深紅の盃-9

愛情と欲望

 チノは見計らったように迎えにきた。「寒いよ」という声と共に外燈がついて、僕はびくんと振り返る。チノはコートを脱ぎ、黒のセーターとカーキのストレートパンツでこまねいていた。
 僕は口元の汚物をぬぐうと、「何で」とかすれた声で言う。チノはわざとらしく喉で笑い、「何が」と返す。
「何で──あそこまで」
「君はよく知ってるはずだ」
「あんなことしなくても、血は取れるよ」
「俺は、血を飲むだけじゃ満足できないんだ」
「何で」
「人間だからさ」
 眉をゆがめて、チノを見た。チノの毒々しい唇は、泥と汚物にうずくまる僕を憫笑する。頭が冷気に疼きはじめていた。チノは腕をほどき、「中においで」と言う。僕は視線を下げ、かすかにかぶりを振った。
「君にしたい話が残ってる」
「聞きたくない。誰にも言わないよ。もう帰らせて」
「吹聴したいなら、すればいいさ。ばれてほしくないけど、ばれるべきなのは分かってる」
 チノに目を向けた。艶めく黒髪の奥で、チノは淡白に瞳を細め、笑みに冷ややかさを混ぜた。僕はうなだれたあと、のろのろと立ち上がった。そして、チノについて小屋の中に戻った。
 玄関にも、血の匂いがしていた。それは、あれが悪夢でも妄想でもない現実だったという証拠で、僕の感受性を傷つける。チノはひとりで奥に行き、僕はにぶく玄関の段差に座りこんだ。
 帰らせて。無意識に言った、チノへの言葉を思い返す。言ってみれば、確かに僕は帰りたい。奈雪に会いたい。待っていてくれているだろうか。本当に、ひどいことになってしまった。
 子供の頃、僕が泣くと奈雪はあやしてくれた。誰にあやされるより、奈雪にあやされるのが僕の特効薬だった。奈雪の隣で泣きたい。奈雪の胸に駆けこみ、あの頃に戻りたい。奈雪に頭を撫でてもらい、しゃくりあげるのを嗚咽に鎮め、髪に感じる指の熱にぼんやりしたい。泣きやむとご褒美にお菓子をもらったものだが、それは口づけで代用されるだろう。そして、咲うと咲い返される。僕にとって、奈雪は自然ぐらい優しい存在だ。奈雪に今すぐ、このひりひりする精神をなだめてもらいたい──
 視線を投げ出して、漫然としていると、チノはココアを持って戻ってきた。受け取るのを躊躇うと、「何にも入れてないよ」とチノはくすりとする。僕はカップは受け取り、熱にじわりと指を溶かす中、甘い湯気を立てるチョコレート色の水面を見ていた。隣に腰かけたチノは微笑み、もうどうでもいい気分になって、カップに口をつけた。
 汚物の悪臭が、ココアの甘さに飲まれていく。空っぽの胃にものをそそいで、わずかに吐き気がしたけど、こらえれば慣れた。仮死状態にこおりついた体温が、甘い熱に内臓から癒えていく。
 鼻をすすって身を震わすと、「毛布持ってくる?」と訊かれた。「大丈夫」とまだ引き攣れた口調で答える。
 チノは、精神を感電させたままの僕を見つめたあと、「あのね」と静けさをそっとちぎった。
「俺が初めて人を殺したのは、十二のときなんだ」
「……えっ」
「ここでかあさんを殺したのが、始まりだった」
 チノを見た。チノは優雅に微笑したものの、鋭利な睫毛は少し下げる。
「君は友達も恋人も、まともな家族もいて、こんな山奥の小屋に閉じこめられて育つのが、どんなに頭がおかしくなりそうか分からないだろうね。顔を合わせる人間といえば、かあさんか、そのかあさんをめちゃくちゃに犯す男だけ。いつも生まれなきゃよかったと思ってた。初めて公園で話したとき、君は吸血鬼で、俺のほうが人間臭いって言ったの憶えてる?」
「……うん」
「その意味を話そうと思ってね。それでここに呼んで、あれを見せたんだ」
 ココアを飲んだ。自分は人間臭いという話をするために、あれか。逆効果だ。僕はチノをバケモノと思いつつある。
「君にひとつ、訊きたいことがあるんだ」
「訊きたい、こと」
「君は、なぜ血を飲むの」
「えっ」
「何で血が欲しいの」
「………、分かん、ない」
「分かんない」
「たぶん──。本能、みたいなものじゃないかな。そういう体質、というか」
「そっか」
「チノだって、そうでしょ」
 チノは僕を見、深長に咲った。その笑みの真意が通じずにまごつくと、「あれ、嘘だよ」とチノは脚を伸ばして、膝をさする。
「え」
「童貞って」
