君さえいれば
「ベッド座ろう」と言うと、奈雪は僕を見、小さくうなずく。ベッドに移ると、ティッシュを剥いで、新しいティッシュをを手首に巻きつけた。
「奈雪」
「ん」
「僕、ほんとに死ぬつもりではなかったんだ」
「………、」
「ほんとだよ。ただ、じゃあ何でこんなのしたかって、理由を話したら奈雪は僕を嫌いになる」
「そんなわけないじゃない」
「嫌いになるよ。怖がる、かな。気持ち悪いって。僕が病気だって思う」
「思わない」
「思うよ。人間じゃないって。僕は自分でそう思うよ」
手首のティッシュが赤く染まっていく。取り換えようとしたけど、やめて、その上から二重に紙の包帯をつける。
「奈雪には知られたくなかった」
「え」
「奈雪に嫌われたら一番つらい」
「嫌いになんてならないよ。話せるなら話して」
「………、嫌うなら、きちんと嫌ってほしいんだ。僕の全部を──」
「だから、」
「僕、奈雪が好きだよ」
「えっ」
「ずっと、好きだった。幼なじみとか、友達じゃない。奈雪のこと、子供の頃から女の子として好きだった」
奈雪は僕にまぶたをあげる。
言葉の重さに、僕の頬は熱をはらむ。伝える日が来るとは思わなかった。初恋は実らずに終わって、いずれそれぞれ別の相手と結婚し、昔話としてようやく明かるみに出るぐらいに思っていた。
熱に震える瞳を下げると、狂気が冷めてずきずきしきじめた手首が目に入る。「嫌いなら、この気持ちも合わせて殺してほしくて」と僕は奈雪と目を合わさずに曖昧に咲った。
「話したら、奈雪は僕を妖怪だと思うよ」
「あたしに嫌われたいみたいね」
「嫌ったほうがいいよ。ただ、誰にも言わないで。僕、今まで──」
「あたしのこと、ほんとに好きなの?」
「えっ、……好き、だよ。何で」
「しぐみって、昔からそうだよね。うじうじしてさ。ほんとに好きなら、どんなでも振り向かせるって思わないの?」
「だ、だって、奈雪の気持ちは奈雪のものだし」
「そうだね。だったら、嫌うなんて決めつけないでよ。あたしだって、しぐみには自分はふたりめのちづみさんだと思ってた」
ちづみ、というのは僕の姉の名前だ。僕は奈雪を見て、奈雪は怒ったみたいにそっぽをむく。それが奈雪の照れ隠しなのは、長年幼なじみをやっていて知っている。
僕はしばしぽかんとして、意味を理解すると、「あ」と細く声をもらして、もっと頬を熱くした。とっさに、真実として受け入れていいのか怯んで、ぎこちなくうつむき、強い熱にさらに瞳が潤む。どう言えばいいのか分からずにいると、「簡単に嫌うかよ」と奈雪は言って、僕は深くなる搏動に視線をおろおろさせる。
あのときの動顛は、よく憶えている。もともと僕は煮えきらなくて、何かにつけて動揺しがちだったけれど、あんなにまごついたのは生まれて初めてだった。いきなり、片想いと信じこんでいた恋が実ったのだ。
奈雪のことは好きだけど、具体的に彼女への欲望を考察したことはなかった。妄想を味わってうっとりするには、僕と奈雪は近すぎた。自慰処理だって、翌日気まずくても避けることができないので、意識的に奈雪は想わないほどだだった。
「大丈夫だよ」
「え」
「あたし、しぐみがどんなでも好き。隠しごとされるほうが嫌いになる」
改めて、僕は奈雪と見つめあった。成長につれてどきどきするようになった凛とした瞳に、やっと、いつも通り鼓動が崩れていく。
「話して」と奈雪は汗をかく僕の手を取った。傷つけた左手だ。奈雪の指先にも、僕に通じる熱がしたたっている。僕はそっと奈雪の手を握り返すと、一度息を吐き、心をくくった。
「カラメルのこと、知ってるよね」
「えっ。ああ──しぐみが、小遣いはたいてかわいがってる野良犬」
「あれ、ほんとはカラメルのためじゃないんだ。僕のためで、カラメルはおまけ」
「おまけ」
「カラメルにあげてる肉は、カラメルじゃなくて僕のためのものなんだ」
話が予断できないのか、奈雪は不安を滲ませて僕の手を握った。傷が疼く。奈雪を窺うと、彼女は気丈な瞳を取り返して、「ごめん」と手の力を緩めた。
