忌まわしい正体
部屋に戻ると、またどこかに出かけたのか、早凪のすがたはなかった。つくえにあった恵波の写真は、俺のつくえに放られていた。
俺はため息をついてそれをまとめ、コルク色の封筒に入れてまた引き出しに隠そうとした。が、少し考えてまた写真を取り出すと、何の写真か分からないくらい細かくちぎって、ティッシュに包んでゴミ箱に捨てた。まだ溜まっていた写真もそうした。そうしながら、いったい犯人は誰なのか悩んでいたけど、見当もつかなかった。
翌朝、朝食を恵波と並んで食べて、学校にも一緒に向かった。早凪とは、ちょうどすれちがったのか朝には逢っていない。早凪とはクラスは違うが、もし口外されていたら、うわさなんか一瞬で校内に広がるのは分かっている。
別々に教室に行くなんて、小細工だ。それより、くだらないことを言われたら俺が恵波を守らなくてはならない。廊下は朝陽がきらきらして、生徒の話し声や笑い声が平和だった。教室のドアの前で、俺たちは一度顔を合わせる。「大丈夫」と恵波が言って、俺もそれにうなずくと、ドアをスライドさせた。
「あ、おはよー」
ちょうど教室を出ようとした女子のクラスメイトが、俺たちを見て普通にそう言った。普通すぎて思わず詰まっているうちに、彼女は廊下に出ていく。俺と恵波は目を交わした。そして教室を見たけど──誰ひとり、軽蔑を浮かべて注目なんてしていなくて、いつも通りの教室だった。
……早凪が何も言っていない? あるいは、クラスメイトたちによほど偏見がない?
「おーい、何してんの?」
肩をたたかれてびくっと振り返ると、今度はクラスメイトの男子だ。
「教室入らせろよ。あー、つくえでもうちょい寝るー」
そう言って俺の脇を通り過ぎて教室に入っていくそいつに、誰かがひそひそと話しかけてこちらを指さす様子もない。「ばれてないな」と俺がかすかな声で確かめると、「うん」と恵波も小さくうなずいた。
言っていない。早凪は言っていないのだ。何だ。よかった。確かに早凪は、うわさに興じて何かを周りに言い触らすタイプでもない。しょっちゅうどこかに出かけて、学校に友達がいるのかもよく分からないほどだ。
ふたりしてほっとため息をついて、俺と恵波は教室に踏みこんだ。そしてばらばらの席に別れ、騒がしい教室の中に混ざる。
席に着いた俺は、警戒しながらつくえの中を見た。そしてまばたきをする。コルク色の封筒がなかった。何で、とつい動揺で胸がざわめく。毎朝、律儀に投げこんでいたくせに、このタイミングで忘れるのか。早凪にばれた拍子とか。
何だよ。俺は眉を寄せ、まさか撮ってたの早凪じゃないよな、なんて思っても──
そのうちチャイムが鳴って、いつも通り担任の雪見がやってくる。出欠を取ったあと、近づく期末考査のことを話して、足元が冷えはじめた教室に暖房をつける。それでまたさっさと教室を出ていくと思ったら、雪見はふと席のあいだを縫って、恵波のかたわらで立ち止まった。
ん、と俺がそちらに目をやると、恵波も不思議そうに雪見を見上げる。雪見はこちらに背を向けているので、どんな顔をしているのか分からないが、恵波は何度かうなずいて──たぶん、分かりました、と言った。
それから雪見は教室を出ていって、俺はまた恵波を見た。恵波はちょっと顔を伏せて考えこんでいた。
「放課後、いつものことで少し話がしたいって」
一時間目が終わって恵波の席に行き、雪見のことを訊いてみるとそんな答えが返ってきた。
「いつものこと?」
「あ、僕、友達いなくてクラスで浮いてるでしょ。だから先生、心配してたまに相談に乗ってくれてるんだ」
「そうなのか。知らなかった」
「たいていは廊下とかでさらっと空いてるか訊かれるから。もう大丈夫ですって言わなきゃね。水澪と仲良くなれたから」
「ん。そだな」
「先生びっくりするかな」
「つか、見てたら俺がそばにいるようになったの分かるだろ」
「そっか」と恵波は咲い、それから気がついたように声をもらす。
「何?」
「いや、だから僕、放課後は残るんだよね。水澪、先に帰ってていいよ」
「え、待つよ」
「でも、たまにすごく話しこんで長くなるし──」
俺はつくえの下の恵波の膝の上で、みんなには見えないようにその手をつかんだ。
「水澪──」
「今、恵波をひとりにするのは怖い」
「え、……あ、」
「犯人分かるまで、なるべくそばにいる」
「………、うん」
「大丈夫だから。ゆっくり話していいし」
「ごめんね」
俺は首を横に振った。恵波の手も俺の手を握る。気づかれたら言い訳できないのに、その休み時間は俺たちは手をつないでいた。
早凪はやっぱり、俺と恵波のことを吹聴しなかったみたいだった。誰も何も言わなかったし、誰も目を留めてきたりしなかった。ちょっと何を考えているか分からない奴だけど、とりあえずよかった。
