約束
授業がよく分からないのは錯覚ではなかったようで、中間考査の結果は微妙だった。
俺ってこんな頭悪かったっけ、と正直焦ってくるレベルで、二年になって一気にどの教科も先生たちの解説がややこしくなった。塾とか行ったほうがいいのだろうか。行きたくないけど。金出してもらえるかも分からないけど。
それでも、補足がないと、来年の受験ではマジでパニックになるかもしれない。俺はそんなことで悩んでいるのに、あの女は九十点台どころか満点まで獲得して、先生に褒められているのだから、本当に納得がいかない。
やってるだけのくせに。やってるだけのくせに。何でそんな点数だよ。いつもやってるだけのくせに。
このクラスが始まってしばらく経ち、それでも友達を作れないぼっちが誰なのかも分かるようになってきた。今にもターゲットになりそうなその男子生徒は、いつも顔を伏せて、周囲の笑い声に窮屈そうにしていた。
だが、ある日を境に、いきなりクラスメイトに囲まれ、楽しそうに笑っているようになった。数日前、そいつは深月に声をかけられ、一緒に教室を出ていっていた。クラスメイトはそれを見たから、もうそいつを見下せなかった。
みんなと話せるようになったそいつを見て、にこにこ嬉しそうにしているのは、やはり深月だった。俺の席まで聞こえてくる声によると、案の定そいつは、深月によって「男」になったらしい。そんなふうに、深月とやった奴は、名誉を得たように周りから認められるようになる。
そんな妙な慈善便所を提供しつつ、深月は相変わらず神楽先輩とつきあい、御門と下校したりもしている。
ある休み時間、深月の不在中に、この教室で神楽先輩と御門がかちあったことがあった。教室にいた生徒はみんなひやりとしたと思う。その硬い空気を感じ取ったのかどうか、御門のほうがおもしろくなさそうに教室を出ていこうとした。
が、「おい」とそれを神楽先輩が呼び止める。
「お前、髪をいい加減黒に戻せと言っているだろう」
右手を腰に当てる神楽先輩に、御門はもともと鋭い目を眇め、「知るか」と吐き捨てる。
「俺の好きにしていいだろ」
「本来なら茶色でも問題のところを、」
「っせえな、毬実との約束忘れたのか?」
「忘れたわけじゃないが──」
「じゃあ、勝手にさせろ」
舌打ち混じりに御門は吐き捨て、雑談が消え入っている教室を出ていった。それを見送った神楽先輩は、息をついて目を伏せる。
クラスの沈黙が引き攣りながらも途切れて、また何気ないざわめきが始まる。
俺も話していた友達に向き直りつつ、約束、という御門の言葉を反芻した。
何だろう。意味深だ。深月との約束。優等生の神楽先輩とつきあいながら、正反対な不良の御門と公然と浮気する深月。
実際、この三人はちょっとおかしい。やはり、あの三人の中には何らかの秘密があるのだろうか。
「あ、利斗くん」
そのとき、そんなのんきな声と共に、深月が教室に戻ってきた。神楽先輩のすがたにぱっと笑顔になって、手にしていたハンカチをスカートのポケットに入れて、自分の席に駆け寄る。
「どうしたの?」
「ああ、今日帰りに生徒会長室に寄れるか訊こうと思ってな」
どくっと心臓がうごめく。それは──ただの業務事項に聞こえるけど。きっと、そうではないのだ。
「うん、大丈夫!」
「そうか。じゃあ、迎えにくるからこの教室に残っていろ。あと、昼休みが終わったら教室に戻るようにしろよ。先生から伝えるように言われた」
「えへへ、分かったー」
褒められていないのに照れたように咲う深月は、ときどき、五時間目に現れない。昼休みのまま、ずるずるとどこかで興じているのだろう。先生が直接言えばいいのに、そうせずに彼氏の神楽先輩に言伝るということは、ある意味容認するということなのか。
友達が漫画の今週号を熱く語ってるのを聞き流し、深月と神楽先輩を横目でぼんやり見ていた。このふたりもそういうことしてんだよなあ、とその視線はくたびれてくる。
そんなふうには見えなくても、あの小雨の日、確かにそんな声をもらしていた。何かやだなあ、と謎の嫌悪感で思っていると、神楽先輩は教室を去って、深月は席につき、例によって教科書を取り出しはじめた。
季節は、梅雨にさしかかっていた。今日も空は降り出しそうな灰色で、晴れ間は覗きそうにない。空気はむしむしした湿気る匂いがして、少しだけ暑かった。
昼休み、深月は御門と消えて、でも神楽先輩の言いつけが効いたのか、五時間目には戻ってきた。何事もなかったような顔、髪、服をしている。けれど、俺はそんな何もなかったようなそぶりが、かえっていらつく。
