破壊されるすべて
『塩沢君へ
あなたと話がしたいです。
僕もあなたと同じゲイです。
でもだれにも言えなくて悩んでます。
今日の放課後、裏庭で待ってます。』
この頃、気がつくと天気が悪いのだけど、その日も空には灰白色の雲が窓枠にたまった綿ぼこりのように停滞していた。切り傷がちくちくうるさくて集中できず、案の定ぼろぼろだった実力考査を終え、カレンダーは二月の下旬にさしかかろうとしていた。毎日春を迎える前に寒さを振り絞る風が吹き荒れている。
いつも通り顔を伏せて朝の教室に登校し、廊下側の前から四番めという今月の席に向かう。すると、椅子が斜めに動き、引き出しも少し開いていた。また何かされたのか、とどんより陰った気持ちが胸を絞めつけ、手提げを脇にかけるとかじかんだ手で引き出しをそっと開く。しかしそこには虫も水も泥もなく、ただレモンイエローの封筒が投げこまれていた。
俺はそれを自分の死体でも見おろすような奇妙な想いで見つめ、ゆっくり手に取って裏返した。ダイレクトメールみたいに、封はされていない。宛名も差出人の名前もない。
どうせろくでもないことが書かれているに違いなかった。そう思ったあと、女子からの手紙とかだったりしたら、とも思ったが、俺がゲイなのはもはやこの学校では常識だ。
読まずに破って捨てたほうが、絶対に嫌な気分にならずに済む。分かっていながら、席に腰を下ろすと、憂鬱な手つきで同色の便箋をなぜか開いてしまった。するとそこには、細身の黒いペンでのそんな文面があった。
思わず目を開き、当選発表に自分の名前を見つけたみたいに何度も読み返す。ゲイ。自分も。見間違いではないかと、汚れをこすりおとそうとするように執拗にその言葉を目でなぞる。でも、間違いじゃない。書いてある。
話。放課後。裏庭──まあ、無難な場所か。誰、と文末や封筒を見直したが、やはり名前はない。同じ学年だろうか。まさか同じクラス──それはないか。学年も違うかもしれない。ゲイ、というからには男なわけで、どんな奴だろ、と動揺に指先をほてらせて視線をいったん空に泳がす。
この学校に、俺以外にもいたのか。孤島で暮らしているようなこの毎日に、自分以外の同性愛者なんて存在しないのではという気がしてきていた。少なくとも、自分の周りには。十人にひとりなんて嘘だと。やっぱり、いるものなのか。みんな俺とは接したくないように感じていた。話がしたい。秘かにそんなふうに思ってくれていた奴もいたのか。
誰にも言えなくて悩んでいる。よく考えれば、そうかもしれない。ばれてみて実際俺がこんな状況になっているのだから、ゲイだなんて余計言い出しにくくなるだろう。自分はあんなふうに打ちのめされるほどやばいんだ、ときっと自信も削がれていく。考えてもみなかった。俺がただやられていたら、そんなふうに、みずからをしおれさせていく奴が出るなんて。
その日は一日、匂いがなじまない人のベッドに寝ているように落ち着かなくて、上の空だった。手紙は一応手提げにしまっている。今日の放課後、裏庭──には、どうしよう。行きたい気持ちはあるけど、何だか怖い躊躇いもある。
話、と言われても、いったい何を話すのだ。ゲイとして生きることについてでも語り合うのか。もし告白とかされたら。それは早合点か。あるいは誰かが揶揄っただけで、誰も来なかったら。これまでがこれまでだったから、そういう嫌がらせもありうる。けど、だけど、本当に同じ奴が出したもので、放課後裏庭で待っていたら、行かないのも悪いし──
帰りのホームルームが終わって終業すると、席を立った。今週は掃除当番でもない。行くだけ行ってみよう、と手提げを取ると、洗剤をまぶしたように急にさざめきを泡立てる教室を出た。
この学校の裏庭には、普段誰も近寄らない。校舎の裏手に立つ体育館のそのまた奥で、ちょうど裏門に面している。靴箱でスニーカーに履き替えた俺は、左右どちらから行くかに迷い、右手の暗い道を通っていくことにした。左に行くと遠まわりだし、愁えるばかりで泣き出さない空の下で、部活動が始まる校庭沿いを歩かなくてはならない。
桜と向き合う駐輪場の前を横切り、塀に突き当たると右にまっすぐ裏庭への細い道が伸びている。足痕が残る湿った土の小道で、第一棟、第二棟の非常階段とすれちがい、苔生した匂いの体育館の裏を抜ける。来て見てみると、庭、と呼べるのかどうか──道を抜ければ地面はアスファルトだったそこは、しんとしていて、人影はなかった。やっぱ揶揄われたのかな、と気を陰らせて、いくらか覚悟もしつつ、まだ終業していないクラスもあるだろうと体育館の冷えたコンクリートに背中をもたせかける。
