幸せじゃない
七月十八日、白い日射しと激しい蝉時雨の中で、終業式はすぐにやってきた。
広亜は、ずっと連絡をよこさない。ある意味、俺のせいだからこちらからも連絡しづらい。
それでも、今日は家を訪ねてみようかと教室をあとにしかけていたら、担任に声をかけられた。
「深月のことなんだがな」
触れてほしくない罪悪感に、かばんの肩紐を握る。「さよならー」と言いながら下校する生徒たちにたまに応えながら、担任は俺に話を続ける。
「先生が行っても、会ってくれなくてな。ただ、親御さんの話では天智のことを気にしてるらしいんだ。あのとき、深月と話していたのも天智だったよな?」
「ん、まあ」
「本当に、天智は何もしてないんだな? みんなそう言ったとは聞いているが──」
何も、していない。そうだ、俺は何もしていない。けれど……誰も「幸せ」にしていない、とは言った。
「……した、のかもしれないです」
ぼそぼそとそう言ってしまうと、担任はため息をついて、「だったら」と俺の肩に手を置いた。
「深月に謝りにいけ」
「えっ──」
「親御さん……特におとうさんがな、深月から話を聞いて怒ってらっしゃるんだ。深月がどう話したかは先生たちは教えてもらってないが、おとうさんは、お前が謝るまで深月は学校に行かせないとまで言ってるんだよ」
顔を伏せる。
……くそ。あの女。結局、親は味方につけて俺にすべてなすりつけるのか。何もかも、お前ひとりで勝手に人の幸せだか何だかを決めつけて、広亜を傷つけたからなのに。
それでも俺は、断る意地は張れず、かといって経緯を説明する余裕もなく、「分かりました」とそのまま担任と深月の家に行くことになった。
深月の家は、団地の二階だった。やけにぎらぎらする日射に汗を流して、ここまで担任について歩いてきて、あの親父切れたらうざそうだったな、とうんざりした息が何度ももれた。
コンクリートの建物に入って日向を逃れると、それだけでくらくらする渇きがわずかにやわらいだ。担任がチャイムを鳴らしてから「深月の担任です」と言うと、ドアの向こうから「はあい」と幼い子供の声がした。
ドアを開けたのは、小学校低学年くらいの男の子だった。あいつ弟いるのか、と憂鬱に曇る気分の中で思う。
「ごめんね、何度も来て」
「ううん」
「おねえちゃんはいるかな?」
「………、おとうさんといるよ」
「おかあさんは? 今日も仕事かな?」
「うん」
「そうか。じゃあ、少しあがってもいいかな?」
「……そのおにいちゃんは?」
「おねえちゃんの友達だよ。──ほら、挨拶しろ」
何でだよ、と思っても、むすっとしていても仕方ない。俺は引き攣りそうなのを抑えて笑顔を作り、「こんにちは」と深月に似た大きな瞳をした男の子に言った。
男の子は首をかしげてから、「こんにちは」とどこかとまどった声で返してきた。
「おねえちゃんのお友達なの?」
「えっ? あ、ああ──まあ、うん」
「そうなんだ……お友達?」
そう言ってんだろうが、といらっとしたあと、ふと気づいた。
考えれば、男とやりまくっている深月が、その行為を家まで持ちこんでいないとは言い切れない。もしかしたら、この子はそれを見たりしたことがあるのかもしれない。そして、俺もそういう男ではないかと疑っているのかも──
そう思うと、急にこの子が不憫な気がして、しゃがんで目線の高さを同じにした。
「俺はただの友達だよ。ほんとに」
表情をやわらげた俺に、男の子はぱたぱたとまばたきをして、急に「じゃあ」と声を震わせた。
「おねえちゃんに、僕の気持ち言ってくれる?」
「気持ち?」
「僕は、こんなの幸せじゃないよって」
その子を見つめた。
幸せじゃない。何か、俺の中の黒い靄に、言い知れないものが隠れていることにやっと気づいた。
幸せ。幸せ。そう、幸せ!
何だというのだ。幸せって、何でそんな言葉をこいつらは繰り返す?
