非常階段-32

開いていく傷

 指先がずきずきと脈打っている。ほのかに暖かい冬陽が陽だまりになるその席は、薄目をすると視界が睫毛で金色にぼやけ、向こう側が天国のように見える。
 終わりかけた昼休みのざわめきを外れ、窓際の一番前の席にべったりうつぶせる俺は、疼く左手を胸に持ち上げ、首をかがめて陰る人差し指の絆創膏を見つめた。滲む血に確かに痛みが流れている。俺の心はそんなふうには痛まないけど、やっぱり同じように傷ついて血に澱んでいる。
 四時間目の美術の彫刻刀を使った授業で、ぼんやりしていた俺は、誤って自分の指先を傷つけた。思いのほか大口を開けた傷が美術室の木のテーブルに鮮血を飛び散らせ、ついで彫刻刀が床に乾いた音を立てて跳ね返る。
 その音に周りの生徒たちが振り返り、「あ」と気まずく顔を下げた俺は、素早く彫刻刀を取り上げ損ねた。すると、すかさず吐くような声を出し、「触ったらやばいぜ」と聞き憶えのある声が俺のところまで届いた。
「病気の血だからだな。ホモはみんなエイズなんだろ?」
 俺は一瞬目を開いたけど、いつも通り何も言わず、ただまぶたを陰に押し殺した。左手がさそりに繰り返し刺されているように痛み出してくる。けれど、そのせいではなく涙をこらえて唇を噛みしめる。
「そんなこと言うのはやめなさい」
 美術の女教師がこちらに駆け寄りながら、不快そうな声で久米の仲間をとがめる。
「何で。ほんとじゃん」
「そいつがおっさんと歩いてるの見たって奴もいるんだぜ」
「絶対うつされてるよ」
上久保うえくぼくん! 西園にしぞのくん! ──怪我したの? ちょっと見せなさい」
 トレーナーにスウェットを着た三十台なかばの美術教師は、そう俺のかたわらに立ち止まって腰をかがめた。その息には、軽くコーヒーの匂いがした。肩を狭める俺はやや躊躇ったあと、つい握りしめていた左手を広げる。人さし指の腹が大きく裂けた傷口で真っ赤に泣いていて、その生温い液体が手のひらに広がって掌紋をなぞっていた。
「深いわね」
 言いながら彼女は自然に俺の肩に触れそうになり、はっと気がつくようにその手を止めた。俺は、その光が通り過ぎるより一瞬だった仕草の意味を、見逃さなかった。だが、彼女はすぐ俺の肩に触れると、優しく席を立ち上がらせて入口をしめす。
「保健室に行きなさい。一緒に行きましょうか」
 生臭い香りの傷口を見つめた。ぱっくり開いた傷が、ふと、でたらめな笑い声を上げるピエロの裂け上がった口に見えた。目を伏せると、「ひとりで行けます」と彼女の脇をすりぬけて入口へと歩いていく。
 席順は教室と同じだから、教壇を通らなくてはならない。視線や忍び笑いがあとをついてくる。背中に“バカ”と張り紙でもされているように。指先の痛みがどうでもよくなるほど、頭と胃が神経に刺さってくる。
 保健室で手当てをしてもらうと、美術室には帰らず一年一組の教室に帰った。誰もいない陽に明るい教室は、がらんと広くて静かだった。ストーブが消されて寒いけれど、美術室に戻って体温を蕁麻疹のようにかきむしられるよりはこちらのほうがいい。がたん、と静けさに音を響かせて自分の席に着くと、俺は鎮静剤を打たれた犬のようにつくえに突っ伏し、三学期もまたこんなふうである毎日について考えていた。
「おい」
 鐘が鳴っていくらかすると、にぎやかに雑談しながらみんな友達と教室に帰ってきた。ぽつんとひなたで腕に顔を埋める俺を見つけても、誰も何も声はかけなかった。「ホモは授業もまともに受けられないんだよな」という声が聞こえた気がしても、妙な意地で寝たような体勢を保って動かなかった。
 誰も俺なんか気にかけない。いつしかかたくなにそう思いこんでいたから、その頭上にかかっている声も、しばらく自分にかかっているものだとは思わなかった。
「柊」
