黒雲に犯されて
「恵波は、あなたの代わりなんですか?」
女は俺をちらりとして、「恐らくそうね」と小さく息をついた。
「でも、こんなことになるならせめてひとりで苦しむべきだったかもしれない。まさか、恵波に投影を始めるなんて。まあ、私がすがたを見せれば済むのかもしれないけれど」
「……監禁されますよ」
「そうね。でも──」
「死のうって思うほどだったんですよね」
「……そうね。つらかったわ。でも結局、生き延びるにはどうしたらいいかを調べまくって、戸籍を買うって方法でこうして生きてる」
「買ったんですか」
「そうよ。ネットでも買えるわ」
「え、けっこう安いんですか」
「………、私はね、一度おかしなところと契約したの。生きたまま解剖させるなら、死後一週間前に一千万円って」
目を開いた。脳がどくんと脈打つ。
赤の飛沫と鉄の臭いが広がる。それは──
「私は一千万を手にして、いよいよ自分は死ぬんだって怖くなった。でも、キャンセルは絶対に不可能。お金をそっくり返してもね。必死で調べた。そしたら、“生まれ変わる”みたいな単語だったかしら、ネット検索で戸籍リサイクルっていうのをぎりぎりで見つけた。それが五百万で可能だったの。リサイクルできないクリーンじゃない戸籍なら、廃棄料込みで一千万。迷わなかったわ。そこに私は自殺したことにしてもらって、川池仁乃になった」
「でも、それでも──」
「そうね、しばらくは身を潜めてたわ。でも、一度契約した解剖クラブも相当やばい趣味を商売にしてるから、派手に私を捜索したりできなかった。最近は、入金後の身柄にはもっと厳しくなってるらしいけど」
解剖クラブ。たぶん、あの店か。いや、あのクラブは一応殺してからだったから、生きたままということはもっと危ない店だ。
あの日、縛られた軆で恐怖に狂いかけていた男がよぎる。この人も、あの男みたいになるはずだったのだ。
「死んだからには、もう恵波に接触することも違法なのよ。今だってぎりぎりだわ。でも、やっぱり大切な弟なのよ」
「……恵波が、頼りになるおねえさんだって」
「私のせいでこんなことになってるから、それは分からないけど──。ねえ、ほんとにあの男に脅されてるんじゃないの?」
「………、ちょっと、ショックなことはあったんです。それのせいだ。雪見はまだ、俺に直接は言ってきてないです」
「ショック、ね。まだ立ち直れそうにないの?」
「いや、あなたが恵波の話してくれてやっと気づきました。だから、今から恵波と話したい」
「そう。じゃあ、恵波をもうひとりにしないであげて。本当に危ないの」
「俺がそばにいるくらいで、雪見は引きますか?」
「引くかは分からないわ。でも、何かを未然に防ぐことにはなる」
「そう……ですね、じゃあ、」
「私はもう、ここには来れないわ。あなたと話せるのはこの一度きり。だから、今しか言えないけど──恵波を私と同じ目に遭わせないで」
「………、はい」
「私は誰にも相談できなかった。でも、恵波にはあなたがいる。どうか、お願い。私の大切な弟なの」
「分かりました。ちゃんと、話します。守ります」
やっとおねえさんは微笑んだ。その微笑も、確かに恵波に似ていた。「じゃあ、あの男に気づかれる前に」と結局お茶には手をつけずにおねえさんは立ち上がり、俺もソファを立った。
おねえさんは変にきょろきょろせず、管理人のおばさんに頭を下げ、逆に堂々と出ていった。
俺はそれを見送ってから、日中に学校にいない自分に、今日は日曜だったなと思い出す。恵波も部屋にいるはずだ。俺は玄関から、まっすぐ恵波の部屋に向かった。
ドアの前で、ちょっと緊張した。俺はずっと、恵波を無視していたようなものだ。確かにあのクラブでの光景はひどかった。でも、恵波だって雪見のことで大変だったのに。自分のことで、完全に精一杯になっていた。まず謝らなきゃ、とノックすると、顔を出したのは恵波のルームメイトのほうだった。
ルームメイトは俺の顔を憶えていて、訊く前に恵波は今いないと言った。じゃあどこかいるか分かるか問うと、分からないと返ってきた。
また自分に閉じこもるようになっている。おねえさんはそう言っていた。もしかして、実は奥に隠れているのではないか。だから、本当にいないか念を押したが、ルームメイトに嘘をついている様子はなかった。じゃあ、どこに──
寮のいろんなところを見てまわったけど、恵波のすがたはない。出かけている? どこに? 図書館とかかなあ、と一応思い当たるところもあったから、俺は玄関に戻ってきた。
見つからないほど焦りはじめる。おねえさんと約束したのだ。そばにいる。俺が守る。なのに、こんなにすれちがっていると不安がふくらむ。俺はどれだけ無神経に上の空だったのだろう。そうとうのリスクがあるのに、おねえさんが声をかけてくるほどだったのだ。
あの日のことも恵波になら打ち明けていいかもしれない。そう思って、玄関も出て寒空の下で視線をあちこちに移していたけど、結局恵波は見つからなかった。
どうしよう、と部屋に戻ると、早凪がつくえでスマホをいじっていた。いたんだっけ、とそれさえぼんやりしている自分を茫然としていると、早凪は俺に首を捻じった。
