訪問者
早凪の“好きな人”は、何だか、よく見ないとただの悪趣味なオブジェのようだった。
目玉がふたつ。舌が一枚。心臓がひとつ。全部、液体がたっぷり入った瓶の中で、腐らずにゆらゆら浮かんでいた。そして、「これは秘密にしとく」と言われた鍵のかかった手に乗るサイズの箱が、ひとつ。
「俺、死体しか興味ないんだよね」
始発で寮に戻り、あの店に預けていたという瓶の中の“好きな人”を愛おしそうに見つめながら、早凪はまだ放心するベッドサイドの俺に言った。
「殺すのは、まあ普通。好きなのは死体で、殺しは嫌いって人いるけど、俺はそうでもないかな」
そういえば、早凪はいつもいつのまにか出かけているから、朝帰りで服が変わっていることも気づかなかった。無論、あの服はすべて脱いで、シャワーも浴びて、今は身綺麗にしている。
「この人は、ずっと好きだった幼なじみなんだ。去年かな。中一から通ってたあの店に依頼して、殺しはやってもらって、死体を一晩じゅう解剖してた。射精が止まらなかったよ」
早凪の細い繊細な指が瓶を伝う。
「あの店を教えてくれたのは、小六の担任。ガキを殺すときは今でもあの店で会うよ。いろんな趣味がいるからね、拉致ってくる獲物は毎回タイプがばらばらなんだ」
俺は、やっとの思いで視線を下ろした。そんなことを語られても、まだ、もともとが信じられない。ルームメイトが猟奇殺人を犯しているなんて──。
「まあ、そんなしょっちゅう誘拐とかできないけどね。自殺志願者を募ったり、死刑囚とか末期患者を流してもらったり、あと、戸籍がない人もあの街には多い。臓器提供みたいに組織的なところと契約して、俺たちに死ぬことを提供する人もいるかなー」
足音が近づいてきた。でも、顔を上げるための首の筋肉が動かない。早凪はしゃがんで俺を覗きこみ、スマホをさしだした。音符が画面に表示されている。
「ゴミ箱、あるでしょ。タップして」
早凪が示したゴミ箱のマークを見つめる。ずいぶんかけて、のろのろと手を持ち上げ、そこに指を乗せた。
『ルームメイト.mp3を削除しました』──
力なく早凪を上目で見る。早凪は「パソコンもないし、クラウドにも保存してないから」とにっこりした。
「これであの録音は完全に消えた。だから──」
早凪の目が笑みを止めた。でも口だけはまだ笑っていて、言った。
「秘密だよ?」
──その直後、期末考査期間に入った。俺は、どうやって過ごしていたのかを憶えていない。頭の中が真っ白で、何も記録されていない。先生に「今回は調子悪かったな」と言われたのだけ響いて、結果が良くなかったと察した。
空っぽのあいだ、夢を何度も見た。血の臭いが噎せかえる悪夢だった。
たまに視覚が光景を捕らえた。早凪が窓からの冬の陽射しに照らされながら、幸せそうにつくえで瓶をつついていた。
でも、早凪はそれで満足はできないようだ。新鮮な死体も適度に必要らしく、相変わらず留守にするときがあったように思う。
俺はあの朝帰りから、ベッドサイドをずいぶん動いていない気がした。
そのうち冬休みになった。俺はもちろん帰省しないが、早凪は好きな人を連れて一週間くらいいなくなっていた。そういえば、足元がやたら冷える冬だった。そしてやがて三学期が始まった。
不意に、紀田くん、紀田くん、という声がしつこく聞こえた。やっぱり茫然とベッドサイドにいた俺は、ゆっくり顔を上げた。ドアのところで、寮の管理人のおばさんがこまねき、「面会の人が来てるよ」と言った。俺はわずかに眉を寄せたものの、ほとんど思考が働かないまま、ふらふらとまっすぐ歩けているのかも危うく面会室に向かった。
「穂村恵波のことで、あなたと話し合っておきたいわ」
俺はしばらくジーンズの膝を見つめて、考えてしまった。穂村恵波。穂村恵波。穂村──
瞬間、いきなり感覚にスイッチが通った。感覚が錯乱しながら急激によみがえった。
強い風音がしていた。質素な部屋のモカのソファに座っている。暖房がきいて、テーブルにほのかに湯気が香る緑茶も置かれていた。俺は顔を上げ、向かいの同じモカのソファにいる声の主を見た。