外と真逆の異様な明るさで電燈が教室を映し出す中、わけが分からないなら余計にちゃんと聞かなきゃいけない授業が、頭を素通りしていく。
何でだろう。神楽先輩も。御門も。ほかの野郎共だって。
俺はそんなにおかしいのだろうか。好きな女が、あんなに軽薄で、なぜ平気なのか。ほかの男とやりまくっている女なんて嫌だ、という奴はいないのか。もしくは、誰も深月を独占したいとは思わないのか。
俺はずっと広亜が好きだった。いや、今でも好きだ。吹っ切れていない。でも、広亜がほかの男とつきあいはじめて、「終わった」とは思っている。
広亜は浮気なんてする女ではない。浮気相手になんか、俺だってなりたくない。みんな、浮気でもいいから深月が欲しいのか。浮気されてもいいから欲しいのか。
確かに、深月はかわいい。でも、そこまで本気になる価値や魅力のある女だとは思えない。それに、浮気でもよくても、浮気されてよくても、そんな恋心は本気だと思えない。
何よりも、深月自身はそんなふうに想われて幸せなのか? あるいは、俺しかそこに気づいていない? それなら、このもやつきを解消するため、深月に言わなくてはならないのは──
放課後、雨が降り出した。深月は窓際で銀の糸を眺めていた。
友達に「ばいばい」と声をかけられると、屈託ない笑顔で応えているが、ガラスを向いてぼんやり映った顔は妙に虚ろに見えた。丸襟の白いシャツの背中をちらちらと見て、いつ話しかけるべきか迷っているうちに、クラスメイトたちはどんどん消えて、教室は雨音が響くほど静かになっていった。
あまり、人に見られている中では話しかけたくなかった。勘違いされたくない。そういう目的ではないのだ。
でも、何をどう言うのだろう。お前はそれで幸せなのかとか、いきなりおかしな質問はできない。神楽先輩と御門の気持ちは考えるのか。いや、俺もあのふたりの真意など分からないのに、引き合いには出せない。お前、ただの便器と変わらないぞ。さすがに、そこまで言う勇気はない。
どう言えばいい? どう言えば不自然ではない? つかめないしっぽにぐるぐる思い巡らすうち、何で俺が深月にそんな気をまわしてやるのかと、捨て鉢に思考がそれてくる。
いや、不愉快だからだが。見ていて気分が悪いからだが。でも、彼氏でもない俺のために貞操を持てと押しつけるのも変な話ではないか。俺は深月にとって何でもないクラスメイトだ。
やっぱ帰ろうかな、と抱えていた頭を上げ、思わずびくっとした。胸元の赤いリボン。いつのまにか真正面に誰か──もっと顔を上げると深月がいて、俺は目を開いてしまう。
ほかに残っているクラスメイトはいなくなっていた。
「頭痛いの?」
きょとんと口を開いた深月は、息を飲む俺に、あどけないまばたきをした。
「は?」
「頭抑えてたから」
「あ、ああ──まあ、ちょっとな」
「大丈夫?」
「平気」
「そっか」
俺は息をついて、後頭部をかきむしる。激しい雨が鼓膜を圧する。
今だ。今、言え。言ってしまえ──
「天智くんと話すの、初めてだね」
「え? そ、そうか?」
「そうだよー。前、利斗くんと生徒会長室の前で会ったときは、無視したじゃない」
気まずくて下手くそに笑ったりなんかしてしまう。スルーには気づいていたのか。まあ、そのへんは鋭くて当然か。
「そういえば、結局その風紀委員の話はどうなったの?」
「あ、風紀委員長が朝礼で制服チェックを厳しくする話をして、それでも変わりなかったら、先生の言う通り、朝の点検に風紀委員が混じることになった」
「あっ、そういえば、朝礼で風紀委員さんが服装の乱れの話してたね。わ、でもみんながだらしなかったら風紀委員も動くのは今知った。怖いなー」
「そうか?」
「利斗くんがそうしろって?」
「まあな」
「利斗くんはまじめだからなあ」
深月を見た。細い首をかしげて、ウェーヴの髪を流している。
まじめ、か。お前、そんな先輩をたぶらかしてるよな。
そう言いそうになった俺を、深月も見たときだった。
「毬実」
落ち着いた声が割って入って、はっとした。開けっ放しの教室のドアのところに、神楽先輩が立っていた。
やばい、ととっさに冷え切った汗が噴き出す。最悪だ。誤解される。そんなつもりはなくて、むしろ俺はこの女の淫乱ぶりを止めようとしているくらいだったのに。
もうそんな目的も忘れて、慌てて席を立ち、フックのかばんをひったくってつくえに椅子を押しこむ。
「天智く──」
「じゃあなっ。無視は、その、悪かった」
深月は、ぱたぱたと睫毛を上下させる。俺はつかつかとドアに向かい、「君、」という神楽先輩の声には会釈して、教室を出た。ドアも滑らせ、教室と自分をさえぎる。
「何だ?」という神楽先輩の声が聞こえて、「分かんない」と深月は嘘でもないだろう答えを返している。
