめくるように思い返す。
自分がそういう同級生たちを放ってきたから、分かる。誰が助けようなんて血迷った善意を起こすだろう。誰も救ってくれたりはしない。それはルールなのだ。犯せば自分がつるされる。獲物になれば独りで、不気味な離島に切り離される。
階段をのぼって教室のドアが閉まっていると、気が陰る。開いていたら、まだそのまま顔を伏せてはいればいいのだけど、完全にこの教室において“招かざる客”の俺は、わざわざドアを開けて入るなんて後ろめたくてたまらない。
それでも、ぐずぐず突っ立っていたって誰か来て、開けて、担任でもなければ当然のように閉める。俺はこのクラスだって誰かが決めたんだからしょうがないじゃん、と情けなく自分に言い訳し、筋肉がきしめく手つきでドアを開ける。
ほんの一瞬教室がしんとして、またまばゆい朝陽の中でにぎやかになる。その一瞬は、免疫のような見えない鎧戸を下ろす合図だ。教室は透明な壁をまとい、俺がそちらには属せないよう隔離する。はじきだし、関わらない保障に安心して、雑談に興ずる。かろうじての居場所の席に着いても、その見えない抗体に一日中肩を圧迫され、いたたまれない。
十月になって、俺の席は中央列の一番後ろになった。教卓ぐらい教室が見渡せる席だ。窓側の前から三番めの賢司もよく見える。けれど、あんまり見ない。俺がこの頃よく見ているものは、先輩の誰かがつくえに彫った星の落書きだ。それでもときどき、賢司の席の周りに友達が集まっているのが視界の端に映る。
彼も俺のそばに近づかないようになっていた。当たり前だ。そう思う反面、ショックだった。賢司は俺を分かってくれるかもしれないと、わずかながら信じていたのに。彼が周りの偏見に押し流され、俺を見捨てる奴だとも思えなかった。
あるいは周りは関係なく、賢司は確固としてすでにゲイに軽蔑していたのか。だとしたら何も言えなくても、たまにこちらに投げかけられている視線は、どちらかといえば当惑だ。俺がその視線に気づくと裏返すようにぱっとそらし、俺はひとり取り残される。
分かっている。普通の人にとって、俺は何だか信じられなくて、近づくのもおぞましい醜悪な顔の異星人のような存在なのだろう。自分が自分に対してさんざんそうだったので分かる。だとしても、やっぱり賢司には裏切られたという感じがどこかにまといつく。いつでも味方だって、特別な友達だって言っていたくせに。あるいは俺は、そんな絆も踏み躙られるほど汚いのだろうか。
教室の生徒たちがみんな知っていても、教師だけは神業とも呼べるほど何も知らない場合がある。しかし、今回は堀川も事の次第は耳にしているようだった。教師になったのを後悔していると思う。この時世、イジメや不登校ぐらいは覚悟して教師になったと思うが、同性愛者が出るなんて考えてもみなかっただろう。だから、何も対策を持ち合わせていなかったのか、彼はひと言で言えば見ないふりをした。
俺に真偽を確かめることもなければ、教室の異様な空気について口にもしない。教室に同性愛者なんていないと思っている、あの性教育のときのような発言をひかえないこともあった。まあ、そういうのは堀川だけでなく、どの教師もそうしたふうだった。教師たちは、みんなどう接したらいいのか分からないみたいだった。
生徒ははっきりしている。教師たちも、俺のいないところでははっきりしているのだろう。
陰口がコメディのパイ投げみたいに飛び交って、あちこちに飛び散っている。偶然耳にして知っているものだけでも、ぜんぜん身に憶えのないものばかりだ。いやらしいことばっかり考えているとか、中年の親父と逢引しているとか、男子生徒を盗撮してそれを餌にしているとか。煙幕の中から攻撃されているようだ。
気持ち悪い、狂ってる、病気、そんな感覚を信じて遠巻きから向けられる瞳は、本当に鋭い矢のようだ。そんなことはない。そんなこともしていない。仮にそう言い、誰が信じて味方になってくれるだろう。
「ホモは野良犬みたいに、ちょっと優しくしたら懐いて惚れてくるんだ」
そんな飛語が浸透して、みんな俺を避ける。集団行動を取らなくてはならないときも協力しないし、させてくれない。班を作らなくてはならないときにははじかれるし、体育の体操で背の順でペアを組まなくてはならない相手は、潔癖症みたいに俺に触れるのに嫌悪を滲ませる。あの言いようのない穢れた眼つきに、俺のほうが彼に近づけなかった。体育教師に怒鳴られていやいややり、彼はちょくちょく体育の授業をサボるようになった。
