深紅の盃-7

悪夢の扉

 そうして、一月三十一日の二十一時、僕は指定の駅前に立っていた。昼間には雪もちらついた、寒い夜だった。
 人が混雑して、鮮やかなイルミネーションが舞っている。それをすりぬけて寒風が吹きつけ、体温を通して感覚が奪われていく。目をこらすと、空をおおう雲の流れが見えた。また雪降るかなあ、とニットコートにすくんで、マフラーの中に息を吹きこんでいると、チノは相変わらず黒いコートに包まれてやってきた。
 僕の正面に対峙したしたチノは、「来ないかと思ってた」と赤い唇を笑ませた。闇の中で見るせいか、チノの肌はいつにも増して白く、蒼光りしていた。漆黒の髪の奥で、瞳が鋭敏に濡れている。綺麗だけど、その存在感は僕にしか与えていない。
 僕は気圧されながら言葉に躊躇ったのち、「無視しても気になるし」と述べた。するとチノは微笑み、「君に任せるよ」と言う。
「ついてこなくてもいいし、ついてきてもいい」
「……ついていかなかったら」
「ひとりで行くさ」
「どっかに行くの?」
「遠くにね」
「………、一応、泊まるってことにはしてきた」
「そう」
「僕を連れていって、何するの」
「話があるんだ。知ってほしいものもある」
 僕はチノと見つめあった。確かにチノの瞳は、めずらしく絶対性を解いて、僕に選択を預けていた。
 それはそれで不吉だった。言い訳がきかないのだ。ここでついていけば、僕は権利を行使したことになり、責任が課せられる。ついていった先で、何があっても、チノに言いがかりはつけられない。
 チノはそこまで計算して、僕に自由を与えているのだろう。逃げ道は今しかない。今ここでしか、後戻りという選択肢はないのだ。ついていけば、どんな選択が現れようと、どっちみち沼にはまる。
 ついていかないに越したことはない。なのに、「来たいなら、おいで」とだけ言って、駅の構内へと歩き出したチノを、僕は何かに背中を押されたように追いかけていた。
 僕とチノは、まず特急に乗り、それからローカル線を乗り継いだ。帰らなくてはならない僕は、道順を憶えようとしたものの、こんがらかって帰りはチノに送ってもらうことになった。ひとりでは帰れない──ひとつ失せた活路に、僕の心臓は暗雲にうごめく。
 しかし、いずれにしろお金がない。切符もチノが買ってくれた。そういえば、なぜチノは金を持っているのだろう。働いているふうもないし、そもそも十五歳では真っ当な仕事につけない。真っ当ではない仕事を、ひそかにしているのか──明確な予想はつかなくても、そうなんだろうな、と勝手に納得していると、僕とチノは片田舎の駅に降り立った。
 零時をまわっていた。片田舎、といっても住宅街に暮らす僕の目からであって、そんなに悠長な空気があるわけではない。山にかこまれて、圧倒的に緑が多かった。上には高速道路が走り、高速道路に乗っていると出逢う山脈の近くに位置する町のようだ。
 肌になじまない空気と匂いに臆しながら、チノについていった。チノは森林の匂いがする山へと歩いた。次第に道路は狭くなり、比例して電柱に付属された白熱燈も貧弱になって、闇が濃厚になる。途中、墓地のそばを通り、そこを境に完全に人とはすれちがわなくなった。
 山を切り開いた山道で、左右にはひたすら樹海がはびこり、闇は不気味さを増している。抜け道として役に立つのか、舗装はされていても、車は通らない。
 闇に飲まれる視界や、知らない匂いに不安を覚えた。鳥肌をあおる寒風や、不気味な鳥の鳴き声に恐怖が走る。白い息を吐くたび、喉の粘膜が乾燥に痛み、瞳だけ情けなく滲む。
 幼い頃、僕は泣き虫だったけど、こんなに本気で泣きそうになったのは数年ぶりだ。後悔が首を絞める。来なければよかった。どう考えても、この先にいいことがあるはずがない。
 断っておけばよかった。本当に奈雪の家に泊まっておけばよかった。奈雪に会いたい。奈雪の温かい軆を抱きしめたい。最寄り駅前で断って、帰宅していれば、今頃、奈雪に口づけでもしていたのに、どうして僕は、こんなところを選んでしまったのか。
 ぐちゃぐちゃの内界に押しつぶされ、光に逃げこみたい心境に駆られていると、ふとチノが歩速を緩めて僕を振り返った。
「足元、気をつけてね」
「えっ」
 きょとんとしていると、チノは舗装された道を外れて、山中に踏みこんだ。本当に山の中に行くのか。いったい何なのだ。チノは僕をどこに連れていく気なのか。