信頼というより、期待だった。嫌われるかもしれない。だが、ここまで来て濁すことはできない。奈雪を失うことを覚悟し、でも、どこかでは頼りない信頼にすがり、口内に残る血を生唾と飲みこみ、僕はこわごわと口をひらいた。
「僕、血を飲むんだ」
「……えっ」
「肉、買ってね。僕、その血を絞り出して飲んでるんだ」
奈雪は目を開き、僕は視線を提げた。明かりに艶めく自分の白い膝が視界に入る。消された冷房のためだけではない汗が、軆じゅうに流れ、外の虫の声は切り取られた別世界のもののようだ。
「な、何でそんなの」
「分かん、ない。血を飲まなきゃダメなんだ。飲まないと疲れたりいらいらしたりして、集中力がなくなる。ほんとなんだ。めまいとか吐き気とか、血を飲めば全部落ち着く」
奈雪の視線を感じる。痛かった。衝撃の視線だ。それがどんな色合いにたどりつくか、肌では逆睹できなかった。嫌悪か、恐怖か、失望か──瞳を見れば分かるけど、確かめるのが怖かった。
はなから信じず、笑殺されるというのはなさそうだ。空気はこわばり、呼吸だけ震えている。
「いつ、から」
「……二年ぐらい」
「それ、だけ」
「えっ」
「その、犬にあげてる肉からだけ」
「あ、ああ。僕は血が飲みたいだけで、攻撃したいわけじゃないし」
「そ、う」
「殺すしかないのか、って思うときもある。満たされるためには、殺すっていうのは嫌でもしなきゃいけない過程なんだ。肉だって殺された動物だし。僕は血が欲しいだけで、死を通らなきゃいけないのはすごく嫌だよ。それで、せいぜい殺された肉の血にしか手を出せないんだし」
「じゃあ、人間の血は飲んだこと──」
「………、人間が、一番いいから」
奈雪は沈黙し、僕の手首に目を落とした。奈雪に見つかったとき、僕は確かに血をすすっていた。「自分のじゃおいしくなかったけど」と僕は引き攣った笑みをもらし、奈雪は視線をはずしてうつむく。
僕は顔をあげた。頬が硬く、瞳は睫毛に閉ざされ、口も結ばれ、奈雪は当惑していた。分かっていたけど、実際に嫌悪されると苦しい。
僕は優しく奈雪の手をほどいた。
「あ──」
「いいよ」
「えっ」
「気持ち悪いよね。吸血鬼みたい。僕、誰かを襲う気はほんとにないよ。吸血鬼は好きな人の血を吸うけど、奈雪を襲ったりもしない。約束するよ。だから、誰かに言うことはしないで」
僕と奈雪は瞳を重ねた。僕は微笑し、奈雪は短く目をさげたあと、ベッドを立ち上がった。僕は何も想わなかった。嘘つき、とも思わなかった。思いたくないし、思えなかった。罵るには、僕は奈雪を想いすぎている。
奈雪は僕を見おろしたあと、「考えたい」と言った。体のいい拒絶だと分かっていた。僕は咲ってうなずき、「ゆっくりね」と答える。奈雪は僕を見つめたあと、不意に腰をかがめて、僕の唇に唇を重ねた。
搏動がどくんと、最期のひと息のように高鳴った。肩も硬直し、その反動で混乱が生じる。唇に奈雪の体温が伝う。深くはなかった。唇同士が触れあうだけの口づけだった。
奈雪は唇を離すと、僕の肩に顔を伏せる。僕の初めての口づけだった。
「奈雪──」
「……バカ」
「え」
「そんなわけないじゃん」
「………、」
「考えたいけど。受け入れたいから、時間が欲しいんだ」
僕は身動きして、すぐそばに奈雪の頭を見た。シャンプーと汗の匂いがした。奈雪の息遣いが、音より肌で分かる。僕は奈雪の名前をつぶやいた。奈雪は顔をあげ、「しぐみも考えたいでしょ」と視線を疎通させる。
「もっと詳しく聞かせて。ゆっくりでいいから」
「奈雪……」
「ちゃんと知っておきたいの。恋人だろ」
奈雪を見つめた。そして、たっぷり肺を使って息をつき、うなずくと、奈雪を抱き寄せた。奈雪はおとなしく僕の腕におさまる──僕が小柄なので、すっぽりとはいかなくても。「ありがとう」とささやくと、奈雪は微笑んで僕の背中に腕をまわした。
かくして僕は、やっとありのままの自分をさらせる相手を持った。奈雪は、もっとも知られたくない人である反面、もっとも理解してほしい人でもあった。奈雪が受け入れてくれるのなら、ほかの誰を欺いていてもいい。