「面会とかめずらしいね」
「ん、まあ……」
俺が答えると早凪は睫毛をしばたいて、「やっと返事するようになったんだ」と肩をすくめた。俺は眉を寄せつつもベッドサイドに腰かける。
「あのさ、早凪」
「ん」
「俺ってどんな感じだった?」
「は?」
「……ずっと、頭が真っ白だったんだ。何も思い出せないくらい。恵波──にどう接してかも憶えてない」
「っそ。でも穂村のことは知らない。クラスも違うし」
怨みがましく、早凪の背中を見る。早凪は画面に指をすべらせている。調子が狂ったのは、もともとこいつのせいなのに。
恵波の肩越しには、やっぱり“好きな人”のパーツがある。はっきり覚醒してきていて、あの血生臭い夜がやっとぼやけてきているけど、やっぱり夢ではなかったのだ。
恵波は夕食のときに食堂にも現れなかった。夕食が終わったら門限だから、さすがに恵波は戻っているだろう。俺は夕食をさっさと片づけ、再び恵波の部屋を訪ねた。ノックをしても、しばらく応答はなかった。が、何度か恵波の名前を呼びかけていると、やっと心細い音を立ててドアが開いた。
こちらを見上げてきたのは、恵波だった。恵波だったが、表情がぜんぜん知らないもので狼狽えた。血の気が引いて、頬も額も蒼い。噛んでいる唇の色にさえ精彩がなかった。暖房をつけていないせいじゃないのは、定まらない視線で分かった。
「恵波──」
恵波は俺を見上げた。穏やかだった瞳の色が砕けていた。
「……どう、したの」
「恵波、ごめん俺、ずっと──」
恵波は視線を落とした。俺が覗きこもうとすると、露骨に顔を伏せてしまう。
「ほんとにごめん、ちゃんと話すから」
「……いいよ」
「え」
「あの日からだもんね」
「……あ、」
「葉鳥くんと何かあったんでしょ?」
「ん、まあ──ここでは話せないけど、」
「綺麗だもんね、葉鳥くん」
「えっ」
「僕なんかより、みれ……紀田くんに似合ってる」
「な、何、違うよっ。そんなんじゃない。ほんとに、その──話したいんだ。ちょっと部屋抜けられないか」
「もう僕は、」
「大丈夫だよ。ちゃんと俺は恵波が、」
「穂村でいい」
「何で、」
「何でって何? 僕のことがどうでもよくなったんでしょ、いいよそれで。結局、水澪もみんなと一緒だったんだ」
「違うよ。ほんとに、俺もつらいことがあっただけだよ。恵波も大変なのは分かってた、でも、ほんとにショックで」
恵波は俺を見つめた。そして小さく嗤った。
「戻ってきてくれなかった」
「え」
「僕のそばにいるって言ってくれたのに。約束破った」
「ごめん、ほんとに──」
「もういい。水澪が僕のこと忘れてるあいだに、全部終わったよ。もう終わったんだよ。これからはただのクラスメイト。もうほっといて」
「話そう。話したら分かるから。だからここからちょっと──」
恵波の手首に手を伸ばした。引っ張って、袖口がちょっとめくれてはっとした。何だ? 細くて白かった手首に、今、青黒い──
「恵……波、」
「……もう僕のことはひとりにして。関わってこないで」
「そんな、」
「もう僕は紀田くんのものじゃない。紀田くんと同じだよ。もう葉鳥くんなんだよね? もう、そう思わせて。そう思ってたほうが楽だよ」
「恵波も言ってただろ。早凪は危ないって。ほんとだったんだよ。ほんとに……」
恵波はかたくなな瞳で俺を見つめた。何で。何で何で何で。どうして俺は、バカみたいに吹っ飛ばされていたのだ。いくら放心したからって、なぜこんなにも大事な恵波のことさえ忘れていたのだ。最低すぎる。恵波を見守るおねえさんも声をかけてくるはずだ。このままでは恵波が離れてしまう。
「恵波、俺が好きなのはちゃんと恵波だから」
恵波の視線がわずかに揺れる。
「ほんとにごめん。話すことたくさんあるし、俺の部屋に来たらその証拠だって見せられる。どうでもよくなるわけないだろ。恵波を守るって決めたんだ。そばにいるって決めたんだよ」
「水澪……」
「だから、まだ俺のこと嫌いにならないでくれよ。ここしばらくのことは、ほんとに悪かった。俺が弱かったせいだ」
恵波は俺を見つめた。そして、ゆっくり手を持ち上げて俺の頬に触れた。
「……好き、だから」
「ん」
「水澪が、好きだから……もう、ダメなんだ」
「えっ」
「僕に関わってちゃいけないんだ。そしたら水澪が、」
「雪見か?」
恵波は口をつぐんだ。俺は頬に触れている恵波の冷たい手をつかんだ。
「俺、あいつから恵波を守りたいんだ」
「……ありがとう。でも、もういいよ」
「もういいって、」
「僕のことは放っておいて。僕が好きなら、ほんとに、それこそ関わらないで」
「どうして」
恵波はふと背伸びして、俺に軽くキスをした。そして、とても哀しそうに微笑んで俺を廊下にとんと押した。その手首を素早く見たら、やっぱり擦り切れて青黒くなっている痕がある。
恵波を私と同じ目に遭わせないで。
おねえさんの言葉がよぎって、まさか、と絶望が垂れこめた。それと同時にドアが閉まった。真っ白だった頭が、今度はどんどん虫がたかるように真っ黒になりはじめてきていた。
【第十一章へ】
