裏切りの亀裂
月曜日にも晴れ間は続いていて、俺は虚ろな眼つきで登校していた。できれば、傘で隈を隠したかったのに。頭の中を鉛が揺り返していて、目の奥が痛い。
騒がしい制服すがたが増えてくるほど、根暗な顔は害のようで伏せてしまう。学校来たくなかった、と今朝ベッドからなかなか出られなかったままどんより曇った心で落ちこんでいると、「天智じゃん!」と聞き憶えのある声がした。
誰だよ。今日は誰とも口をききたくないのに。そう思っても、仕方なく表情を繕い、振り返る。
それと同時に、俺の隣に並んで肩をたたいたのは、演技の顔しか見せていない今のクラスメイトではなかった。一年のとき、一番仲のよかった葛井だ。「あー」とか声をもらす俺に、「久しぶり」と葛井は苦笑した。
「背中が死んでたぜ」
「……まあ死んでるな」
「まだ姉御?」
「悪かったな」
「安定だなあ、お前は」
葛井はからからと笑って、その髪が一年のときよりわずかに栗色なのに気づいた。身長は俺のほうが低かったのに、同じくらいになっている。
「新しいクラスにはいないのかよ、いい女子」
「……分からん奴ならいる」
「お、マジか」
「どっちがというと、嫌いって意味で分からん」
「気になるんだろ」
「………、俺、深月毬実と同じクラスなんだよ」
「えっ」
「あいつ、何なわけ。男たらしまくって、見てて気分悪いんだけど」
葛井はまばたきをして、「まあ、あいつはそういう女なんだろ」と肩をすくめる。
「葛井も……何とも思わないのか」
「何とも、って」
「おかしくないか、あいつ」
「別に。寂しいんじゃね」
「寂しい……」
「あんまり、どうこう言えねえなあ。俺、あいつと小学校同じだったけど、小六のとき、まあ……あれだから」
「あれ」
「あれだよ」
「はっ? お前童貞じゃな──」
「声でけえよっ。……何か当たり前だったんだよ、当時は。深月でそろそろ捨てるかって感じだった」
「何だそれ」
「分かんねえ。でも、疑問はなかったな」
「今は?」
「どうだろ。まあ、便利な存在ってことでいいんじゃないのか?」
そんなもんなのかなあ、と例によって感覚が分からなくて首をかしげていると、学校に着いていた。
葛井は一番離れた一組にいるらしい。階段での別れ際、「深月で抜いちまえば楽になるかもしれないぜ」なんて言われて、「ざけんな」とはたいておいたけど、その日はちらちら深月のことを眺めてしまった。
いや、あんな女は嫌だけど。嫌だけど──心はそうでも、軆だけでも気分転換させるには、あいつは使えるのだろうか。
その肌に触れて、声を聴いて、つらぬいてみたら吹っ切れるものもあるのだろうか。まあ拒絶はされないだろうしな、とか投げやりなことを考えていると、視線に気づいた深月はにこっとしてきた。
どきりと視線を手元を抑えつけ、まあかわいいよな、と思い、思ってからかき消すように頭をかきむしる。
もやもやする。いっそやってしまえば、このもやもやだけでも晴れるのか。けれど、どう誘うのだ。みんなさらっと深月とやったと話しているが、どうやってあいつと事に及んでいるのだ。
一応、神楽先輩の成り行きや御門のやり方を見て──聞いているけれど。少なくとも、男からリードしていた。だが、俺にはリードできる経験がないし、かといって深月に任せるのも情けない。
って、何でもうやっちまう方向になってるんだよ、と不意に思考回路を自覚すると、いたたまれないほど恥ずかしくなる。嫌だけど。深月なんて、嫌なのだ。でも、広亜のことが苦しくてつらくて、気が紛れるなら何でもしたいとすがりたくなっている。
しかし、深月をどうやって誘うかなんて、考えなくてよかったのだ。きっと深月は、男のそういう気配を感じ取るのが天才的だから、関係をほのめかしても振られた、といううわさが決して立たないのだろう。
