Koromo Tsukinoha Novels
疲れがマックスだったので、うとうとしてそのまま眠ってしまっていた。不意に何か着信音がして、はっと目を覚ます。明かりをつけっぱなしの空中にまばたきをする。
時計を見ると、午前二時だった。きちんとふとんかぶって寝よう、とリモコンで明かりを消して、ふとんにもぐりこもうとしたけど、そういや何か着信っぽい音したな、バッグに入れたままのスマホを思い出す。どうせ充電しないといけないや、と仕方なくベッドを降りると、スマホを手に取った。
画面を起こし、通知を確認するとメッセが届いていた。誰だろう、と名前だけ確認しようとしてバーを引っ張った私は、そこに表示された名前に「はっ?」と声を裏返らせた。
『古村健太さんがあなたを友達に追加しました』
え、何? 古村? 古村って……そう、健太なら確実にあいつだ。何で。そもそも、どうやって私のアカウント──武上? 何のために、上司の連絡先を彼氏に教えるというのだ。私は変な唸り声をもらし、一応、届いているメッセを開いた。
『ごめん、勝手に登録して』
『もう一度話したい』
話って何だよ。こっちは何も話すことなんかない。
というか、本当にどうやって登録したの? それを聞かないと、ここで友達拒否してももやもやが続く。仕方ないなあ、と友達登録を受け入れて、今の時間なんて気にせず、『どうやって私のアカウント知ったの?』と挨拶も抜きに送信した。
まあ寝てるか、武上と一緒か、どちらかだろうし、今は寝よう。そう思ったのに、充電につないだところでスマホが鳴る。
『実留香のスマホ見た』
こいつ、恋人のスマホを見るわけ?
ちょっと分かんない、と思っていると、『通話かけるから』と連投が来て「はあ?」とひとりで声をあげてしまう。すぐ通話着信がついて、私はさすがに舌打ちしつつ、応答をタップしてスマホを耳に当てる。
「二時だよ。何考えてんだよ」
私の開口一番に、一瞬ひるんだ空気が伝わってきたものの、『今返事してきたから、今は空いてるんだろ』と古村は言い返す。
「ちょっと目が覚めたら、着信に気づいただけだよ。眠いから、話あるにしても──いや待て、武上のスマホ勝手に見たの?」
『勝手には見てない』
「じゃあ、見せてもらったっていうの?」
『パス教え合ってるから。俺は嫌だけど、実留香が俺のスマホチェックするし』
「しそうだわ」
『だろ?』
「それでも、よく登録できたな」
『QRが保存されてた』
舌打ちをこらえる。今度、QRコードは更新しておこう。
「あんたのスマホに私が登録されてるのを、武上が見たらどうすんだよ」
『このスマホは仕事用で、実留香は持ってること知らない』
「この通話は仕事なのかよ」
『そういうわけじゃないけど』
私はふーっと息をつき、ベッドサイドに腰かけた。『今ひとりだよな?』と古村の声が耳元で響き、当たり前だけど、昔と印象が違うことに気づく。
「そっちこそ、武上いないの?」
『部屋に送って、俺も家だよ』
「実家?」
『そう』
「まだ実家なんだね」
『母親ひとりになるしな。親、離婚してるんだ』
「あー……そうなんだ」
やや言葉に迷ったせいで声がうわずると、古村が小さく咲ったのが聞こえた。「何」とむすっと言うと、『城嶋とまた話せてるんだなあと思って』と古村は返してくる。
私は居心地悪く身動ぎしたあと、「話って何なの」と話題を切り替えた。
『話っていうか……何か、話したかったから』
「それは話があるとは言わないな」
『そうだな。じゃあ──今度、会える?』
「何で会わなきゃいけないの?」
『……俺が会いたいから?』
「武上に言ってろ」
『実留香は俺が言わなくても──いや、むしろ、俺の頼みとか要望は聞いてくれないよ』
「そうだろうな。でも、あいつとは結婚も考えてるんだろ。言ってたじゃん」
『まあ……そうだけど。それは、子供が欲しくて焦ってるから……母親が孫期待してるし』
「武上のこと、好きじゃないの?」
『一緒にいると、疲れることは多い』
「何でつきあってんだよ」
『合コンで知り合ったんだ。あんなに押されたのって初めてで、何となく、追うより追われるほうが幸せになれるかもって思った。俺、彼女できても長続きしないからさ』
「ふうん……。私も似たようなもんだけどな」
『城嶋は結婚しないのか?』
「そこまでの相手にまだ会ってない」
『そっか。……そうなんだ』
真夜中の沈黙に、お互いの息遣いがこぼれる。
