紅染めの糸-1

大失恋

 ああ、何かもう最悪だ。マジで死にたい。世界が終わったみたいだ。
 ずっと……生まれてからずっと、目も振れずに好きだった女に、彼氏ができた。
 ひと晩じゅう、女々しくまくらに顔を突っ伏していた。
 すずめのさえずりが耳に障り、朝が来たのに気づいた。意識のブレーカーを落として絶望していたら、夜は終わったようだ。
 涙は出なかった。むしろ頭の中は砂漠のように乾き、起き上がろうとすると、潤った重心がなくてくらくらする。
 広亜ひろあの笑顔が、ひずむ脳裏に残像している。黒髪ストレートのボブ、大きくて目力の強い瞳、ふっくらした頬や唇。
 女らしい服装はそんなにしないのに、スタイルがいいから、ボーイッシュには見えない。
 五歳年上、いつも大人ぶってクールなくせに。昨日、この部屋に来たとき、やけにかわいい笑顔だと思った。でも、「かわいい」なんて台詞は、幼なじみには一番言えない。
香凪かなぎに一番に教えてあげる」
 広亜は、よく俺の髪に触れる。そのときもベッドサイドに並んで腰かけ、俺のいくらブラッシングしてもぼさつくこの髪を指先でほどいていた。
 広亜の指の気配が髪に伝うと、本当は鳥肌が立つほどどきどきする。
「何?」
 無表情に、でも話には食いついて。懐いていないように、だけどそっけなくないように。
 この距離感を、俺は平均台を歩くみたいに実はひどく神経をはらって作っている。
「こないだの卒業式でね、ついに片想いの相手落としたよ」
 は?
 まだ好きに髪をいじらせながら、さすがにぽかんと広亜を見た。広亜は俺の反応が取れて満足そうににっこりとしてから、俺の頭をくしゃくしゃっと撫でる。
「つまりー、あたしにも彼氏ができましたっ」
「……マジ、で」
「うん!」
 待て。ちょっと待て。
 彼氏? 広亜に?
 混乱して頭から血の色が蒼くなっていく。
「片想い、って」
「そう、ずっとしてたの。高校三年間、結局そいつだけ見てた。長かったなー」
「そんなの、いたのかよ」
「いるよ、それくらい。ほんとは一度振られたんだけどね、ねばって逆告白受けました」
「……趣味悪いな」
「るさいなっ。確かに大変だったけどね、あたしなんかが振り向かせるの。というか、あんた、とりあえず『おめでとう』くらい言ったらどうなの」
 違、う。違う!
 趣味悪いだろ。お前を一度振った男なんて。
 そんな男で幸せそうな顔すんなよ。俺なんか、生まれたときからお前がそばにいて、だから、いらねえこともふくめてお前を知ってて、それでも──
 お前が好きだったのに。
 ──ゆっくり、慎重な動きでベッドの上に起き上がった。ぎし、とスプリングが鬱陶しそうに軋む。自分で髪をくしゃくしゃにかきむしって、「くそっ」とつぶやく。
 まだ乾燥しためまいがする。視界がカーテン越しの朝陽をうつろう。ふとんを軆から剥ぐと、まだ三月の上旬だから寒気が走る。
 気分はやっぱり最悪で、夢じゃない吐き気がする。昨日、広亜がいつのまに帰ったのか憶えていない。
 彼氏。広亜に彼氏ができてしまった。
 ずっとずっとずっと、好きだったのに。十三年間、クラスの女子なんか見もせずに好きだった。意地悪されたり、揶揄われたり、いつも子供あつかいだったけど、身長さえ追い抜いたら告白するつもりだった。
 あとちょっとだった。たぶん数センチ。何だよ。三年前から俺の恋は終わっていたのか。あるいは、もっと早く告白していたら変わっていたのか。
 ──変わるかよ。年下で。背も低くて。昔わんわん泣くのをあやしていた相手で。そんなガキ、「男」として見ろというほうが無理だ。
 何とかベッドを起き出して、迷彩フリースのパーカーを羽織ると、パジャマのまま一階に降りた。
 スーツを着たとうさんはダイニングで食事を取って、同じく出勤をひかえるかあさんは洗濯物をかきあつめていた。ぼんやり現れた俺に、かあさんは「もう、何で着替えてこないの」と文句を言い、とうさんは「おはよう」と言って意味深ににやりとする。
「聞いたぞ」
「はー……?」
「広ちゃんに彼氏ができたらしいな」
 椅子にかけた手をぴくっと止め、小さく舌打ちする。この父親は、いつも妙に鋭い。
「女の子は、早く予約しないとどんどん持っていかれるぞ」
「別に。どうせ広亜とかすぐ振られるし」
「ほお? お前がそこにつけいれられるか見物だな」
 顰め面でとうさんの正面に座ると、俺はマーガリンの箱を取って、皿の上に用意された香ばしいトーストにがりがりと塗った。
 今すぐ俺のパジャマを回収できないと察したかあさんも、朝食を取ることにしたのかとうさんの隣に腰をおろす。
「かななんて、どうせ広ちゃんには相手にされないわよ」