「天智くん」
まだ晴れているその日の昼休み、友達とたむろしてくだらない雑談をしていたら、そんな声がかかった。椅子に座っていた俺は顔を上げ、ついで心臓がどくんと跳ねる。友達もぎょっとした表情を浮かべた。
そこでにこにこしていたのは、深月だった。
「な……何だよ」
どもる俺に深月は首をかしげ、注目してくる俺の友達を見たものの、こちらに視線を戻して言ってきた。
「今日、一緒に帰れる?」
「はっ?」
声が裏返ってしまった。友達が失笑して、深月も睫毛をぱたぱたさせる。
俺は咳払いなどしてから、深月を見た。
「何で?」
「天智くんと話したいことがあるの」
「え、……と。じゃあ、今話せば」
「ふたりきりがいいと思う」
俺が変な顔になっていると、「大丈夫だよ」と友達が勝手に深月に答えはじめた。
「俺たち、どうせ方角違うから一緒に帰らないし」
「天智はいつも帰りはひとりなんだ」
「そうなんだ。じゃあ天智くん、一緒に帰ろ」
「いや、けど……」
「何か用事あるかな?」
「ないない、そんなもん」
「帰宅部だしな」
「お前らなあ──」
「天智くん、ほんとに大切な話なの」
俺は深月を見た。深月はじっと俺を見つめる。
大事な話。その目を見ていると、もしかして俺の下心に気づいた話ではないのかもとちらりと考える。
「話、だけだよな」
「うん。もちろん」
もちろん。もちろんって言ったな、こいつ。間違いなく言ったな。じゃあ、やましくないよな。
「それなら、まあ……分かったよ。ほんとに、話聞くだけな」
「うんっ」と深月は純白の笑顔になって、「じゃあ放課後ね」と自分の席に行ってしまった。友達が俺の頭や肩をつついてくる。「何にもねえから」とそれをはらいながら、何だよ、と俺は仏頂面になってしまう。
本当に、話だけだよな。とか、何で男の俺のほうがそんな心配をするのだ。
大丈夫だ、たぶん。話だけだ。まさか考えていたことを見透かされていたなんてない。いたとしても、そのことではない。誘われるなんてない。もし誘われたって、嫌なら拒否ればいい。そもそも、やっぱり俺は、深月では欲情できそうにない。
「神楽先輩はいいのか?」
放課後、深月は本当に俺の隣に来て、にっこり微笑んできた。俺はそれを一瞥して、何にもない、と自分に言い聞かせて席を立つ。ちくちく視線を感じるが、ほんとに何にもしないんだ、と背中で訴えておく。
並んで教室を出て、廊下の生徒の流れを見やりながら、俺は深月にそう訊いておく。
「うん。今日は天智くんと帰るって話してあるから」
話してんのかよ。残酷なのか信頼なのか、分からない。
外はちょっと雲が動きはじめて、陽射しはさえぎられていた。雨の前のあの湿った匂いがする。また夜あたりから降るのだろうか。靴を履き替え、昇降口の階段を降りると、抜けた風はぬるかった。
深月を盗み見た。やっぱり、中学生くらいだった広亜に似ている。そっくりとかそこまでではないが、目の種類が同じだなあ、と思う。ぱっちりとして、少し気が強そうで。
深月は俺を見上げ、また微笑んだ。広亜はこんなふうに、どこか媚のようには咲わないけれど。
「で、話って」
制服がにぎわう校門をくぐると、とっとと話題を持ち出す。深月はうなずいてから、「昨日ね」と口を開いた。
「見たの、私」
「見た」
「私、昨日は家族で映画に出かけてね。昼食はファミレスに行ったの」
俺は眉をひそめる。まさか。冗談だろ。そこはないだろ。だが、深月の瞳はまっすぐ俺を映している。
「そこで、天智くんが男の人と女の人と食事してるの見たの」
意識が空を泳いだ。とっさの舌打ちは殺したものの、目はそらしてしまう。あのふたりは自分たちの世界だったからともかく、はたから見たら俺の鬱屈はあからさまだったはずだ。
