少しずつ歩くように
目が覚めると、もうすぐ朝なのか、蒼い空気がカーテン越しに部屋に浸透していた。
俺は胃にこびりつく吐き気を感じながら、また夢を見てた、と思った。高校時代、悲惨な最期を遂げてしまった、好きだったあの女の子。
雪舞がいなくなってもう何年だ? 十八歳だった俺は三十歳になった。十二年。なのに、彼女はいまだに、俺を夢で苦しめて復讐することをやめない。
隣では、陽葵がまろやかな寝息を立てて眠っている。みっつ年下の俺の恋人だ。でも、俺よりはるかにしっかりしていて、彼女のおかげで俺は病院にも通わなくなった。
ショートボブの髪をそっと撫でて、腕まくらからそのまま陽葵を抱き寄せる。温かくて、柔らかくて、優しい匂いの軆が、こわばった心をほぐす。
晩秋で、明け方は特に冷えこむ。陽葵とくっついて体温がめぐりあう軆は温かくても、爪先は冷たい。
七階のこの部屋は、外の騒音もなく、防音壁で周りの生活音もなく、住宅街でなく街中に立つマンションにしては静かだ。
腕の中で身動ぎした陽葵の髪からは、俺と同じシャンプーの香りがする。シャンプーも、柔軟剤も、トイレの芳香剤だって、ふたりで吟味して好きなものにしている。
このマンションで同棲を始めたのがおととしで、陽葵とはそろそろ結婚も意識している。でもその前に、俺はもう一度きちんと就職しないとダメだよなあ、と分かっている。今も一応働いていても、バイトのようなもので、ぎりぎり家賃には当てられているけれど、生活費は陽葵と折半だ。
陽葵はインテリア系の仕事で、実際俺より稼いでいる。「瑞栞はまだ無理しなくていいんだよ」と陽葵は言ってくれるけれど、そんな彼女だから、俺は早く結婚したいと思う。
陽葵を抱きしめ、頭の中の薄暗いイメージを押し返そうとしていると、ふと名前を呼ばれた。俺ははたと腕の力を緩めて、陽葵を覗きこむ。
「ごめん、痛かった?」
そう気にすると、陽葵は首を横に振って、澄んだ黒い瞳に俺を映し、「嫌な夢?」と俺の頬に触れた。眠っていた体温で、その手は温かい。
俺はあやふやに咲って、「情けないよな」とつぶやいた。「そんなことないよ」と陽葵は俺の背中に腕をまわして、胸にこめかみをことんと当てる。
「大丈夫? お水持ってこようか」
「ん、……平気」
「少しこうしてる?」
「うん」
俺は、陽葵をもう一度ぎゅっと抱きしめた。陽葵も俺にしがみつき、軆の熱を分けてくれる。穏やかな鼓動が、自然と重なっていく。
陽葵の温もりがゆっくり心身に染み渡って、薬を飲むより明らかに、黒い靄がすうっと晴れていく。喉までせりあげていた吐き気も沈んでいって、かすかに胸でしこりになっても、耐えられないほどではなくなる。
俺は指先で陽葵の髪を梳き、「楽になってきた」と伝えた。陽葵はうなずき、「よかった」と俺の背中をとんとんとしてくれる。俺は陽葵の素顔を覗きこむと、そっとその唇にキスをした。
六時をまわると、俺たちは一緒にベッドを起き出して、寝室を出た。「寒い」と陽葵はつぶやきながら、ルームウェアに水色のもこもこ上着を羽織る。俺もカーキのフリーツのジップアップを、家での上着にしている。
陽葵は起きたら、まずリビングでスマホとノートPCで、仕事関連のメッセやメールを確認する。そのあいだに俺は、溶かした細挽きコーヒーにたっぷり牛乳を混ぜたカフェオレをふたつ淹れて、マグカップを陽葵に渡す。
俺も陽葵もコーヒーは苦くて飲めない。そんな共通点も、親しくなっていった切っかけのひとつだった。
PCにトラブルやクレームの報告は来ていなかったようで、ほっとした表情で陽葵はカフェオレを飲む。
俺も、もともとインテリア系の仕事をしていた。リフォーム会社だったから、家電や雑貨をあつかっている陽葵が勤める会社には、かなり世話になった。クライアントの希望に合うインテリア品を、陽葵はいつも熱心に選んで、在庫を確認して、発注してくれたものだ。
陽葵の会社におもむいたとき、俺がいつもコーヒーに口もつけずに残して、でもお茶請けのお菓子は食べていくので、「もしかして、金居さんって苦いのダメですか」と陽葵が訊いてきた。思わず恥ずかしくなったものの、陽葵にはだいぶ気を許していたので「まあ、はい」と素直にうなずいた。
すると陽葵は、「うわあ、いつもコーヒー出しちゃってごめんなさい」と謝って、「私もコーヒー出されると困る人だから、ずっと気になってて」と苦笑してみせた。
「平原さんもコーヒー飲めないんですか」
「飲めないです。カフェオレは好きです」
「あ、俺も。牛乳と砂糖すげえ入れます」
「はは、同じだ。紅茶とか楽しめたら素敵なんですけど、種類多くてよく分からないっていう」
「何かもう、決めるの面倒になったら緑茶ですよね」
「ですよねー。結局、日本茶が落ち着く」