後期の委員を決めるときも、じゃんけんにさえ混ぜてもらえず一番嫌な役まわりを押しつけられた。美術の校外写生で近くの自然公園に出かけたときも、俺が描くものはみんな描かない。見まわりにきた美術教師さえ、友達とかたまるのは自由なのに、ぽつんとしている俺をわざと見落としていた。中間考査で俺につくえに使われた奴はハンカチで席をはらい、「こういうときは気い遣って休めばいいのにな」とそいつに同情する声を確かに聞いた。
もちろん試験の結果はぼろぼろで、その後始まった文化祭のクラス作品の製作でも仲間外れにされて所在なかった。いつのまにか、校内が冬服に塗りかわって気候も涼しくなっていく中、そうしてうつろっていく季節のように周囲は息苦しく変化していった。
十一月の席替えで窓際になった俺は、凛と涼しい青空をつくえで見つめている。終業の鐘と共につくえを解放されたりしないのにもすっかり慣れた。にぎやかにさざめくみんなを遠く感じる痛みにも、かなり麻酔がかかってきた。
俺のそばには誰もいない。近頃よく分からない。なぜこんなことになったのか。ゲイだから? 本当にそうだろうか。俺が悪いのか。みんながとまどうのは分かるけど、何もここまでされるほど──
分からない。だから、どんなにされても抗議していいのか判断できなかった。
放課後に感じる安堵ほど、深い安堵はない。掃除当番でない限り、さっさと帰る。家のほうが、何も知らないだけマシだ。とはいえ、俺の顔には老いて刻まれていく皺みたいに憂鬱な影が沈殿しているらしい。かあさんの物言いたげな目に出遭うと、部屋に閉じこもってベッドにうつぶせて、嗚咽を殺した。誰かが必要なのに、誰もいてくれない暗闇ほど、猛烈な孤立感はなかった。
そう、誰かひとりでも分かってくれたらいいのに。理解して受け入れてくれたらいいのに。そばにいて、話を聞いて、味方でいてくれたらいいのに。
今なら分かる。やっぱり俺には苦痛が足りなかったのだ。今ならゲイがゲイしかいかない特殊な世界に向かう気持ちが分かる。だって、そこではこんなことは絶対にないだろう。みんな分かっていて、受け入れて、愛し合いさえしてくれる。行くに決まっている。だって、まるで天国だ。でも、そんな場所は身近には転がっていない。
それに、バカバカしい自尊心のようなものがなおも燻る。すごく分かる。そういう世界に溶けこむのも、きっとありなのだ。でも、どうしても、どこかでは、踏みこむのは怖い。みんなの排斥を認め、自分はまともではありません、と身を引くようにも感じる。敗北のように。
十一月も下旬の、期末考査が近づくすっかり冬の匂いが立ちこめた寒い日のことだった。学校指定の紺のコートを着こんだ俺は、いつもの気分でいつもどおり登校した。
けれど、教室はいつもとは違った。いや、俺の席は──俺がドアを開けると、久しぶりにぴたりとざわめきがとまった。というのも、最近はみんな俺の疎外に慣れ、免疫ははなから整っているようになっていた。わずかに眉を黒雲に訝らせて席に向かった俺は、目に入った窓際の自分の席に足を止めた。
緩い陽のあたるつくえの中央に、牛乳瓶にさした一輪の花があった。名前は知らないけれど、白い花だ。それが真っ黒な液体──恐らく墨をそそいだ牛乳瓶にさしてある。俺はたたずんでそれを見つめ、言い知れないその意味に胸のあたりに薄暗い霧を覚える。
冷気が染みこんだ膝で、とりあえずゆっくり席に近づく。関知したくないクラスメイトたちの話し声が、味気なく耳をすりぬける。明るいつくえの前に立った俺は、その墨を吸ってしおれかけた花をしばらく見下ろした。
墨のくせのある匂いが立ちのぼる。牛乳瓶の影がつくえに長く横たわっている。瞳にその光景を焼きつけるまばたきが痛み、肩に手提げもぶらさげるまま教室に顔を上げた。
途端、みんな素早く視線をそらし、けれど見まわしていくと嗤いを噛む数人の男子生徒がいた。彼らを見つめたのち、再び花に目を下ろし、ふと急に虚脱していくようにこわばった吐き気が無気力に溶けていくのを感じる。
人体実験でおかしな薬品を打ちこんだ人間を観察するような、無気質な白い眼が俺に集中している。その中で、ほとんど喉につっかえる弱いため息をぎこちなく吐いた。
足元が脱力に震えて崩れ落ちそうだ。とっさに椅子をつかんで、その鮮明な絶望感に耐える。頭の軸がくらくらして、五感がどこか発狂している。この花は、つまり──
前髪に陰った目をさらにまぶたで守ると、取り返しがつかなくなったことを、どろどろになっていく心で確信した。
【第二十七章へ】