黒目がちの大きな瞳があった。睫毛が長く、唇には赤いルージュが走っている。柔らかい頬から顎の線、綺麗に染められた茶色の長い髪。胸が豊かに大きく、代わりに腰は細くて、歳は二十歳ぐらいだろうか。
知らない女なのに、なぜこんなに見憶えがあるのかと思ったが、そうだ。似ているのだ。もし、恵波が女だったら──
そうだ。恵波。俺は思わず立ち上がりそうになった。恵波のことを完全に忘れていた。茫然としていたあいだ、俺は恵波とどうしていたのだろう。しゃべった? 顔は見たか? ぜんぜん思い出せない。
俺は女を見た。女は落ち着いて俺を見つめ、もう一度言った。
「恵波のこと、話していいかしら」
俺は口を開けて、ちょっと咳払いしてから、何とか声を発した。
「え……恵波の──えと、親じゃないですよね」
「今は川池仁乃と名乗ってるわ」
「……今は?」
「二年前までは、違う名前で生きていた。恵波の姉でもあったわ」
姉? 二年前って、ちょうどその頃に姉は亡くなったと恵波は話していなかったか。いや、そもそも違う名前って──
「二年前、私は死んだことになってるの」
「は……?」
「突拍子もない話だとは分かってる。でもお願い、聞いて。今、恵波のそばにいるのはあなたなんでしょう?」
「そば……に、いかなきゃ。すみません、俺、わけ分かんないし、とりあえず恵波に訊いて──」
「恵波に私が生きていることは言わないで」
「……いや、ええと」
「あの男が恵波に手出ししてるわね?」
あの男。あの……──男。
俺は、女に顔を上げ直した。
「雪見のこと、何か知ってるんですか?」
女は苦しげなため息をつき、「最悪」とつぶやいた。俺がとまどったままただ見つめていると、女は俺をまっすぐ見た。
「あの男は異常よ。私はあの男から逃れるために事実上死んだの。死ぬことでしか逃げられないような男なのよ」
「それは、……恵波から少し」
「あの男から逃れたいから、私はあの男のことは常に調べてる。私の弟の担任になること自体、偶然なのかしらって思うわ。恵波は初めから目はつけられてたみたいね。それでも、もう私は恵波にあいつに気をつけろと伝えることもできない。見守るしかなかったけど──あなたが現れて、少しほっとしてたのよ」
「お、俺と恵波のこと……」
「知ってるわ。寮も学校もそういう場所じゃないってわきまえるのはえらいけど、道端じゃ見かけられることもあるわよ。きっとあの男にも」
「……すみません」
「いいの、あなたといるようになって、恵波はずいぶんまた咲うようになってたわ。最近は何だか様子が変だけど」
「あ、……何か、」
「そのことで、こうしてリスクもあるけどあなたと話しに来たの。ねえ、恵波がどうでもよくなったのではないわよね?」
「も、もちろんっ」
「じゃあ、どうしてあの子の話を聞いてあげないの? ほかの人のこと考えてるみたいに、ぼうっとしてるの? あの子、ついにまた自分に閉じこもってるわ」
俺は口ごもって、ただ冷たい体温がせりあげてくるのを感じた。
恵波。そうだ。くそっ。何で思い出せない? 恵波と会話していたかどうかの記憶さえ飛んでいる。
「でも、もし、それがあの男からあなたにも何かあったものなら──」
「ち、違います」
「ほんとに? あの男に、恵波に近づくなと脅されたんじゃないの?」
「それはまだないです。いつかあるかもしれないけど」
「必ずあるわ」
「………、死んだことに、って」
「私?」
「どういう意味ですか」
「戸籍上は死んだの。だから、死亡確認の取れていない人の戸籍で生きているのよ」
「そんなのって──」
「少ない話じゃないわ。意外とね。私は──初めは、もう死ぬつもりだったけど」
「………、」
「あの男につけまわされて、彼氏も友達も失って。初めての相手さえもあいつよ。部屋中に私の写真が貼られた異常な部屋。あの男は下着をすごく好むのよ。部屋にたくさん失くしたはずの下着があったわ。それだけじゃない、私がトイレに行ったのを見計らって、生理ナプキンまで回収して集めてた」
下着はぶつけられた射精につながり、トイレの監視は盗撮のひとつにつながった。いよいよ、この人が本当に雪見のことを知っているのが迫ってくる。そして、本当に恵波の姉だということも。だから、つまり──
【第十章へ】