「え。あ──そ、なの」
「ここに女を連れこんでも、俺は殺さずに放免することがあってね。放免にした女は、俺と寝てる」
「寝たら、殺さないの」
「殺さなかったら、寝るんだ。俺は、生理中の女は殺さない」
「生、理」
「それで血が飲める。その血をもらうかわりに、俺は彼女に軆をあげる。生理じゃない女は、しょうがないんで殺して、それで血をもらう」
 しょうがないので殺す。釈然としない殺意に、僕は相槌を打てない。
「俺が血に惹かれるようになったのは、すごく子供の頃。五歳か六歳ぐらいかな。月に一度かあさんが発する匂いに、猛烈に惹かれたんだ。かあさんにそれを話して、血をもらうようになったのはななつのとき。俺が母親の股ぐらに顔うずめて血を舐めまくってたのは、ほんとなんだ」
 低く笑うチノをちらりとして、僕は気まずくココアをすする。
「俺はかあさんそっくりだった。十二のとき、かあさんがいない隙にかあさんの恋人が来て、俺を身代わりにするようになった。背中を抱きしめて、無言で突っ込んで、『ママには内緒だよ』って、それだけ言って去っていく。でもばれて、かあさんは俺を泥棒猫って言って、さんざんぶん殴った。俺も何で生んだんだよってもんだったから、やりかえしてそのまま殺した。殺すのと引き換えに血を飲んだのは、それが初めてだよ。かあさんがいなくなったあと、俺の面倒はかあさんの世話をしてた旦那が見てるんだ」
「恋人の人は、今も来てるの」
「俺を抱いてるとこをかあさんに見つかったんで、見捨ててさっさと逃げた」
「……そう」
「生理がないときのかあさんは、憎たらしいだけだった。ああやってぐちゃぐちゃにするのは、憎しみがよみがえるのもある。降りつもったストレスの爆発もね。俺はここで、すべてを抑制されてきた。俺は狂ってるよ。発狂が、俺の過去を癒やしてくれるんだ」
 温かいカップを持ち直す。そういう背景を語られると、チノの残虐性に、人間味を見出せないこともなかった。おぞましさは変わらなくても、チノは想像は絶した孤独の中で育ったのだ。それを想うと、神経が奇形になってもおかしくないかと、一考の余地は与えられる。
「俺は血が欲しいんじゃなくて、生まれたくなかっただけなんだ」
「え……」
「君は、何で血が欲しいのか分からないんだよね」
「う、うん」
「俺は分かる。俺は腹の中にいた頃に戻りたいんだ。体内にいて、外界からも自分の感情からも守られてた頃。あのたった十ヵ月を欲しがってる。ぬくぬくした血のプールに帰りたいんだよ」
「………、」
「だから、男や子供の血はあんまり興味ない。やっぱり女の、それも生理の血がいい。俺は生理の女を殺さない。彼女が俺にくれる血は、血管にめぐってる血以上に、俺が本来求めてる血だから。あったかいプールから降りてきた血。血の中の血。かあさんのことはすごく憎かったけど、かあさんの生理の血は一番神聖で、俺を何よりも落ち着かせてくれた」
 チノは記憶が混ざった瞳を遠くさせ、僕は胸に広がる黒カビのようなものにうつむく。
 チノの言葉の意味が、分かりかけていた。チノのほうが人間臭く、僕は吸血鬼だ──
「君は、血を飲むことに理由がない。俺を残酷だなんて言えないよ。君のほうが残酷だ」
「………、」
「俺は君が怖い。自分がどれほど、ぞっとするものを秘めてるか、自覚してない。それが君の闇さ」
「でも僕は──」
「君の欲望は本物なんだ。俺みたいに、人間を出来損なったものじゃない。君はいずれ、恋人の死なない程度の血じゃ我慢がきかなくなる。確実にね」
 僕は息を詰め、言葉もつぐんだ。まばたきも停止させ、空白を胸に膨脹させ、はじける前に、痙攣した吐息で、その空気を抜いた。だんだんの動作で、湯気を薄れさせるココアに目を落とすと、水面に映る、感情が途切れた表情と見合うことになる。
 直視したくなかった、聖域の禁忌を突きつけられた。僕の欲望には、理由がない。そうだ。僕はなぜ自分が血が欲しいのか分からない。見当もつかない。気づいたら血が欲しかった。
 強いて言えば、血を飲まなくては体調が崩れる。だが、そんなのは、理由としてもっと不気味だ。僕の血への欲望は、生まれつき備わっていた。つまり僕は、人間ではないのか? 正真正銘の吸血鬼なのか?チノより残虐になる可能性を秘めた、闇のバケモノなのか──?