俺は担任を見上げた。
「今、深月は親父といるんですよね」
「あ、ああ。だからちょっと待っ──」
「なあ、おねえちゃんの部屋はどこだ?」
鋭い声で言った俺に、男の子の表情に察知が射しこむ。
「おい」と担任は止めたけど、「こっち」と男の子は小さな手で俺の手を引いた。俺はスニーカーを脱いで家にあがり、誘導されるままひとつのドアの前で立ち止まった。
「毬実……」
この、親父の声。
「お前がいるからみんな幸せなんだ」
……この息遣い。
「お前とこうすると、みんな幸せそうにするだろう?」
スプリングの軋み。
「おとうさんも、毬実とこうできていつも幸せだ」
ぎし、
「このために毬実と一緒に暮らしてるんだ」
ぎし、
「おとうさんが家にいればおかあさんも幸せで、おかあさんがいれば夏海も幸せだ」
ぎし……
「なあ、お前がみんなを幸せにしてるんだよ」
幸せ。幸せ。幸せばっかり、言いやがって。
深月の言葉が、脳裏に瞬く。
『幸せは、壊しちゃいけないよね……』
深月の弟が、俺の手を握った。幸せじゃない。こんなの幸せじゃない!
「離れてろ」と俺はその子を逃がし、ドアノブをつかんで閉ざされた部屋を開けようとした。舌打ちする。鍵がかかっている。
でもいい、壊してやる。ぶっ壊してやる。
中で何か物音がして、でも鍵が開く気配はない。ドアに体当たりを始めると、「天智!」と担任が駆けこんできた。
「お前、何やっ──」
「おい深月! 幸せ幸せって、お前はどうなんだよ!」
部屋の中からは、何か音はしても返事はない。
「みんなの幸せが自分の幸せだとか言ったら、マジで最低だからなっ。お前が幸せじゃなきゃ幸せじゃないって、そんな奴が絶対どっかにいるんだよ! そういう奴とお前が幸せになれよ、お前が幸せにするんじゃない、お前が幸せにっ──」
がたんっ、と急に肩が前のめった。ドアが開いた。俺は部屋を見た。
ピンクが目立つかわいらしい部屋だった。深月はベッドの上で、父親にのしかかられ、口を塞がれていた。服なんか着ていない、まして脚のあいだを広げられている、父親につらぬかれている──
頭の中が錯乱していく。その感覚に声を上げ、もう何も考えず、自分でも信じられない力で深月の父親を床に投げ飛ばしていた。
担任も部屋の中にあった光景を見て言葉を失ったが、すぐに父親を取り押さえる。
「どういうことですかっ、おとうさん! こんなっ──」
「違う、違うんだっ。この子が誘ってきたんだっ」
この期に及んでありえない戯言に、俺は父親につかみかかった。
「てめえっ……てめえのせいで深月はなあっ」
「本当に、そうなんだっ。本当は私はこの家にも家内にもうんざりしてるんだっ。でも、この子がこういう行為をさせるから、家内と別れないでくれと──」
頭の中がぐちゃぐちゃに熱くなって、気づいたときには、がつっと俺のこぶしが親父の顎の骨を直撃していた。
「天智っ、お前はもう──」
「死ね! お前なんか死ね!! 深月がどんだけぼろぼろになってるか分かってんのかよ、ふざけんじゃねえっ!!」
さらに拳を振り上げた。が、それは担任にぐっと抑えこまれた。歯がゆくそちらを見ると、「お前の気持ちは分かる」と担任も歯噛みしながら言った。
「だが、こんな人間のために手を汚すな」
それでも俺が息を荒げていると、深月が震えながら俺の名前を呼んだ。
深月を見る。深月はいつのまにか泣いていた。
「ほ……ほんとだから」
「……は?」
「そんなの、やめて。おとうさんは悪くないの。ほんとに、私が……私が、……我慢、して、そしたらみんな幸せだか──」
「うるせえっ」
びくっと深月の壊れそうな肩が揺れる。
「こんなの俺が幸せじゃねえんだよっ」
「天智く──」
「俺はお前のことなんかどうでもいい、でもな、見てるだけの俺でもこんなもん胸糞悪いんだよ!」
深月は俺を見つめて、「でも」「でも」とかすかに首を振る。担任がスマホを取り出し、どこかに電話している。父親は濡れた性器を剥き出しにしたまま、「違うんだ」とか「悪くない」とか繰り返している。
俺は深月に床に落ちていた服を拾って投げつけた。深月はそれを弱くつかむ。
「わ……私、」
「お前には、ちゃんといるだろ」
ドアのほうを見ると、それを合図に、ドアのそばで小さくなっていた深月の弟が部屋に入ってきた。
「おねえちゃん」と弟はベッドサイドにひざまずき、ぽろぽろと涙をこぼしながら深月の手をつかむ。その小さな手に、次第に深月のあふれる涙の量が変わっていく。感情もはちきれ、激しくしゃくり上げはじめる。
俺は唇を噛んだ。救急車とパトカーのサイレンが同時に近づいてくる。こぶしが痛んで、腫れた指を持ち上げると、無意識につぶやいていた。
「誰も、こんなの、幸せじゃないんだよ……」
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