会いたい、って。そんなもん、会っちゃダメでしょ。かといって、武上と別れてからねとも言えない。別れてもらって、責任を取ってつきあうわけでもない。
いや、私も古村を嫌悪しているわけではないのだ。死んでも会いたくないとか、そういうわけではないのだけど──
「会う、ってさ」
『うん?』
「ごはんとかは、普通に行けないじゃん。武上ルールでは浮気になりそうだし」
『……そうだな』
「どこで会うの?」
『会ってくれるのか?』
「別に嫌ではないよ。ただ、武上に見つかって揉めるのはやだ。めんどくさい」
『じゃあ、こないだの公園とか。地元なら実留香は現れないし』
大人ふたりが公園で会ってどうすんだよ、とは思っても、それ以外の待ち合わせ場所も特にない。「分かった、日時はまた連絡して」と私が言うと、『いいのか?』と古村は再度確認してくる。
「そっちこそだわ。私は特にやましい相手いないけど、古村には武上がいるんだよ?」
『………、それでも、いいから。城嶋には迷惑かけないから』
何でそんなに切ない声出すかなあ、と思いつつ、「……っそ」と私はため息混じりに言う。
「じゃあ寝るわ」とスマホを耳元から離そうとすると、『おやすみ』と古村の声がした。私はちょっと躊躇ったものの、「おやすみ」と応じて通話を切る。
そうしてそのまま、ベッドにくたりと横になった。
会う、ことになってしまった。これ、誰にも言えない奴じゃん。糸依にさえ、相談できない案件じゃん。彼女持ちの男と分かっていて近づくなんて、そんなことだけはしてこなかったのに。
恋愛絡みで会うわけじゃないからいいのか。いや、古村に下心がないと言い切れる? もし、またキスをしたいと言われたら。もう一度あのキスができると思ってしまったら。
私はうめいてまくらに顔を伏せ、「バカ」とつぶやいた。
こんなの、始まってはいけない。セーブしなきゃ。分かっていても、ざらざらと心臓はざわめく。夢の中の幼い古村の「好きなんだよ」がよみがえって、急に息苦しくなりながら、私はあんたのこと何とも想ってないよ、と念じるように思った。
十月になっても、残暑がなかなかに厳しい。夜は気温が下がるようになったものの、その反動みたいに日中は暑くて、寒暖差で体調が狂いそうになる。
キーボードをたたく音が響くオフィスにも、クーラーがきいている。ふと終業である十七時が訪れた時報が響き、その瞬間、ふっと空気がやわらいだ。あくびの声や椅子のきしめきが、急にさざめきはじめる。
私も時間配分通りに仕事が終わり、うーんとうめきながら背伸びをした。それから、引き出しに入れていたスマホを取り出す。
『今日の約束、忘れるなよ』
古村からそんなメッセが届いていた。古村のメッセは、昼間に来ていることが多い。仕事用のスマホと言っていたし、仕事中にもいじることが多いのだろう。
『分かってますよ』
それだけ返して、私はスマホの画面を落とした。
そう、何だかんだで今夜、古村と例の公園で会うのだ。土日はもちろん古村は武上に会っているので、平日の夜しかないわけだ。その時点でかなり奴の都合なので、これ以上は流されるものかと思っている。
武上に捕まったら、今はうざったいというか後ろめたい。捕まらないようにさっさとオフィスをあとにすると、空は濃いオレンジ色の夕焼けで、アスファルトに行き交う人の影が伸びていた。この時間帯になって、やっと風は涼しさをはらむ。
古村との約束は二十時だから、部屋にいったん帰る余裕はある。別に気合い入れて会うこともないか、ぐらいに思っているけど、着替えぐらいはしていきたいから、ちょうどいい。
そんなわけで、一度部屋に戻った私は、着替えるついでにシャワーも浴びて、化粧も直しておいた。
公園はただの待ち合わせだろうなー、とスマホをバッグに突っ込む。ごはんは無理だとしても、お茶ならセーフなのだろうか。それの何が違うのか分からないけど。
十九時過ぎに部屋を出ると、帰宅ラッシュが続いて混みあう電車で、実家のある隣町におもむいた。
すっかり夜になったけど、公園は駅からすぐで、夜道だと騒ぐことはない。古村のすがたは、すでにそこにあった。仕事帰りのままなのか、スーツだ。同窓会の夜と同じベンチに腰かけて、スマホをやっている。
私は古村に近づき、「よう」と声をかけた。古村ははたと顔をあげて、街燈の中で「よう」と同様に返してくる。
「そのスマホ、どっち?」
「え? ああ、プライベート」
「じゃあ、武上?」