「かなって呼ぶのやめろよ」
「広ちゃんには幸せになってほしいわね。いい男の子だといいけど」
「一度広亜を振ったらしいよ」
「ってことは、広ちゃんは何度もアタックしたわけね。あの子らしいわ」
「広ちゃんは見た目がいいからなあ。それに釣られて、あっさりつきあう男よりよっぽどいいかもしれないな」
 何にも言えない代わりに、ざくっとトーストを噛みちぎった。マーガリンの塩味が舌で蕩ける。
 両親は目を交わして、くすくす笑っている。広亜が好きだなんて、言ったことがないのに。この両親はいつも見通しているから、ときどき恥ずかしくて、ムカつく。
 きっと、俺よりふたりのほうが分かっている。告っても何も変わっていなかった? 言い切れるかよ。しょせん行動しなかった事実は、ビビっていたのと同じだ。
 冷たすぎる水で顔を洗って、ミントの歯磨き粉で歯を磨いて、部屋でパジャマを学ランに着替える。そして、かばんの中の今日持っていく教科書やノートを確認して一階に戻る。
 かあさんは洗濯物をまとめて、とうさんはネクタイを締める。
 俺たち一家は、だいたい毎朝揃って家を出る。とうさんとかあさんはチャリで駅に向かい、俺は徒歩で、もうじき一年生を終える中学に向かう。
「おはよー」
 無意識にそう言いながら、一年近く過ごしている二階の教室に入る。「おはよー」という声がどこからか適当に返ってくる。
 カーテンを開けられた教室は、朝陽とざわめきできらきらしている。眠い、と席に着くと、そのままごつんと伏せり、まぶたを腫れぼったく動かす。
 やばい。マジで眠い。昨夜の記憶はないけど、眠れたわけじゃない。
天智あまち」と名字を呼ばれても無音でつぶれていると、「スルーかよ」と後頭部を小突かれる。この声は、このクラスでそこそこ仲良くしている葛井くずいの声だ。
 俺はゾンビのような声を垂らし、のっそりと顔を上げた。
『むり。ふられた。』
 突然、そんなひと言があるスマホの画面が目の前にあった。え、とまばたきをして、しかもそれが俺の名前からのメッセだと気づく。
 俺は慌ててかばんからスマホを取り出し、画面をタップして履歴を見た。
『むり。ふられた。』
「お前、告ったのか?」
 突き出していたスマホを引っこめ、葛井はこまねく。
 俺は焦ってスマホを操作する。
「記憶がない」
「は?」
「やべえ、このメッセの記憶がない。ほかにも送ってないよな」
「俺にはこれだけ」
 冷たく絞られていく血の気にトークルームをチェックしたものの、さいわい、葛井に送っただけのようだった。
 心からほっとしてため息をついて、重たく背もたれに寄りかかる。葛井もスマホをポケットにしまい、つくえに手をついてくる。
「告ったのか、姉御幼なじみに」
「告ればよかったのだろうか……」
「どっちだよ」
「いや、……彼氏ができたって」
 げっそり報告すると、葛井は「あー……」と言いながら空中を仰いだ。俺はそれに目を眇める。
「何だよ、その微妙な反応」
「何とも言えんわ。ぐずぐずしてたもんなあ、お前」
「っせえな。十三歳にとって十八歳は果てしなく遠いんだ」
「おばさんと言って差し支えないな」
「……おばさんだよなー」
「ま、クラスにでも新しい好きな奴作れよ」
「クラス、来月変わるし」
 頬杖をついて、またため息をつく。
 新しい好きな奴。そんなもん、とうてい無理だ。
 俺は気づいたら広亜が好きで、広亜だけ見てきて、ほかの女なんて目もくれなかった。いまさら、広亜以外の女の魅力なんてどこに見つければいい?
 広亜以外の女に見蕩れるとか。どきどきするとか。満たされるとか。
 そんなのは想像もつかない。途方もない低確率の話で、考えるだけでだるくなってくる。
 十三年間だ。俺の今までの人生だ。広亜は隣の家に住んでいて、俺が生まれたときから遊び相手になってくれていた。
 赤ん坊だった俺は、どんなにうるさく泣いていても、広亜に手を握られると落ち着いていたらしい。無意識のときからその温もりに安心して、きっといつか、その体温は俺のものにすると思ってきたのに。
 そうなって当然だとさえ、どこかでは思っていた。驕っていた。広亜には、俺は男じゃなかった。弟みたいなものに過ぎなかった。
 でも、ずっとそばにいたのも、いつも隣にいたのも、俺じゃないか。何でこの気持ちの可能性も考えてくれないんだよ。どうして平然と報告するんだよ。俺が傷つくなんて思いもよらないみたいに。そこは思い上がってくれよ。
 俺には、広亜に彼氏ができるなんて、喉をかっきられるほどむごくて痛いよ。

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