「三人でよく会ってるの? そんなふうには見えなかったけど」
「幼なじみ、だから」
「ふたりとも?」
「……女のほう」
「ふうん」
深月はやっと視線を前方に投げた。歩調に合わせて、ウェーヴの髪が揺れる。ばつが悪くて息をつくと、深月はまた目をこちらに向けた。
「好きなんだよね」
「は?」
「女の人のこと」
「……いや、」
「そんな顔してた」
深月を見つめた。くそ、気まずい。いや、こいつもそれに気づいたから、こうしてお節介なのか詮索なのか話しかけてきたのだろうが。
「幼なじみってことは、ずっと好きだったの?」
「……まあな」
「告白は?」
「あいつら、大学生だぞ」
「年の差かあ。でも、天智くんのほうが長いんでしょ? つきあいというか」
「ん、まあ」
「女の人は鈍感なタイプ?」
「俺のことなんか、意識してねえんだと思う」
「ほかの女の子とか考えたことは?」
「ねえよ」
「天智くん、浮気しそうにないもんね。もったいないなあ、天智くんとつきあったほうが幸せなのに」
「えっ」と少し驚いて深月を見る。深月は言い切った口調で続ける。
「私はそう思う。あの場面でも空気読んで、切れたりしないくらい、あの人が好きなんでしょ。あんな状況、普通怒るよ」
「そう、かな」
「うん。んー、でも、男の人もあの人といて幸せなんだろうしね。むずかしいね、幸せなら壊せないよね」
「……そうだな」
「幸せは、壊しちゃいけないよね……」
深月を見つめなおす。予想外のまじめなつぶやきだった。
幸せは壊してはいけない。広亜はあの男といて幸せで。あの男も広亜といて幸せで。そんな循環、見もしなかった。見たくなかったからだが。でも、そうなのだ。今、あのふたりは、お互いがそばにいて幸せなのだ。
自分のことばかり、考えていた。俺のほうが長くて。俺のほうが知っていて。俺のほうが好きで──そんなことばかり考えていた。
でも、だから何だというのだ。俺の想いがどれだけ深かろうが、結局、広亜の幸せは郁哉さんなのだ。広亜が幸せなら、それごと見守ってやるぐらい、好きになればいいのではないか? そしたら、気持ちも飽和して流れ出していくのではないか?
「あ、私、こっちだ」
不意に深月はそう言って、団地の群集の手前にある横断歩道で立ち止まった。俺はうなずき、「ありがと」と一応言っておいた。
深月は笑みを作って、ちょうど青信号の横断歩道を渡っていった。その背中を見て、まさかあいつに諭されるとは、と苦笑いし、俺も自分の暮らす一軒家の家並みへと歩き出した。
やがて、重苦しい梅雨も終わり、雲もない青空が広がるようになった。蝉がちらほら鳴きはじめ、太陽が急激に皮膚に照りつけるようになる。
すぐ期末考査が始まった。気を抜いていた中間とは違って頑張ったつもりなのに、やはり点数は微妙で、夏休みから塾なのか、と自分の脳みその現実が迫ってきた。
今夜とうさんとかあさんに相談しよう、とげんなり観念しながら、最後の一枚まで答案が戻ってきた休み時間にスマホをチェックすると、メッセが何通か来ていた。
すべて広亜だった。学校にいる時間には連絡してこないのに、めずらしい。しかも連打とか。何だろ、とトークルームを開いてそこにあった文面に目を開いた。
『香凪助けて。もう死にたい。』
『あんたしか信じられないよ。』
『ふみくんが──』
添付画像があった。躊躇ったものの、拡大してみる。途端、心臓が口から引きずり出されそうに脈打った。
『もうこの子が好きだから別れようって。』
あの日、快活に笑っていた男が上半身裸で自撮りしている。その腕が白い、同じく肌を見せる軆を抱いている。
そこで無邪気に咲っているのは、深月毬実だった。
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