そして結局、俺たちは初めてのデートでも抹茶カフェに行って、パフェや大福、ロールケーキを写真を撮りながら楽しんだものだっけ。ちなみに、そのときの抹茶色のテーブルの写真が、陽葵のPCのデスクトップ画面だ。
だから、俺たちは以前は緑茶や玄米茶をよく飲んでいたものだけど、今は俺が喫茶店に勤めているので、コーヒーを淹れる練習も兼ねてカフェオレが増えてきた。
「瑞栞、朝ごはんはパンとごはんどっち?」
座卓のPCの前にしゃがんでいた陽葵は、アイボリーのソファに座って俺を見た。俺はカフェオレをすすってその隣に腰かけ、「パンかな」と答えた。「よしっ」とうなずいた陽葵は、「たまごサンドでも作りますか」と立ち上がって、リビングから見渡せるキッチンへと向かう。
陽葵が朝食を作ってくれているあいだ、俺もスマホをチェックする。まあ、着信がついていること自体が、あまりないけども。陽葵以外に、俺の今の連絡先を知っているのは家族か夕彩、そして一応職場くらいか。
サラリーマンをしていた頃は、仕事関連の連絡が多かったものの、辞職してアカウントも変えて、めっきり着信は減った。今の俺には、それでちょうどいい。前職の最後のほうは、スマホに返さなくてはならない連絡がつくだけでストレスだった。
カフェオレを飲み終わってマグカップを持っていったついでに、朝食の準備を手伝った。陽葵はゆでたまごをつぶして、マヨネーズと塩胡椒で和えている。俺はトマトをスライスして、ハムとレタスと一緒と食パンにはさんだ。陽葵もできあがったたまごフィリングをマーガリンを塗った食パンにはさみ、たまごサンドを完成させる。
カフェオレはまた俺が作って、ふたりでリビングの座卓で向かい合って朝食を食べた。たまごサンドは、陽葵がよく作ってくれる朝食で、いつもたまごとマヨネーズが混ざったコクがおいしい。
そこまで俺たちの朝はゆったりしているものの、ここから出勤はばたばたすることになる。特に陽葵は、シャワーを浴びたり化粧をしたり大変だ。俺も接客業なので、髭剃りや歯磨きは入念になる。
食器も洗うし、洗濯物もかごに集めておく。あっという間に時刻は八時前になり、俺たちはそれぞれ鍵を持って、オートロックの家を出る。
エレベーターで一階に降りると、入るときは暗証番号が必要なエントランスを抜けて、外に出る。
目の前に車道の大通りがあって、すでに車がたくさん往来している。居住マンションも雑居ビルも混ざった地区なので、出勤らしきスーツすがたの人もよく歩いている。ビルのあいだで朝陽はまばゆいわりに温かくなく、風にひやりと首がすくむ。
俺は職場まで徒歩で十分くらいだけど、陽葵は電車に乗って通勤している。「また夜にね」と藍色のスーツを着た陽葵は微笑み、駅の方角へとヒールを響かせて歩き出す。俺はそれを見送って、逆方向の道へと身を返す。
大通り沿いを歩くまま、コンビニや定食屋とすれちがって、スポーツジムを目当てに角を曲がる。そうしたら、右手のみっつめのビルの一階に、狭くて急な階段がある。
最初は上り下りにびくびくしていた階段を、だいぶ慣れた足取りでのぼって、正面に来るガラス戸を開けると、からんころん、とベルが鳴る。
「おはようございます」
カウンター三席とテーブル五席、コーヒーと煙草の匂いがただよう狭いその喫茶店を見渡す。店内にはすでに五十がらみのマスターがいて、俺の挨拶に「おはよう」と落ち着いた口調で返してくれる。
マスターは寡黙な人で、そんなににこにこするタイプでもないけれど、ルックスはロマンスグレー、穏やかな包容力がある感じで、この喫茶店を隠れ家にして気に入っている人は多い。
俺が来る前は、マスターがひとりで切り盛りしていた店だ。たまにマスターの親戚の女の子がヘルプで入るときもあるから、それできっとじゅうぶんなのに、俺を雇ってくれたマスターには感謝している。
俺は仕事を辞めて鬱々としていて、陽葵との休日の散歩でこの喫茶店を見つけた。コーヒーも煙草も苦手な俺たちだったけど、「こういう場所に、ふらっと通えるようになるだけでも違うからね」と陽葵が階段へとうながした。
そして、俺も陽葵もマスターがすっかり気に入ったので、ふたりで来たり、俺ひとりで来たりして、いろんな話を聞いてもらった。
そろそろ何か仕事しないと、と俺がこぼしたときに、「ここを手伝ってみるかい」とマスターが言った。思い設けなかった話だったものの、「いいんですか」とつい乗ってしまうと、「穂乃芽も高校生になるからね」とマスターはうなずいた。穂乃芽ちゃん、というのは例のヘルプで来るマスターの姪だ。
「誰かひとり、雇いたいなと思っていたんだ」
それが去年の冬のことだった。陽葵もマスターの店で働くことは賛成してくれたから、俺はこの店で、少しずつでも社会復帰するように働きはじめた。
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