特に植物も植えられない、壁も地面も冷たく薄暗い日陰の場所だ。息苦しいほど狭くはない。思えば、先生たちの一部はその裏門からやってきて、体育館の向かいの駐車場に車を停めるのだった。つまり普通の車が抜けられるゆとりはある。
勝手に開閉できるとは聞いていた裏門も日々使われているわけで、多少黒いペンキが剥げて錆びてはいるが、魔女屋敷のように蔦まで絡みついてはいない。コートではしのげない息が色づく寒さに身を震わせ、でもほんとどんな奴だろ、といまいちはっきりつけられない想像にふけっていたときだった。
突然強く左腕をつかまれ、え、と振り向く前に体育館の影に引っ張りこまれた。アスファルトから土になる段差につまずきかけ、慌てて体勢を取りながら顔を上げる。そして、頬から肩までが一気に引き攣った。
「やーっぱり、来たな」
眼前でそう満足げな笑みを細目にたたえたのは、久米だった。俺の紺色の腕をつかんでいた上久保は素早く手を離し、生ゴミにでも触ったように地面に手をはらう。その隣には、無論西園もいる。
「こうすれば絶対来ると思ったんだ」
俺は彼のきつねのような眼を見つめ、全身に真っ赤な炎と真っ青な氷が同時に発生するのを感じた。何かがすうっと蒼ざめ、でも何かがかあっと燃えあがる。しかし、それは何だろう。恥ずかしさだろうか。ショックだろうか。怒りだろうか。何なのか分かるには、冷静さが追いつかない。
「手紙読んだんだろ。でも愉しみは僕が治っちゃったんで無しだよ、なんてね」
歯をこめかみに響くほど食い縛り、熱が走る両手をきつく握りしめる。
「何の用だよ」
「へえ、まだしゃべれたんだ」
飄々とした久米のにやつきを睨めつけ、黒ずんだ土にいったん顔を伏せた。いっそこいつにぶちまけてやりたいマグマのような感情たちを、急速な早まわしで体感する。だが、いったいどんな言葉が見合うのだ。この溶岩をうまくすくいとり、こいつの綺麗な顔面にひどい火傷を負わせられるの罵倒なんてあるのか。
そばの体育館の中で、物音がしはじめる。考えまくっても、どうしてもピンと来なくて、俺は押し殺した表情をこちらを観察する久米たちに上げた。
「……お前たちが言いたいことは、分かってる。でも別にお前たちに、その、言い寄るとかは絶対にないし。ほっといてくれよ。何も迷惑はかけない」
「いるだけで迷惑なんだよ」
奴隷が苦労して作ったものを、ほんの些細な傷があるというだけでたたきこわす王みたいにすかさず西園が毒づき、「そう」と上久保も唾を吐き捨てる。
「お前と同じ空気吸ってるなんて、ぞっとする」
「言いたいことは分かってる、って言ったな」
ふたりを制して、久米はこわばる俺に細目を眇める。
「よく言うよ。ぜんぜん分かってないね。だからはっきり言ってやろうって、こうやって呼び出してやったんだ」
「……ほんとは俺に気があるとか?」
精一杯の皮肉は、切り替えるスイッチだったみたいだ。久米は飛びだしナイフのように急に目をとがらせ、俺の胸倉をくりぬくようにつかんできた。
「ふざけんなよっ。お前なんか、ここでぶっ殺したって犯罪にならねえだろうなっ。俺たちはこれまでさんざんお前に言ってやった、目の前に現れるなって。でもお前はのこのこと学校に来やがって──だから、ホモのにぶい神経に合わせてやることにしたんだよっ」
言い終わらないうちに素早く腹をつらぬかれ、大きく目を開いた。刹那止まった呼吸に咳きこんで軆を折り、すると思いきり臑を蹴りつけられて湿気った土の匂いに膝からくずおれる。すぐさま肩をスニーカーの足が踏みつけ、ついで背骨が嫌な音にゆがんで、また臑を踏み躙られた。
「お前の顔見たら、俺たちがどんな気分になるか想像できるか!? 吐きそうでたまんねえんだよっ。手紙読んで、どうせこう思ったんだろ。やりまくれる相手が見つかったって。汚ねえんだよっ」
角ばったかかとが肩胛骨をめいっぱい砕き、びくんと全身に痙攣が走る。
「どっかに消えろっ、じゃなかったらとっとと死んじまえ!」
鋭い爪先が脇腹を猛烈にえぐり、分厚いブランドのスニーカーの底が火を揉みけすように後頭部をにじる。
「お前なんか病気だ。犯罪だ。みんなそう思ってるんだ!」
「学校に来たほうがいいなんて思ってんのお前だけなんだよ、鬱陶しいひとりよがりしやがってっ」
にじられて軋る髪が、じゃりじゃりとすぐ耳元に響く。
「こっちの気分も考えろよなっ」
「ゴミ溜めに集まって、仲間と変態行為やってろ! ここはてめえの場所じゃねえんだよっ」
目の前に、くすんだ匂いの土が激しく跳ね返る。咳に荒くなった息に、その土がときどき紛れこみ、歯がまずくてざらついた味をこすりだす。だんだん、どこをどう蹴られているか分からなくなってくる。ただ最後の一滴まで絞られるように痛む自分の息遣いのあいだで、朦朧とした鼓膜には幾度も毒がなすりつけられる。
このオカマ野郎!