焦った。そうだ、深月が残っているのばかり考えて、神楽先輩がやってくるのを忘れていた。勘違いされただろうか。
いや、俺は深月に何もやましいことはしていない。俺は深月にひと言言ってやろうと思った。それで残っていて、いつのまにか深月と教室にふたりきりになっていた。しかし、結局まだひと言も言っていなかった。
状況を思い返し、悪くないよな、と深呼吸する。そうだ、俺は深月に何もしていなかった。言おうとしていたことだって、どのみち忠告だった。深月を誘おうとしていたわけではない。
というか、俺はバカなのか。どうせ、何か言ったってどうにもならないのに。俺がわざわざ何かを言わなくてもいいのだ。だって、深月のことなんか、俺には関係な──
「誘ってた?」
ふと教室内から、ドア越しに神楽先輩の声が聞こえた。どこか、いつもの穏やかな口調が違う感じがして、ドアを振り返って息を止めてしまう。
「そんなんじゃないよ」
「へえ。じゃあ、確かめていい?」
足音がドアのそばを離れる。どさっと荷物を下ろす音がして、がたん、とつくえが動いた。
「利斗く、」
「脚開いて」
心臓が跳ねる。何。何なんだよ。そう感じて、もう立ち去りたいと思うのに、なぜか足が動かない。
神楽先輩の低い笑い声が聞こえた。
「濡れてるね」
「……だって、」
「あいつとするの考えた?」
「そんなの……は、」
雨音でその音は聞こえないけど、その光景はなぜか頭にはっきりイメージされて映った。つくえにもたれて手をつき、脚を開く深月。下着越しか直接かまでは分からないけど、その濡れたところに神楽先輩の指が這う。
「利斗……く、」
「ここ気持ちいい?」
「気持ち、い……っ」
「ここ、こうされるの好きだろ?」
「好き……、あっ……」
「脚もっと開いて」
がたがたとつくえか椅子を動かす音がする。
「もうこんなに赤くなってる」
「あ……早く、っ……」
途中まで言って、液体をすするような音が被さった。深月の声がひときわ艶めかしい甘みを帯びる。
「すごく濡れてきた」
「気持ちいい、もっと……もっといじめて」
「恥ずかしいね、そんなお願いするなんて」
どきん、どきん、と黒い靄がまたこみあげてくる。
何だよ。また、何だっていうんだよ。深月の甘美な喘ぎが、生徒も引いた廊下にうっすら流れる。誰か来たらやばいだろ。というか、このふたり、俺がここにいることには気づいてるのか?
「入れるよ」
俺のほうがわけも分からない沸騰して頭が熱いのに、神楽先輩の冷静な声がする。ついで、たぶんふたりぶんの体重にかけられたつくえが、大きく動く音が響き渡った。
「すごいな、いつも。毬実のここは」
動きに合わせて、つくえが低く軋む。
「ここをこうすると、もっと締めつける」
「あ、もっと、そこっ……」
卑猥なよがり声が、鼓膜から頭に沁みこんで、見たくない情景がせりあげてくる。
たくし上げられたスカート。秘所を這う指。細い腰に繰り返しぶつかる腰。
「り……利斗く、」
「うん?」
「ま……守って、るよね、……っあ、約束、守って」
「守ってるよ。ああ、御門に何か言われた?」
「すこ、し。でも約束、っ……」
「分かってるよ。悪かった」
「んっ……あ、いや、いきそう……」
「ダメ。ほら、この上に座って」
「あ……、だめ、え……っ」
「まだだよ。それが約束だろう?」
約束。
約束って、何だ? やっぱり、深月のいびつさには事情があるのか。神楽先輩、そして恐らく御門も、それを知っているから、深月の極端な二股に何も言わないのか。
もしかして、俺は知らないうわさがあるから、みんなこんな深月を偏見しないのか。深月に劣情を向ける男。平然と仲のいい女。深月の何を知って──
いや、やっぱり、みんな何も知らない気がする。でも、深月には「何か」ある。そして、それがあるから神楽先輩と御門をかけもちしていて、ふたりは関係を承知している──
どんな理由があるのだろう。分からない。でも、それがどんなに“可哀想”なものだったとしても、やっぱり俺には分からない。理解できない、こんな気持ちの悪い淫らさ。
どんな約束かは知らないが、早くそんなもん破って、吐きそうなことはやめてくれよ。
聞きたくない。鉢合わせたくない。いい加減にしてくれ。
関係ないのに、そんなことを思ってしまう。そう、このときまでは実際俺は関係なかった。しょせん、深月が何を抱えていたって知ったことではなかった。
しかし、もう俺はその渦に巻きこまれようとしていた。
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