雪の十字架-8

君の寝顔

 帰宅ラッシュをやや過ぎて、座席に座る余裕はなくても、揉みくちゃに混んでいることもない地下鉄で自宅最寄りまでのぼった。駅から車道沿いを十分ぐらい歩くと、マンションがある。電車のけっこうきつい暖房でほんのり汗ばんだので、ネオンがちらつく夜道の風が余計にひやりとこたえた。
 エントランスの操作が内線で伝わったようで、七階の部屋のドアは開いていて、「おかえり」と陽葵が出迎えてくれた。
「ただいま」
 そう言って自然と陽葵を抱きしめ、陽葵も俺に抱きついて「軆、冷えてるね」と顔を上げてきた。「家出たときはあったかかったんだけどな」と俺は軆を離し、靴を脱ぐ。
「さっき、おかあさんからメッセ来たよ」
「え、そうなのか」
「おとうさんと話せたんだって?」
「話せた、というか。いつもみたいに緊張はしなかった」
「そっか。お昼のメッセ、おかあさんとも何か話できたみたいだったね」
 俺はうなずき、家に上がってリビングに向かうと、暖房のきいたそこで今日の実家であったことを陽葵に伝えた。とうさんとかあさんのことを聞いた理由が、陽葵へのプロポーズの参考にしたいというところは伏せたけれども。
 陽葵は微笑みながら聞いてくれて、「おとうさんもおかあさんも、嬉しかっただろうね」と俺の肩にことんと頭を乗せた。
「ただ、初栞くんには、瑞栞はちょっと厳しくてもいい」
「いや……前が、けっこうきつく当たられてたときあったから」
「自分でやらないと、勉強なんて身につかないでしょ」
「俺は解き方とか説明してただけだしなー。確かに、授業聞いてればそれはできるはずなんだけど」
「もう憶えてないものは、憶えてないでいいんだよ」
「それも何か、情けないけどな……」
 陽葵はくすりとして、「やっぱり瑞栞は優しいね」と俺の手に手を重ねて握る。
「そういうところが、私も好きなんだけどね」
「俺も、気遣ってくれる陽葵に感謝してるし、そういうとこが好き」
 俺たちは瞳を重ねると、そっとキスも交わした。「今日は食器洗いないし、一緒にお風呂入る?」と陽葵が俺にしがみついて、「陽葵が疲れてないなら」と俺は彼女の手を握り返す。陽葵は少し恥ずかしそうに咲って、俺はそんな彼女をすごくかわいいと思った。
 そんなわけで、俺たちは一緒に入浴し、あったかいお湯に包まれながらゆっくり愛し合った。向かい合って座ってつながって、陽葵は俺の首に腕をまわして声を響かせた。俺も陽葵をぎゅっと抱いて奥を彷徨って、同棲という状況でちゃんと浴室にも置いているコンドームに出した。
 終わっても、お湯の揺らぎが残っていてくらくらして、ふらつかないようにぴったり抱きしめあっていた。「私も瑞栞の赤ちゃん欲しいな」と不意に陽葵がつぶやいて、俺は同じ匂いに濡れた髪を撫でて「やっぱり女の子?」と咲う。「どっちも欲しいなあ」と陽葵も咲って、その幸せな欲張りをいつか叶えるために、本当にしっかりしようと俺は改めて心に誓った。
 しかし、その夜、また夢に雪舞が現れた。あの頃の雪舞で、制服を着て暗闇にたたずんでいた。俺は制服を着ていなくて、現在のすがただった。
「雪舞」と声をかけると、彼女は振り向いて俺を見つめてくる。あの虚ろな目に、ぼんやりと俺を映す。何も答えなくて、沈黙がちりちり焼かれていくように神経を逆撫でる。
 俺は雪舞のほうに足を踏み出そうとするものの、金縛りみたいに動くことができない。焦る俺を雪舞はじっと見ている。何だよ。何か言えよ。雪舞──という声すら、もう出ない。呼吸する喉さえ狭まってくる。
 雪舞が、ふと自分の腹に触れた。雪舞が何か言ったのに、聞き取れない。でも、次に雪舞が取った行動で、その言葉が急激に意識に流れこんできた。
「こんな子供、いらない──」
 雪舞の手に現れた包丁が、まだふくらみもない腹を刺して、刺して、刺して、えぐれたそこから、ぼとりと血のかたまりが暗闇に転がり落ちた。俺は動けないはずなのに、ふらりと座りこんでいた。
 血のかたまりは動かないけど、俺はそれが何なのかはよく分かった。
 雪舞はみずから腹を滅多刺しにしたのに、何もなかったように立っていて、俺を観察している。その眼が怖くて、息遣いが震えて、逃げたいのに四方八方暗闇だし、どんどん軆がなまりになって重たくなっていく。
「ねえ、金居くん」
 冷や汗にまみれていく俺に、無表情のまま雪舞は語りかける。
「幸せなの? 幸せになろうとしてるの? 幸せになれるの? 幸せになっていいと思ってるの?」
 怖い。何だか分からないけどめちゃくちゃに怖い。雪舞の視線が発狂しそうに怖い。
「私はあなたを許してないのに、それが叶うと思ってるの? ねえ、あなたは幸せにはなれないよ。どうしようもない、クズとして生きていくしかないの」
 雪舞を見た。雪舞は闇から伸びてきた腕に腕を引かれ、向こう側に引っ張られていた。それでも、俺を見ている。
