いつか赤い糸で
夏休みが終わりそうな頃、深月が母親と一緒に俺の家を訪ねてきた。
平日の昼間だったからとうさんもかあさんもいなくて、俺は手間取りながら三人ぶんの麦茶を淹れて、ふたりをダイニングに通した。「ありがとうございます」と母親は頭を下げたが、深月は顔を伏せたまま動かない。
「天智くんには、ご挨拶をしておこうと思いまして」
ひと口麦茶で喉を潤わせてから、深月の母親はゆっくりと切り出した。
「え……あ、挨拶ですか」
「ええ。今回は、本当に──お詫びを申し上げたらいいのか、お礼を申し上げたらいいのか」
「い、いや、……気にしないでください」
「ご両親にも、もう一度、きちんとご挨拶したかったんですが」
「大丈夫ですよ。かえって気を遣わせる、かもしれないし」
俺が深月の薄暗かった家庭に光を入れたことには、俺の両親は「乱暴だったかもしれないが」と言いつつ責めずに認めてくれた。そして、俺に代わって、この深月の母親に息子が出しゃばって申し訳なかったと謝罪してくれた。
しかし、そのとき深月の母親は、事実を知ったばかりで錯乱していて、ほとんど泣いて「とんでもありません」ばかり繰り返していた。そして、俺が助けてくれなかったらきっとこのままだったと、自分の無知と無力に打ちのめされていた。
そんな深月の母親を、俺の両親も心配はしていた。
「先日、主人とも正式に離婚しました」
「そう、なんですか」
「はい。そして、ここからは引っ越すことにしました。前々から、本社から声がかかっていて。皮肉ですね、この子のことに何も気づけなかったぶん、仕事では評価されているなんて」
深月の母親は嗤おうとしたみたいだけど、まだ涙腺が弱っているのか、小さく鼻をすする。
「それを受けるかたちで、引っ越し先でも仕事は続けられそうです。稼ぎもそれで何とかなりそうです」
「……そうですか」
俺は麦茶の水面にとめていた目を上げ、深月を見た。表情は窺えない。
「あまり──」
静かな口調を努める深月の母親に目を向けた。
「身内以外にお話することではないんですが、毬実は今はカウンセリングと薬物治療をしてもらっています。転居先に、今の先生と同じ大学出身の先生も見つけているので、それからしっかり治療していきたいと思ってます」
「トラウマを治す、って感じですか」
「もう、病気に近いと言われました。先生は、かなり深い洗脳状態にあるとおっしゃっています」
「洗脳」
「確かに、夜になるとこの子言うんです。『おとうさんとお風呂に入らなきゃ』って……あの人が出ていって、一ヶ月近いのに。あの人が出ていったことを思い出したら、今度はその途端、自分のせいで家庭が壊れたと泣き出して」
俺は口をつぐんだ。
深月の母親は、このあと神楽先輩や御門にも謝罪に行くことを話した。「ほかにも、この子が軽率なことをした男の子はたくさんいるのでしょうけど」と母親は目を伏せる。
「今すぐ、すべての相手は分からないので。でもちゃんと、ご迷惑をかけた全員に、せめて謝罪のお手紙だけでもさしあげるつもりです」
「そう、ですか」
神楽先輩。御門。そして、無数の男。父親との関係で、なぜ深月があんな不特定な関係を結ぶようになったのかは分からない。ただ、自分の軆で快感を与えて、「幸せ」を配っていたつもりなのは分かる。
「毬実も天智くんにお礼を言いなさい」とふと母親が深月をうながし、俺は遠慮しそうになったが、深月はやっと顔を上げた。生気のない目に俺はうつむきたくなったが、唇を噛んで見つめ返す。
深月は少し母親を向いた。
「天智くんと、ふたりで話したい」
え、と思わず狼狽えたが、深月の母親は「分かった」とうなずいて席を立ち、俺には「玄関で待っていますので」と再度頭を下げた。
ふたりで。話せるのか、こいつ。というか、何を話すんだ。おろおろ考えているうちに母親は下がってしまい、仕方なく俺は深月を見た。
前髪が伸びたな、とぜんぜん関係のないことをふと思った。