放課後、恵波を教室に残して、俺は靴箱で恵波を待つことにした。段差に腰かけ、それでもこのあと、改めて部屋で早凪と顔を合わせるのは気まずいなと思う。
昨日出かけていたのだから、今日は部屋にいるだろう。一応、誰にも言わなくてありがとうとか言うのか。早凪に興味がないのは確実で、変な警戒はしてもらわなくていいのだが、それでも気持ち悪いくらい言われるだろうか。
何かなあ、とかもやもや思っていると、いつのまにか日が暮れてきた。夜道を恵波ひとりで歩かせるわけにはいかない。待っててよかったな、と思っていると、不意に「水澪」と呼ばれて俺はぱっと振り返った。
もちろん、恵波だった。「遅かったな」と俺が立ち上がると、恵波はこくんとして上履きを脱いで靴を持ってこちらに来る。そして黙って靴を履き、なぜか視線をこちらに向けない。名前を呼ぶと、なぜか「大丈夫」と小さく言われた。
大丈夫、って──何が。
さすがに違和感を覚えても、恵波は先に昇降口に歩き出す。オレンジの空は、一瞬にして闇に食われている。生徒もほとんど引き、周りに人影はない。俺は恵波の手首をつかんで、「どうかした?」と訊いた。すると、びくっと恵波は肩をこわばらせて──それから、俺に目を向けた。
その瞳は恐怖に乾いて、睫毛もかすかに震えていた。
「恵波──」
「写真……なんか、怖くないって思った」
「えっ」
「気持ち悪いけど、いつものことに較べたらって」
「な、何──」
「僕、ここに入学して、寮生活になってからたまに下着を失くすんだ。失くすんだって思ってた。でもおかしいよね、いくら共同コインランドリーだからって。違うってすぐ分かった。誰かに盗まれてるって」
俺は目を開いた。恵波は弱く息を飲んで、わずかに喉を痙攣させる。
「な、失くした下着は──戻ってくる。しばらくしたら。綺麗にラッピングされて、かばんの中とかに戻ってくるんだ。あ、開けたら──精液がべったりついてる」
「……え、」
「そんな人がいるのが怖くて、クラスの誰と仲良くしたらいいのか分からなくて。でも、中学時代の友達にもさすがに言えなくて。水澪が、写真撮られるって教えてくれたとき、僕、落ち着いて見えたかもしれない。確かに落ち着いてた。そんなのより、もっと気持ち悪いことされてて、……僕──、」
突然、恵波の瞳が傷に滲んだ。ついで、その裂け目からぽたぽたと雫があふれてくる。
「恵波──」
「今まで、先生と話し合ってて」
「……雪見は知ってるのか?」
「………、知ってた」
「そう、か……」
「知ってたんだ」
「う、うん」
「何にも話してないのに! 先生、下着のことも写真のことも知ってた!」
──え。
思わず目を大きく剥く。
何? 何だ、それ──。
たどたどしく、考える。行き着く答えに、とっさに声が出ない。恵波の瞳がゆがみ、涙が一気に増えた。そして俺に抱きついて激しく泣き出した。制服のジャケットがどんどん濡れていく。俺はバカみたいに突っ立った。だけど恵波が嗚咽に咳きこんではっとして、とまどいながらも恵波の泣き顔を覗きこむ。
「そ、それって──雪見がしたってことか?」
恵波は濡れた目で俺を見つめ、うなずいた。一瞬、意識が真っ白になった気がした。それから、恵波の写真が何枚も頭をよぎった。
あいつが。あいつが、恵波を。
肩が震えるのが分かった。今すぐ、あの涼しげな横っ面を殴りつけたくなった。俺が唇を噛んで校舎に引き返そうとすると、恵波がしがみついてくる。
「恵波、」
「ひとりにしないで」
「……あ、」
「そばにいて。お願い。怖いよ」
俺は深呼吸してから、恵波を抱きしめた。恵波は何とか嗚咽が大げさにならないように泣いている。俺はその頭を撫でて、「寮に戻ろう」とささやいた。恵波はいやいやをして、俺のジャケットを握りしめる。
「でも──」
「水澪と離れたくない」
「………、」
「もう水澪から離れたくないよ」
「じゃあ──俺の部屋に行こう」
「え……」
「今日は早凪いると思うけど。どうせ、あいつにはばれてるんだしさ」
「……いいの?」
「うん。泊まっていっていいから。今夜はずっとそばにいる」
「水澪……」
「大丈夫だよ。ちゃんとそばで恵波を守るから」
恵波は心もとなくうなずき、やっと俺の胸から顔を上げた。怯えるかと思ったけど、俺は軽く恵波に口づけた。恵波は俺を見つめて、やっとほんの少し咲った。それにほっとして咲い返した俺は、恵波と手をつなぎ、すっかり暗くなった外へと歩き出した。
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