満たされるよりも
おばけ通りは、カラメルのいる公園の脇から左に伸びている。蔦が這いまわった家、庭がぼうぼうになった家、窓が割れたり、立入禁止のロープが張られたり、子供の好奇心を駆り立てる家が並んでいる。
通りはやはり閑散としていた。ゴミか枯葉がひらついている。夏ならともかく、こんな真冬に肝を冷やしにくる子供もいない。乾かしたばかりの髪を寒風に冷やしながら、僕は奈雪をずっと昔に探検した家に連れこんだ。
昔は、その家は玄関に錠がかかっていて、壊れた窓が侵入口だった。が、来ない数年間のうちに誰かが錠も壊し、玄関から入れた。中も寒く、ほこりが積もって蜘蛛の巣が張りめぐり、真っ白な印象がある。僕たちは土足で中に入った。
忍び足で歩いた。無頓着に歩くと、ほこりが立つのだ。そしてそのほこりで咳きこみ、もっとほこりが立って混乱する。
リビングらしき部屋に直行し、広々したフローリングに犬や猫の死体がないか確かめた。虫の死骸はあるけど、さすがにしょうがない。壊れた窓から冬陽が射しこみ、舞ったほこりを光の粒子にしている。僕は上着を脱ぐと、その上に身を寄せあって奈雪と座りこんだ。
気を鎮めたくて深呼吸したくも、そんなことをしたら、盛大な咳になってしまう。仕方なく、押し殺した沈黙で心をなだめると、「ほんとのことだからね」と前置きした。奈雪は、凛とした瞳を謹ませてうなずく。僕は奈雪の手を握って精神安定を図ると、ゆっくり、チノが血を飲むことから夕べのことまで、すべて彼女に告白した。
改めて思い返すと、僕の体験は現実離れしていた。特に昨夜の地獄絵図は、強い衝撃でかえって印象がぼんやりとして、自分でも夢うつつの倒錯だったかと思う。話しながら、鑑賞したホラー映画をたどっている感じがした。
そう思いたいのかもしれない。そうでも思って、現実ではなかった、と否定しないと、精神が癇癪を起こす。感受性の防衛なのだ。僕はチノとそういう映画を観ただけで、疑似世界の映像に打撃を与えられすぎて、それを現実と錯誤しているのかも──
そんなふうに、自分を懐疑した。だが、違う。あれは現実だった。妄想でも虚構でもなく、僕はあれに五感を虐待された。茫漠とした感覚は、痛覚を超越した麻痺なのだろう。
信じてる、と言われてチノと別れたところに行き着くと、奈雪は思いつめた視線を床に流した。僕はつないだ手を握り直し、「ごめんね」と彼女を肩にもたれさせる。奈雪は僕に目を向け、「隠されるよりいいよ」とボディソープが香る僕の首筋に顔をうずめた。僕は右手で包む奈雪の手を左手で包みなおし、右手では彼女の髪を撫でた。
「ひどいね」と奈雪はつぶやき、僕が何も言わずにいると、「そう思わない?」と奈雪は僕を見る。
「分かん、ない。いや、思うけど、僕にそう言える資格はないよ。あのとき、嫌悪感のどこかで、たくさんの血に興奮してたし」
奈雪は僕と瞳を重ねて、肩に頬を寄せる。「気持ち悪いよね」と僕が自嘲気味に嗤う。奈雪は僕の指に指をもつれさせる。
「チノは、僕の本質を見てるんだ。僕がここでやってた僕は、人間じみた偽物なんだよ」
「偽物ではないでしょ。あたしは、そんな演技するような知恵もない頃からしぐみといたんだ。分かるよ」
奈雪と見つめあった。「それに、人間でも吸血鬼でもしぐみはしぐみだろ」と奈雪は僕の頬を撫でる。僕は瞳を濡らしたものの、「人間でも吸血鬼でも、ダメだよ」と自信を持てずにうなだれる。
「僕の根本的な人格は、人間から吸血鬼にかたむいてきてる。これは事実なんだ。これからどんどん吸血鬼になって、いつか完全に吸血鬼になる。チノより残酷になる。チノが血を飲む理由なら、理解できる人もいる。僕には理解してもらう理由がない。飲みたいだけ。飲まないと死んじゃうから飲むだけ。ほんと、チノのほうがよっぽど人間だよ。欲望を抑えられたらって思う。そうすべきだって分かってるし、そうしたいとも思う。でも、血が欲しい。変えられないんだ。チノみたいに溺れるぐらいに血を飲んで、うんざりするぐらい満足したい。そういう気持ちが、自分でも怖いほど強い」
奈雪は僕を見つめ、僕は小声で詫びる。小さくかぶりを振った彼女に、「奈雪のことも考えるよ」と僕は言う。首をかたむけた彼女に、僕はカラメルに語ったそのままの想いを伝えた。いつか、奈雪を殺すかもしれないことだ。奈雪は当惑を瞳に映し、「奈雪はどうしてほしい?」と核心に触れる。
