紅染めの糸-2

理解不可能

 その日は授業中にさんざん居眠りをしてしまい、でも俺はしかられてもぼうっと無気力で、先生たちは逆に俺の調子を心配しはじめるほどだった。クラスメイトたちにくすくす笑われると、見事広亜を見知らぬ野郎に奪われたことを嗤われている気がして、恥ずかしくて情けなくて、さらに気が滅入った。
 眠気と自己嫌悪で、日が昇るほど朦朧としていく。やっと昼休みになると、次の授業サボろうかな、とふらりと教室を出て校内をふらついた。しかし、結局は定番の逃げ場であるトイレを覗いた。
 この中学のトイレは、生徒のいい加減な掃除だけでなく、清掃員が入ってしっかり掃除してくれているので、悪臭や黒ずみもなくて綺麗だ。
 ここでスマホでもやっとくかなあ、と目をこすってアイスブルーが基調のトイレを見まわしてみる。そうして、ふと一番奥の個室が閉まっているのに気づいた──と同時に、艶っぽい息遣いと荒っぽい衣擦れが聞こえてきた。
「あ、っ……」
 え。
「そこ……もっと、」
 女の声。
「だめ……あ、」
 え。何。何だ。
 ちょ、ええと、これは──そこで誰かエロ動画でも見てんのか。
 と、思ったのを否定するように、がたんっと狭い個室で確かに人が揉みあっている音が響く。
和琴わことく……休み時間、終わっちゃう……っ」
「サボればいいだろ。そっちに手えつけ」
 うわ。何だこれ。
 やばい。エロい。俺まで反応しそうなんですけど。
 というか──この女のほうの声、聞き憶えあるな。まさかクラスメイト?
 いや、違う。そう、校内でけっこう有名なあの女子だ。
 名前は何だったか。誰とでもやるあいつ。そう、教師とだってやる。だから、風紀を乱しまくっていてもいっさいお咎めなしの、この校内一ビッチ──
「あっ、だめえっ」
 ひときわ声が大きくなって、「えっ」とか思わずビビった声がもれた。
 一瞬、音が止まる。
 ……やばい。
「だ……れか、いるよお」
「ほっとけ。あー、いきそう」
 喘ぎ声が高まる。荒い息がつづまる。ぶつかる音が濡れる。次第に、リアルな音は聞こえよがしになってくる。
 俺は小さく舌打ちして、誰来ても知らねえぞ、とこっちの下半身まで盛り上がる前に、急いでトイレを出た。
 冷静に拒否したつもりだった。それでも、やっぱりかなり焦っていたのか、入口でちょうどトイレに入ろうとしていた生徒と真正面からぶつかってしまった。
「あ、ごめんっ」
「いや──」
 目に入ったのは青の名札だった。二年生だ。慌てて言い直す。
「すみません、前見てなくて」
 言いながら、残像するあの音や声に心臓がどきどきと脈打っているのを飲みこむ。
 顔を上げると、冷ややかなほど怜悧な印象の眼鏡をかけた先輩がいた。
「僕は気にしないで。君は大丈夫?」
 口調は意外と優しい。
「だ、大丈夫です。あ、今、このトイレやめたほうが」
「……みたいだな」
 ここまでかすかに声が届いている。
 自重しろよ。してくれよ。学校で前かがみにさせるなよ。
「まったく、毬実まりみの奴……」
 マリミ──。
 そう、深月みづき毬実まりみだ。この校内で有名な、売春婦みたいにどんな男でも受けつける、とんでもないビッチ。
 深月の知り合いの先輩だろうか。息をついた先輩は、「もう休み時間が終わるから」と俺の肩をたたくと、どういうわけかトイレの中に入っていった。
 え。何で。今、すごいことになってるのに。
 そう思ったけど、問いかける理由も隙もなくて、俺はおとなしく教室に戻った。
 エロい喘ぎ声がまだ耳に残っている。今晩抜くのは確定だ。いや、かなり腰がもやもやするし、いっそ帰る前にどこかのトイレで抜こうか。
 ゆらりと教室に入ったとき、予鈴のチャイムが鳴った。あんなに重かった眠気さえ、行き場のない性欲にすっかり負けていた。またチャイムが鳴り、授業が始まっても、下半身の焦れったさを硬く集中させて吐き出すことしか考えられなかった。
 五時間目、六時間目、すぐ放課後になった。
 失恋で参っていたくせに、生々しい現場に完全に気を取られている。ホームルームが終わると、さっさと荷物をまとめて教室を出た。
 そうだ。もういきなり広亜が来て、俺の部屋のドアを開けてくることもない。エロい画像を見て、あの声を思い出して、よし、まず抜こう。抜いて落ち着こう。
 下校にざわめく靴箱に着いて、そそくさと上履きをスニーカーに履き替えていたときだった。
利斗りとくーん!」
 どきっと肩がこわばる。下校のさざめきの中でも際立つ、その無邪気な女子の声は、あの昼休みの蕩けた声に通じるものがあった。
 まさかと顔を上げると、目の前を長い髪をなびかせるセーラー服すがたが横切っていく。それを目で追った俺は、はっと目を開いた。
 午後の陽光が射す昇降口に、あのとき、トイレですれ違った眼鏡の先輩が立っていた。女生徒──深月毬実は、その先輩の隣で止まって、親しげに腕に腕を絡める。先輩はその露骨な密着はほどいて、でも代わりに手をつなぐ。
 周りにちらちら視線を向けられながら、ふたりは少し話をして、並んで階段を降りてその場を去っていってしまった。
 えー……と。何だ、あれ。
 いや、ヤリマンビッチのくせに、深月が二年の先輩を彼氏にしているのは聞いたことがある。相手までは知らなかったが、どうやら、あの眼鏡の先輩がそれだったのか。
 だが、あのときトイレで深月は確実に別の男とやっていた。もしや、あのあとトイレは修羅場だったのか。無論、深月は浮気はしょっちゅう、なんてもんじゃなく、淫乱がデフォだ。
 その他大勢はもちろん、中でも同じ一年の御門みかど和琴わこととはよく一緒にいる。……って、思い返したら「和琴くん」って言ってなかったか、あのときの喘ぎ声。
 どのみち、深月の浮気なんて御門に限ったことじゃない。告られたらとりあえずやらせる。深月は絶対に拒絶しない。
 眼鏡先輩は、不良どころか優等生に見えた。正反対のふたり相手に、何やってんだあの女。
 というか、現場に平然と立ち入った眼鏡先輩は、まさかすべて承知でビッチの彼氏をやっているのか? 眼鏡先輩のルックスは、同性から見ても絶対モテるのに。わざわざあんな淫乱女なんて選ばなくていいじゃないか。
 傷つかないのか?
 開き直れるもんなのか?
 好きな女がほかの男と──
 タイムリーに失恋している俺は、分からん、と首をかしげてしまう。
 第一、深月。お前はどういう神経なんだよ。彼氏がそこに来ているのに、浮気相手と喘ぎ声を上げてるって。女としてというか、人として最低だ。
 スニーカーを履き、俺ならあんな女だけはないな、と何だか興醒めして、あんなにむずがゆかった下半身のもどかしさもどこかに消えてしまっていた。

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