 古びた木の匂いから、寝起きみたいな前髪で顔をあげる。思わず目を開いた。俺の右脇に立っているのは、賢司だった。
「あ……、」
 狼狽えながら身を起こすと、賢司はばさっと美術の教科書や俺のペンケースをつくえに放る。
「忘れ物」
「あ、……ごめん」
「あと、相沢あいざわが昼休みに話がしたいって」
「そ、そう……」
 相沢、というのはあの美術教師だ。
「じゃあ」
「あ、あの」
 とっとと立ち去ろうとした賢司は、一応俺を振り返った。でも、その目は人間に不信感を抱く動物のように硬かった。その目に言いたかった言葉を取り落とし、弱く視線を絆創膏にうつむかせたあと、少しだけ顔を持ち上げて何とか喉を震わせた。
「……ありがとう」
 賢司は俺をじっと見つめ、「別に」と肩をすくめた。
「日直だっただけだから」
 銃で撃たれたように目を開いた。賢司は何事もなく身を返して、自分の席へと歩いていった。
 日直だっただけ──だから。だけ……。瞳をぎこちなく膝に引き寄せた。動物の轢死体を道路の隅に寄せるように。
 こくんと小さく息を飲みこみ、音も熱も抜け落ちた真っ白にかけはなれていく。そして、いつのまにか笑っていた。何でだろう。でも、ほんの小さく笑っていた。耐えられなかった。日直だっただけだから──まだどこかで水面の影のように揺らめいていた期待を、ぐさりと太い杭が打ち止めたのがはっきり分かった。
 みんなが弁当を取り出す中、手ぶらで教室を出て非常階段にうずくまった。相沢のところには行かなかった。そんな偽善、ぜんぜん嬉しくない。
 冷たい風の中、錆びた柵にもたれて瞳をガラスのように水色に透かしていた。自分の髪がなびくぐらいで、何も雑音がないというのは心地よいものだった。そうして予鈴が鳴って教室に帰ってきて、こんなふうに再びつくえにぐったり塞いでいる。
 もう、賢司について考える必要はないらしかった。よく分かった。彼も俺を軽蔑しているのだ。関わりたくない、友達でもないと思っている。
 癌にかかった恋人の死のように覚悟はじゅうぶんしていたはずが、やっぱりものすごく心臓が絞めつけられて死にたくなる。そう、まさしく死んだ恋人を追いかけたくなるように。俺もこの心の致死を追って、首をくくりたい。賢司が俺によこした紐は、命綱でなく首吊り用の縄だった。
 相沢の態度も、久米の仲間の中傷も、もう何も考えたくない。考える必要もないのだろう。どんなにやっても彼らは俺を分かろうとしないし、分かりもできない。何も考えたくない。
 けれど、思考回路は心を駆けめぐって止まらない。掘り下げるほど、痛むだけなのに。引きちぎってしまいたい。死ねば全部止まる。思考も感情も、これ以上のみじめな経験も。せめてこの学校に来るのをやめれば──
 ぜんぜん分からない。俺は何のために、まだこの席に着いているのだ。
 逃げられない、ということは決してない。誰かに執拗に拘束されているわけではない。むしろ、みんな俺には教室に来てほしくない。やろうと思えばやれる。むずかしいことではない。
 手提げを取って教室を出て、早退するような顔で校門を出ていく。さもなくば、非常階段を降りて裏門から逃げる。朝から学校に来ないのも簡単だ。通学路の公園にふらりと立ち寄り、そのまま行かない。何なら、その公園の公衆トイレで教科書の代わりにつめてきた私服に着替えて、遊びにいく。
 俺にだってできるのは分かっている。一度やれば飛び越えられると分かった谷のように、好きに往き来できるようになる。なのに、どうして解放を妨げる何かに逆らえないのだろう。
 臆病なのだろうか。きっとそうなのだろう。チャイムが鳴って生徒たちが自分の席に落ち着いていく。ここでこんなふうに獲物になっているのも、ホモだからというより、腰抜けだからなのだ。

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