「まあな」と答えながら、古村はスマホをポケットにしまう。「いいの?」と訊くと、「つきあってたら無限だから」と古村は肩をすくめる。「愛されてるよね」と私が隣に座ると、「たまに依存っぽいけどな」と古村は苦笑する。
「自分は人に甘えて当然と思ってるし」
「分かるわ」
「教育係だったんだもんな。大変だっただろ」
「自分には指導力がないのかって泣けてきた」
「はは。俺にも甘えたいときぐらいあるのになー……」
私は古村を見て、「だからって私に甘えんなよ」と釘を刺した。古村は小さく咲うと、「もう甘えてるのに」と私の髪に触れる。わずかにどきんと肩が揺れる。
「正直、来ないかもって思ってた」
「……約束は守るよ」
「うん──」
「来なくてよかったなら帰る」
「ダメ。……ありがとう。ほんとに嬉しいよ」
古村の指が、私の髪をたどる。
今夜も虫の声が澄み渡っている。夜の公園に、ほかに人影はないようだった。
「城嶋って」
「ん?」
「これまで、つきあった奴とかいる?」
「いないと思ってんの?」
「まだ出逢ってないとか言ってたから」
「………、ふわっとつきあって、ふわっと別れる感じ」
「ふわっと」
「誰かと『好き』っていう気持ちが釣り合ったことはない気がする」
「なるほど。今、好きな人もいない?」
いない──と言おうとして、「そういや、いたんだよなあ」と不意に思い出す。
「『そういや』って」
「彼女できたとか言ってきたきり連絡ないし、こっちもしないし。片想いで終わった感じ」
「……そっか。城嶋も、片想いとかするんだなあ」
「私、そんなモテないよ?」
「俺には憧れだから」
「美化するなよ」
「してないよ。昔の城嶋はよかったとか思うなら、会わないし」
「……まあ、そうだけどね」
「城嶋はかわいいよ。昔も、今も」
ストレートな言葉に少し目を開いてしまった拍子、古村は身を乗り出して、口づけてきた。
あ、やばい。
突き放さなきゃと思ったけど、やっぱり古村のキスは蕩けそうな舌遣いで、私は脱力しないように、むしろ彼のスーツをつかんでしまう。私がそうしたことで、古村も私の軆を抱きしめてきた。
口の中の熱が混ざり合って、唾液の水音が跳ねる。ああ、もうダメ。何でこんな頭がしびれてくるようなキスなんだろう。
「……城嶋、」
少し唇を浮かせて、古村はかすれた声でささやいてくる。
「店とかは……行けないから、俺の家行こ?」
私はぎょっとして、古村の瞳を見た。
こいつの家? いや、それはごはんやお茶より問題があるのでは。
「お、おかあさんが……いる、って」
「かあさんは実留香には会ったことないから」
「じゃあ、私は武上を演じておくの?」
「……いいよ、城嶋のままで。もう何でもいい」
「何でもいいってねえ──」
「今夜は城嶋を俺のものにしたい」
「いや、あんたのものになるつもりはないけど」
「それでも、今夜は俺といてくれるだろ」
「……少なくとも、終電には帰るものかと」
「帰さない」
古村は私の瞳を瞳で射抜き、私の手を握りしめながらキスを繰り返した。
ああ、もう。こいつ、けっこうひどいことしてるよね? 武上がいるくせに、初恋の想い出を捨てきれずに、私にこんなことして。
突き飛ばさなきゃ。私に甘えられても困る。まだ武上がいないのなら、関係を考えてもよかったのかもしれない。でも、古村は武上の手を取ったあとなのだから──
もがこうにも抱きすくめられていて、甘く麻痺する軆では身動ぎもできない。あの日とは違う、もっと執拗な息ができないキス。
今夜、だけ。今夜だけなら、いいのかな。それで、始めたりしなきゃいいのかな。
──ほんとに、始まらないの?
「城嶋、ぜんぶ俺の責任でいいから」
「古村──」
「今の俺、最低な奴だよな。でも、城嶋と再会できて本当に嬉しいんだ。忘れられなかったから」
「……小学校のときだよ」
「そうだな。でも、城嶋に告白できなかったことを、俺は一生後悔するだろうって思ってた」
やはり確かに、現実で古村に「好き」と言われたことはないのだ。私は古村の肩に額をあて、「私が好きなの?」と訊いた。「好きだよ」と古村は躊躇することなく答える。
「城嶋のことが、あの頃からずっと好きなんだ」
私は半眼になって、ため息をついた。
揶揄われてたもんなあ。城嶋が好きなんだろって言われて、否定は絶対にしてなかったっけ。
古村は軆を離すと、ベンチを立ち上がって私の手を引いた。
ついていったら、たぶん地獄。人として最悪。女として卑怯。
分かっているのに、私は古村の手を握り返して、ベンチを立ち上がった。
【第五話へ】