「あたし?」
「いろいろ考える上で、奈雪の気持ちは知っておきたい」
「………、あたしは、しぐみがそんなに弱いと思わないよ。勝とうと思えば、欲望に勝てると思う。今は彼に感化されてるだけ」
「………、無理だよ。いつか負ける」
「ひとりで頑張らなくても、あたしもいるんだ。あたしは、しぐみにいなくなってほしくない。そばにいたい。好きなんだもん」
「奈雪……」
「あたしは、ひとりぼっちで生きるより、愛されて殺されるほうがいい」
泣きそうになる。何でだろう。なぜ奈雪は、僕なんかをそこまで想えるのだろう。僕みたいな、いじいじしているくせに残虐な、卑劣な妖怪みたいな男を。奈雪なら、もっといい男もつかまえられるのに──。
「でも」と奈雪は瞳を陰らせた。
「しぐみは、彼と行きたいんだよな」
「えっ」
「そうなんだろ」
「な、奈雪とも、いたいよ」
「話聞いてると、ほとんどそっちにかたむいてるじゃないか。あたしのこと殺したくないなんて、ここを捨てる言い訳みたい」
「………、」
「しぐみの自由は、しぐみのものだし。あたしには束縛できないよ」
「奈雪──」
「行きたいなら行けば。あたしは、しぐみの本能にそれぐらいしかしてやれない」
奈雪は僕と手を離した。奈雪を見る。奈雪は、「しぐみを愛してるからだよ」と僕に口づける。唇に温かい体温が流れ、おとなしいその熱は、衝動的に僕の胸に執着をはじけさせた。顔を離して立ち上がった奈雪の右手をとっさに取り、彼女を抱きしめる。
「………、何?」
「奈雪がそばにいないなんてやだ」
「彼がしぐみを守るよ」
「そういうことじゃない」
「………、」
「僕ね、きっと奈雪と血に両天秤かけたいんだ」
「あたしは、あたしだけを想ってほしいの」
「じゃあ、奈雪だけを想う」
奈雪は僕を見上げた。「ずっと一緒だったのに」と僕は奈雪の肩に顔を伏せた。奈雪はしばらく僕に抱かれるままでいたけど、ふと身動ぎして、腕の中で体勢を直す。「血が欲しいんだろ」と奈雪は僕の頭を撫でる。
「奈雪も要る」
「あたしを殺してもいいの?」
「殺さないように頑張る」
「ここにいたら、しぐみを満たせないんじゃない?」
「奈雪がいなくなったら、今度は何か欠けるよ」
奈雪の瞳に、愛情が浸潤した。「奈雪を愛してる」と僕は彼女に口づけ、奈雪はしばらく無反応だったものの、ついには深く応えた。僕たちは相互をむさぼり、奈雪の細い腰を抱く腕に力をこめた僕は、振り切るように彼女のそばにいるのを選んだ。
家に帰り、その日の僕たちは、血を交わすかわりに軆を契った。終わったあと、「こんなふうにならないほうがよかったのかな」と奈雪は気にしてくれたけど、「奈雪がいればいいよ」と彼女の柔らかな体温を抱きよせた。僕の凪いだ瞳を見つめたあと、「うん」と奈雪は僕の胸に顔をうずめ、僕は彼女の湿り気を帯びる髪を梳く。
そういえば、今日は試験週間だったが、試験より僕にはこの愛が大切だ。奈雪の温かい血から広がる体温を体温に取り入れ、何も考えずにシーツに力を抜いた。
奈雪がいればいい。正直、その言葉に建前が微塵もないといえば、嘘だった。奈雪のそばにいたいのは紛れもない本心でも、奈雪がいれば血はいらないというのは、偽善的な綺麗ごとだった。
奈雪はこれからも日曜日に血をくれるという。僕はそれにうなずきつつ、どこかでは、あの小屋での大量の深紅を求めていた。ぞっとするが、もうあれしかいらない、という想いがちらつくときもある。
あの悪夢を引き金に、僕はとうとう渇望を覚えてしまったのだ。奈雪は僕の心は少なからず感じ取っているようで、ときおり不安げにこちらを見つめる。そんな彼女に出逢うと、「奈雪がいれば平気だよ」と僕は微笑み、彼女の曇った瞳を安んじた。
深紅の誘惑に打ち勝ち、吸血鬼から人間に這いあがり、奈雪との愛を生きがいにするのだ。チノのことは忘れよう。あの悪夢は、本当に夢だった。他人の血をがつがつ食らうなんて、そんな欲望は捨てる。
奈雪の愛おしい血があればいい。奈雪の血が、僕の血の中の血だ。そんな神聖な血を生み出すこの愛を、人間として、大事にしていこう。
心から、そう誓っていた。だが、奈雪は──
【第十二章へ】