「……ごめんね」
「え、あ……いや」
「けど、その、ありがとう。私、まだ今の状況が正しいか分からないから、ありがとうって、自信ないけど」
「………、」
「でもね、夏海……弟が、咲うようになったの。だから、私、これでいいんだよね」
「弟──すげえ、心配してたぞ」
「うん」
「もう泣かすなよ」
「……うん」
深月の声が、涙で震える。俺は深月に似たあの幼い子の瞳を思い出した。
僕は幸せじゃないよ。あの子があの言葉を俺に振り絞ってくれたから、この局面だって迎えられたのだ。
「利斗くんとはね」
深月が消え入りそうな声で切り出す。
「和琴くんのことを見逃してもらうために、つきあいはじめたの」
「え」
「小学校のときから、和琴くんが好きだった。でも、和琴くんは私のこと、そんなに想ってくれなくて。どうやったら振り向いてくれるかな、何したらいいかなって、すごく考えてるうちに、和琴くんのご両親が離婚したの。それで、ネグレクトみたいになって。和琴くんグレちゃって、でも好き勝手やったって何も問題にならないように、揉み消してもらえるように、私は校長先生の親戚の利斗くんとか……先生とだってした。そしたら、和琴くんが私をたまに抱いてくれるようになったから、私はもっと利斗くんに抱かれた。どんどん状況がうまくなっていくから、ああおとうさんが言った通りですごいなあって」
──ああ、それが「約束」か。深月は神楽先輩にやられる。神楽先輩が御門の非行が見逃す。御門は深月とやる。その喜びで、また深月は……
「そしたら、何か、私だけじゃなくてみんながうまくいくようにって。そう思って、誰とだってした」
「ぼっちの奴に、声かけたりしてたもんな」
「うん。いつのまにか、つらそうな人がいたら、少しでもその人が楽になるようにって、するようになってた。見て見ぬふりだって、イジメになるって言うでしょ? だから、放っておくなんてできなかった」
「友達を紹介する代わりにやらせたりもしてたよな」
「どんどん、幸せじゃない人を見るのが怖くなってたの。みんなが幸せじゃないと怖くて。苦しんでる人を見たら、私も息が苦しくなるの。その感覚を無視するのは、ほんとにすごく怖いの」
「俺のこともか」
「……うん。ファミレスで、天智くんはすごくつらそうで。ああ、私は気づいちゃったから何とかしなきゃって」
「広亜は、より戻ったらしいよ。彼氏に土下座されたって」
「そっ、か。私、もう連絡できなかったしな」
深月はやっとグラスを持ち上げて、麦茶を飲んだ。それから俺を見て、静かに尋ねてくる。
「天智くんは、それで、幸せ?」
広亜を想った。そう、話はその通りで、郁哉さんは深月にメッセを送っても送っても返事が来なくて、「遊ばれただけ」と判断して、ぬけぬけと広亜のところに戻った。俺はその都合のよさに切れかけたが、広亜は郁哉さんを許した。バカな女だと思ったが、それが広亜の幸せなのだとしたら文句は言えない。
そう思って、ようやく少しずつ、この長い片想いの終止符に心を刺されても平気になってきている。
「これから──」
俺は深月の目を見て、微笑んだ。
「幸せになっていくと思う」
俺の微笑に、深月も小さく咲った。
赤い糸、という言葉がある。運命のふたりは、その糸で結ばれていて、引き合わされ、幸せになるという。深月の周りでは、何本も糸が絡んでいた。深月は自分の心を傷つけ、その血でそのすべての糸を血染めにしていた。そして絡む糸みんな運命にして、結ばれる幸せに見せていた。でも、やっぱり、偽りである紅染めの糸では誰も幸せにならない。
赤い糸はこれから探す。深月も。俺も。まだ周囲には、やがてすれちがう白い糸しか見当たらない。
けれど、きっと不意にこの中に赤い糸を見つけるのだ。その赤い糸をたぐりよせ、いつか誰かと結ばれる。たった一本のその赤い糸を指に絡めとり、そう、誰だって本当に、幸せになれる。
FIN