 俺は、あの血のかたまりとこの場に残されることにひどい恐怖を覚えた。逃げ出したいのに、軆を鎖で縛られた感覚に身動ぎもできない。声も出ない。息も詰まっていく。
 雪舞のすがたが、ふっと暗闇に飲まれたときだ。血のかたまりが、確かにかすかにぴくんと動いた──
 その瞬間、俺ははっと目を覚ました。しかし、そこにあったのも暗闇だったので混乱した。
 どこだ、ここ。俺の部屋か? いや、天井が違う。俺はどこに来てしまったんだ?
 かなりそう考えていて、いつもの陽葵との寝室だと気づくと、どっと安堵が胸を襲った。
 カーテンの向こうの光がないので、まだ夜らしかった。何時だろう。まくらもとを手探りすると、充電したままのスマホがあって、ぎこちない指で画面を起こした。午前三時過ぎだった。
 夢の名残で息苦しく、慎重に深呼吸する。眠気が濃くて、すぐにまた眠りこんでしまえそうにまぶたが重い。だが、眠ってあの夢の続きを見てしまうのが怖くて、必死に目を開いた。
 寝たくない。眠るのは怖い。指先や爪先の感覚がないのは、寒さのせいか、あの夢が現実に食いこんだせいか。
 隣の小さな寝息に気づいて、俺は引き攣りそうな動作でそちらを見た。暗がりでも窺えるくらい近くで、陽葵が眠っていた。その顔を見て、ようやく俺は自分が今、この女と幸せに過ごしているということも思い出した。
 そっとその頬に触れると、柔らかく温かく、強直していた心臓もほぐれていった。思わず陽葵の名前をつぶやきそうになっても、夢にうなされたからと彼女を起こすのも忍びない。頬に触れる手もすぐ引いて、俺は陽葵の寝顔を見つめて、ぶれていた心を何とかなだらかにした。
 足や手の感覚もまともになってくると、そっとベッドを抜け出して、キッチンに行った。
 眠気が重たい。でも、今夜はもう眠りたくない。また朝に飛び起きたりして、陽葵に心配もかけたくない。
 こういうとき、カフェオレを無心になって作ってから飲むと、わずかに楽になる。牛乳を温め、コーヒーをドリップし、砂糖でなく蜂蜜を混ぜ合わせてホットカフェオレを作る。ゆっくりマグカップに口をつけて、いつもの味に息をつく。
 シンクにもたれかかって、ぼんやりと雪舞に言われたことを思い出した。俺が幸せになるなど、やっぱり許せないだろう。まして、子供を持つ幸せなんて──雪舞は、お腹に宿ったものへの嫌悪にも引き裂かれて死んだのに。
 幸せになっちゃいけないのは分かっている。自分がこのまま男として自立しきれない場合も考えることがある。正直、俺だけが不幸になるならいい。それなら、甘んじて最悪な人生を送ってもいい。
 でも、やっぱり、俺がしっかりしないと、周りの人も不安にさせてしまうのだ。とうさん。かあさん。初栞に夕彩。誰よりも、陽葵が泣くのはどうしても耐えられない。
 陽葵のために、俺は強くなって、克服して、幸せになりたいのだ。雪舞は、たぶんそんな相手と出逢うことすらなく死んだから、ますます俺が憎いだろうけど。俺は陽葵と幸せになりたい。
 カフェオレを飲み終わると、マグカップを洗って水切りに並べておいた。リビングで映画のDVDでも観ようかとも思ったけれど、ただ観ていると、かえって寝落ちしてしまうかもしれない。音を殺して寝室に戻り、陽葵が眠っているベッドにもぐりこんだ。
 陽葵の寝顔を見つめて過ごした。映画を観るより、こちらのほうが心が温まってくる。意識がだいぶはっきりして、あの言いようのない恐怖心もほどけていった。今の俺には陽葵が一番効くな、と苦笑しながら、朝を待った。
 蒼い黎明が室内にただよってきた頃、五時半をまわり、陽葵は目を覚ました。ちなみに、万が一のアラームは俺も陽葵も六時に設定しているから、いつも鳴る前に止めてしまう。
「おはよ」と俺に髪を梳かれて、陽葵は寝ぼけまなこを俺に向け、「おはよう」と目をこすってから俺にくっついてきた。起きていた俺より、眠っていた陽葵のほうが軆がほてっている。
「もう起きてたの」
「うん」
 ふとんの中でもぞもぞと爪先が爪先に触れる。「冷たいよ」と俺が言うと、「うん、冷たい」と答えて陽葵は俺を見上げた。
「眠れなかったの?」
 俺は気弱に咲ってから、「寝つきはよかったんだけど」と陽葵の髪を指に絡める。
「怖い夢?」
「……うん」
「そっか。起こしてくれてよかったのに」
「寝顔、見てたから」
「もう……それ、逆に恥ずかしいよ」
「俺は幸せだった」
「私の寝顔見ると、幸せ?」
「うん。見れるの俺だけだし、俺の前で眠ってくれるのも嬉しい」
 陽葵は小さく微笑すると、「瑞栞と眠るのは安心するから」と俺の背中に腕をまわした。俺も陽葵の華奢な肩を抱きしめ、同じ香りの髪に頬を当てて、しばらくふたりで鼓動を分け合っていた。

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