「君みたいな人を捜してた、って言ったよね」
 僕の混乱を安んじる柔らかな口調でチノは言い、僕は何も考えられないままうなずく。
「相棒になってほしいんだ」
「……え」
「そしたら、君が満足できる血をあげる。あの通り、俺ひとりじゃありあまるしね。俺は君みたいに底無しってわけじゃない。心が落ち着けばいいし」
「………、」
「ひとりよりふたりのほうが、やれることも広がる」
「相棒、に、なったら、今住んでるとことかは、どうなるの」
「家族や恋人の前で、妙なことにならないうちに提案してるんだけど」
「会えなくなる、ってこと」
「嫌悪で愛せなくなるより、消えられて未練垂らすほうが、あっちもマシじゃない? 俺の感覚かな」
 チノは笑い、僕は首を垂らした。
 みんなの気持ちは勝手に推し量れなくても、僕としては、そちらのほうが救われる。嫌われるより、想われるほうがいい。いなくなれば忘れる人もいるだろうが、忘れない人もいると思う。けれど、忘れないほど想ってくれる人を、黙って消えて裏切りたくもない。
 そうして心情面に駆られていたら、ともすると目の前で愛情や信頼を裏切ることになる。どのみち、僕はいつかみんなを裏切るのだ。だとしたら、壊滅する裏切りより、後味の悪い裏切りのほうが、何か残るだけマシなのだろうか。
 それに、人間的な徳性を視野に入れず、欲望のみ見据えれば、僕はありあまる血が底無しに欲しい──。
「考えたい」と言った。猶予を乞うというより、本気で熟考したかった。「じゃあ、一週間後に」とチノは微笑み、「え」と僕は顔をあげる。
「一週間って──」
「俺もじっと待ってるほどヒマじゃないしね。今日と同じ改札で、同じ時間に待ってる。俺と来てくれるなら、荷造りもしておいで」
「……うん」
「断るなら、怒ったりしないからすっぽかすだけでいい。警察を連れてくるとか、くだらない気遣いはいらないよ」
「もし連れてきたら」
「捕まるだけだよ」
「そうなったら、嫌?」
「別に。死刑でも終身刑でもなければ、釈放と同時に、また殺しはじめるだけさ」
 チノは愉しげに笑う。
 チノは捕まらない自由にかこつけ、投機的に血を飲んでいるにすぎないのだ。チノの吸血本能は、心傷による後天的なものなので、あるいは治療で消せるかもしれない。僕は、どんな治療をほどこされても無駄だ。僕の欲望は先天的だ。骨髄にのさばって、つまり“僕”が死なないかぎり、消滅しない。
 そんな僕が、血のために殺しを始めたら、繰り返されるのは、堅実な完全犯罪だろう。逮捕で欲望を禁止されたら切実に困る僕は、捕まえようとする者がいれば、殺してでも疑惑をなかったことにする。僕は血を飲める自由に、醜悪なまでに執着していなくてはならない。
「チノについていくことにしたら、ひとつお願いがあるんだ」
「お願い」
「ひとりだけ、一緒に連れていきたい。ひとり、というか一匹──」
「………、あの犬?」
「う、ん。ダメ」
 チノは肩をすくめ、「君が連れていきたいなら」と言った。ひとまず、ほっとする。カラメルを捨てるのはまぬがれた。あとは──やはり、奈雪や家族だ。
 奈雪を捨てるなんて、即答で不可能だ。しかし、奈雪の同行には、さすがにチノは肯諾しないだろう。そもそも、奈雪がついていくと言うわけがないし、惑わされるなと説得してくると思う。
 奈雪とチノ。愛情と欲望。取るべきほうは的然としているのに、みじめにも迷ってしまう。

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