「おいで」とチノが僕にさしだした手は、闇から切り取られたように白かった。きわやかな視覚効果と、いつもの揺るぎない彼の声は、錯綜した僕の心につけいる。またも後悔だけの選択に踏みきった僕は、チノの冷たい手を取って道を外れた。
 僕の手を握るまま、チノは山中を進んだ。チノの白い手は、いつまでも冷たかった。
 幽霊かも、という心象がよぎり、臆測とも言い切れない状況に絶望感が放流する。もし、チノが本物の幽霊だったら。幽霊でなくとも、それに類する物理を超えた存在だったら。もしかして、本気で魔界からやってきた吸血鬼なのではないか。
 そしてチノにとって、僕が生け贄であったら? もしや僕は殺されるのか。こんな山奥で。奈雪や家族や友人たちがちらつく。自分の存在が、山奥に証拠隠滅されたまま、忘れられて消滅すると思うと、発狂しそうな恐怖感に襲われた。
 おしまいだ。僕は終わる。このまま殺される──
 極寒の中、チノの指先に体温が回復しないだけで、そこまでの悲観におちいっていると、密生する樹木に埋もれる小さな山小屋に到着した。
 チノを見た。チノも僕を見たようだが、彼がどんな表情をしたかは、暗闇で分からなかった。僕は小屋に目を向ける。
 何だろう。暮らしていくには不十分に見える。が、小屋は小屋だ。わりとしっかりした木製で、玄関も窓も屋根もある。「ここはね」とチノの声が闇と冷気を縫って聞こえる。
「かあさんの営業場所だったんだ」
「は?」
「俺のかあさんは淫売だった」
 インバイ。とっさに何の言葉か分からず、しばらくして、淫売、という漢字が当てられて動揺した。淫売、なんて、そんなの──実在したのか。女子高生が真似事でやるぐらいしか、現存していないと思っていた。
「正確には、かあさんの旦那が、逢引のために建てた小屋。でも、かあさんはほかの男も連れこんでた」
「こんなとこに、お客さん来るの」
「張るときはちゃんと街に出てたよ。親しくなった客にしか教えない、秘密の小屋だったんだ。俺はここで生まれて、育った」
 チノは僕と手を離し、コートのポケットの鍵を取り出した。水っぽく匂いを立ちのぼらせる、柔らかい土を踏みつけ、玄関らしき扉に歩み寄る。
 僕は鬱蒼とこちらを見おろす周りの木を仰ぎ、犯罪行為で稼ぐには打ってつけの場所だと思った。見つかるわけがないし、いくらいやらしい声を立てても構わないし、周囲や時間を気づかう必要もない。
 歩くと、地面は足の裏をめりこませた。静かだけど、そのぶん、鳥が羽ばたいたり風が唸ったりするとびくりとしてしまう。草木が揺れてうごめくと、ただでさえ寒さに萎縮する心臓が、きゅっと硬直した。
 森林の深い冷気に、軆が麻痺している。引き攣る息ははっきりと白く、動くのもしゃべるのもままならない。チノに呼ばれ、僕はただ従い、ぎこちない足取りで小屋の中に招かれた。
 扉を閉めると、チノは明かりをつけた。明色の板張りの廊下が伸び、玄関の右手と突き当たりにドアがある。壁や天井も木で、ログハウスに似ていた。
 木の匂いの中にチノの匂いがして、だがそれ以上に、何か甘美な香りが沁みついている。遮断された風に、ほどける細胞を感じながら、僕はその香りの心当たりに眉を寄せた。
「ね、ねえ、チノ」
「ん」
「この匂いだけど……」
 チノは先に廊下に上がり、突っ立つ僕を見おろし、一笑した。自然の中のこの寒さに、さすがのチノの鮮やかな色彩も鮮度を失っている。唇の深紅はくすんだ桃色になり、肌は蒼ざめ、でも震えたりはしていないので、美しさは同じだ。ここで生まれ育ち、肌を裂く気温にも慣れているのだろうか。冬場は暖房やストーブに包まれて育った僕は、みじめに肩をすくませて凍えている。
 チノの窈窕とした笑みに、言い知れないものを覚えていた。「おいで」と言われ、とまどって足踏みすると、「怖くないよ」とチノは言う。
「必要なことだって、君はよく知ってるはずだよ」
 僕はチノの黒い、中枢を読ませない瞳を見た。チノの唇や肌は、次第になめらかな色合いをよみがえらせていく。
 僕は視線を落とした。怖かった。今すぐ逃げ出し、ヒッチハイクでもして帰りたかった。息を吸い、吐くと、「ひとつ訊いていい?」と寒気によくまわらない舌で言葉を紡ぐ。
「うん」
「ここ、にね」
「うん」
「ほかに、誰か、来る?」
 チノは淑やかな微笑を浮かべ、首を横に振った。拍子抜けて胸の暗雲を晴らした僕に、チノはすぐさまもっと重い鈍器をかざした。
「もういるよ」

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