頭の中が螺旋にうずまいて、壊れていく。痛い。船に酔ったようにぐらぐらして、色の調律を狂わせる。聴覚が膿みあがって、どう言われているかも聞き取れなくなる。頭、肩、腰、脚、軆じゅうが続けざまに砕かれて、瓦礫になっていく。
顔面が土の匂いをかぶり、無意識に軆を丸めながら俺は土と髪と白い息の隙間にそいつらの顔を見た。憎悪が発狂して、もう笑っていた。
津波に飲まれて溺れているようだ。息が何かに飲みこまれて、うまくいかない。吐きそうだ。どのぐらいそうされていたか分からない。長かったけど、あっという間だった。気絶していたのかもしれない。ふと目を開けて、自分のずたずたになった息遣いを聞くと、体育館の中の物音以外、静かだった。
何もない。誰もいない。ぼろぼろになった自分が、陰った土壌に横倒れているだけだ。いつ終わり、あいつらが立ち去ったのか分からなかった。
睫毛が土をかぶっていたのか、緩くまばたきをすると、ぽろぽろと土が降る音がかすかにした。湿り気のある土の中は、子供の頃に嗅いだことのあるような匂いがしていた。
すごく冷たいのだろうけど、全身が関節から広がる麻痺に犯されていて、よく感じられない。けれど、痛みは鮮明に浮きあがって、神経を穿っている。軆の中が空っぽで、空洞には音がよく響くように、その痛みが鮮やかだ。虚脱が赤潮のようにどんより広がり、からからの喉を飲みこむと、肩を身じろがせて土にうつぶせた。
しばらく、そのまま頭も心も昏睡していた。ときおり、風が土にまみれた肩や髪をさすっていく。鼓動が土を伝っている。流血しているみたいに。
腹の打撲で浅い呼吸には、ぱさぱさした土の味がした。疼くこめかみが重くて、地面に額をあてがい、薄汚れた半眼を近すぎてぼやける視界にうつろわせる。だけど、不意に火花が一閃した。
何で。何で、こんな──そんな疑問が絞殺のように喉にさしせまって、きつく目をつぶった。
信じられない。何なのだ、これは。頭の中が真っ暗だ。痛くてたまらない。軆じゅうを斧で叩き折られたようだ。痛みが集中していなくて、全身にまとまりを感じられない。生きたままばらばら死体にされたみたいだ。切断されて、神経がつながってなくて、こんなに引き裂かれて、元に戻れるのか──
怒りも屈辱も駆け抜けた胸苦しさに裂け目が走り、喉から瞳に絞めつける熱が湧きおこった。乱れた土に顔を押しつけ、これまでベッドで何度もそうしてきたように嗚咽を殺した。瀕死の動物が潔い死を覚悟して陰にうずくまり、うめき声が仲間には聞こえないようにするみたいに。心にめりこんで、感覚を這いずっていく深い痣に、ひりつく肩をぎゅっと狭める。
俺は、今をどう感じればいい? 感受性が腕をもがれて、血を噴き出している。耐えられない。この腫れあがった総身が、あいつらの軽蔑が。震えが止まらない。俺はそんなにいけない、間違った、悪い存在なのだろうか?
分からない。何も分からない。意識が息切れしている。何も考えられない。ただ痛みが相変わらず克明に焼きついている。そう、またこの日は俺の記憶にくっきり残りつづけるのだろう。死ぬまでつきまとうのだろう。
とっとと学校に来るのをやめておけば、こんなことにはならなかったのに──そんな澱んだ後悔が、どこまでもどこまでも追いかけてくる。それがたまらなくおぞましいこと以外、信じて頼るものもなく漂流した俺には、もう何も分からなかった。
【第三十五章へ】