周囲は、僕と奈雪がくっつくのはとっくに予見していて、互いの両親にも友人にもあっさり祝福された。照れ咲いを交わしてしまう中、奈雪が左手の親指のつけ根に傷口を持つようになったのは、間もなかった。
奈雪の提案だった。五年生の調理実習で血の味を知ったことから順々に、僕は自分の特異体質を奈雪に洗い浚い告白した。奈雪は強く受け止めてくれた。普通なら眉ぐらいひそめたくなることも、まじめに聞いて、僕を知ろうとしてくれた。あの手首を切った夜に行きつくと、奈雪はしばし考えて、その上でこう言った。
「あたしの血をあげる」
「えっ」
「人間がいいんでしょ。採ったばっかりの」
「う、うん。でも」
「いっぱいはあげられないけど、ないよりマシじゃない」
奈雪に血をもらう。にわかには飛びつけなかった。理想的すぎて、逆に考えもしない提案だった。
思わず奈雪の瞳に探りを入れたが、その瞳に影はなかった。本気らしい。本気であればあったで、そこまでしてくれる心に僕の心も揺れてしまう。
「あたしの、嫌?」
「まさかっ。けど、その──いいの?」
「それがしぐみの元気になるんだろ」
「ま、あ」
「じゃあ、あげるよ」
「ほんとに」
「飢えすぎて知らない人間を襲って、その血が病気とかだったらどうするの」
最近はそうなのだ。血を飲むにあたって、それをいっさい考えないということはない。血から何かに感染してしまったら──昨今、バラ売りされる動物にもありえる話だ。でも、仕方なく承知して、動物の血を絞り取ってきた。
僕は、奈雪に血を提供してもらうようになった。毎週日曜日、僕の部屋のベッドの上で、カミソリで奈雪は親指のつけ根を切る。なぜ親指のつけ根かというと、口づけやすいし、傷が残っても目立たないからだ。瞳を合わせて確認しあうと、僕はゆっくり身をかがめ、さしだされた奈雪の傷口にそっと口づける。
三分間だ。決めておかないと、本来、僕には奈雪の血を吸いつくしたいほどの欲望が渦巻いている。自分の傷を吸ったときには荒々しく舌や唇を凶器にしたが、奈雪にはそんな痛めつける真似はしなかった。どちらかといえば、本当に傷を癒すように、恵みをもたらす裂けめに愛情を持って口づける。
肌を唇でおおい、傷に舌をあて、吸い出したいのをこらえて、脈拍のたびに生まれる雫を待つ。血管の裂けめから血の流れが流出し、僕はそれをあまさず口の中に広げた。
生温かくて、ぬるぬるして、唾液と絡まっては舌に甘美な錆びた味わいが染みつく。ひかえめに喉を鳴らしてそれを飲みこみ、そのあいだ、手持ち無沙汰の奈雪は僕の頭を撫でている。奈雪の指が僕の髪を梳く音と、僕が奈雪の傷に口づける音がはりつめ、その空間は神聖といっていいほどだった。
奈雪の血は、奈雪の匂いの味がした。正しくは、月に一度の特有の匂いかもしれない。生理のときの匂いだ。男はときどき、その血の香りを嗅ぎわけてしまう。こんな性質の僕は、とりわけその血の匂いに敏感だった。
卑猥な話だけど、笑いごとではない。隣の席の女生徒が生理中だったりすると、本能の抑圧が大変だ。嗅覚に支配されて集中力がばらつき、先生の声は通り抜けるし、視覚が異様に白光して色彩を失う。軆が潜熱を帯び、やたら飲みこむ生唾に口内がべたつき、嗅覚だけ鮮やかに深紅に染まる。
奈雪にそれを嗅ぐとき、吸血鬼が愛する人間の血をすするのを僕はよく思い出した。僕にとって、奈雪の血ほど最高な血はないのだろうと。永遠にその血を口にすることはないと思っていた。それが今、こうして叶って、今度こそ僕はこれさえあればいいと思っている。
奈雪がいれば、奈雪の血があれば、もう何もいらない。心からそう思って、今まで過ごしてきた。もう貪欲になることはない。ひっそりと奈雪の血で本能をなだめ、このまま平穏に紛れて生きていく。
僕は今、高校一年生で、十六歳で、奈雪ともうまくいっている。ずっと安らかにいられるはずだった──チノと出逢いさえしなければ。
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