非常階段-35

ジレンマ

 翌日は土曜日で学校には行かずにすんだ。一日なじんだ匂いのベッドにうつぶせ、不協和音のようにでたらめに痛む全身について考えていた。
 顔には何もされなかった。だから、親には何も言っていない。昨日は、絶え絶えになった頭が気紛れに家に帰るとかを思い出して、やっと身を起こせた。
 あんなに軆が重かったことはない。全身に鉛が絡みついたようだった。脚も腹も、押し寄せる波のごとく絶え間ない痛みにつんざかれ、長いこと正座していたみたいにうまく立てなかった。そして、髪や服の土をなるべく落とし、特に、釘を打ちこまれているような右脚を引きずって家に帰った。その途中でみぞれが降りだし、追いうちをかけられた気分にまた泣けてきたものの、迎えたかあさんにクリーニングに出してほしいと自然に頼むことはできた。
「何かあったの」
 降り出す直前、カーブミラーで自分が何事もなく見えるよう繕ってはおいた。が、髪からスニーカーまでずぶぬれで、湿った臭いに凍え、降りだしても明らかに慌てて走ってきたりしなかった俺に、かあさんは心配どころか不安な顔になった。
 俺は前髪から雫を落としながら、ふとその雫が素直に流せる涙だったらと思って、すごくつらくなった。「こないだの実力考査の補習させられただけだよ」とかすれた声でつぶやくと、右脚からよろめきそうなのを抑えて、洗面所に行った。
 はらわたがあふれるぬいぐるみぐらいさんざんやられたような痛みなのに、服を脱いで確かめた軆に、目を背けたい傷はなかった。トレーナーの上に制服、コートまで着たままでやられたせいだろうか。
 痣は、鏡に映して見た背中にところどころ見当たった。顔を見そうになり、冷えきった体温に死人じみているだろうと怖くてなってやめる。ドア越しに声をかけてきたかあさんに着替えを持ってくるのを頼むと、そのまま入浴して部屋に閉じこもった。
 明かりはつけない部屋を、雨音が取り囲んでいる。仰向けだと肩や背中の痣に触れるので、うつぶせになった。そして、沼地のように内出血していた腹が疼くせいで、呼吸にも気を遣って頭痛を感じていた。もう少し、髪は乾かすべきだったかもしれない。そのせいだけの頭痛でもないだろうが。冷房がない部屋には、無論暖房もなく、俺はふとんをかぶって陰気な雨音を遠のいた。
 嘘みたいな気分だった。まさか、自分がリンチに遭うなんて。ゲイだと自覚したあとでだって、どこかではそこまで踏み切る奴はいないだろうと思っていた。ひと昔前ならともかく、現代にはそうも古い考えに縛られ、嫌悪をぶつけてくる奴は少ないだろうと。甘かった。まだまだ同性愛は、こういった侮辱と隣合わせなのだ。
 神経を踏みつける痛みと、迷宮に陥った考えごとに、昨日はろくに眠れなかった。夕べも今朝も食事を取らず、すると、今日の昼前にかあさんが顔を出し、なごやかな匂いのたまごのお粥を作ってきてくれた。そして、あるのにつけていなかった電気ストーブをつけ、重くきしむ額に優しく触れ、「少し熱があるわね」と言った。
 今日も一日、灰色がかった雨が横殴りに降っていた。雨粒は、ノートにぐしゃぐしゃの殴り書きをするように、窓ガラスにひっきりなしにぶちあたっている。
 今は十八時もまわって、外はすっかり暗くなっている。トイレに行ったついでに、お粥を持ってきたときにかあさんが開けたカーテンを閉め、暗く冷たい床に明かりをすべらせる。
 痣が熱を抱いて、腫れぼったくなっていた。ベッドサイドに腰かけて腹を覗くと、筋肉が引きしまりかけていたのに、気分に駆られた食生活で骨ばるようになったそこでは、赤紫の痕跡にどす黒い紫の斑点が滲んでいた。そこだけ腐ったようにも見える。痣を握りしめるような痛みでため息も自由につけず、服を下ろすとふとんにもぐりこんで、まくらの匂いに目を閉じた。
 一晩じゅう、なぜこんなことをされなくてはならなかったのか考えていた。だけど、いつのまにか方向が自分ひとりに閉じこもり、なぜこんなにされても自分はゲイなのかという自罰に沈んでいた。蜘蛛やゴキブリみたいに、罪悪感もなしにたたきのめされる指向が、すごく苦しかった。
 ゲイじゃなかったら、こんなことはなかったのに。どうしても、磁力に引きずられるように、そんなふうに考え出してしまう。でも、やっぱり、その質問は場違いだ。男なのに男が好きだなんて、変えられるものなら変えてしまいたいのは、あいつら以上に俺だと思う。
 無理なのだ。よく分からなくも、変えられないのだ。命以上に左右することができない。首をくくり、手首を切り、人はしょせんいつでも好きに死ぬことができる。これは、死ぬように消したり、止めたり、終わらせたりはできない。犬じゃなくて、猫でもなくて、人間として生まれてきたことぐらい、自分では決められなかったことなのだ。そんなことを悪いと責められても、俺は自分がいったい何をどうしたらよかったのか分からない。
 この本能が軸に備わるものだと万一納得しても、あいつらは理解しないだろう。だったら、生まれてこなきゃよかったんだ。雑草を踏みつけるように、あっさり言うに違いない。彼らが何をそうも嫌悪しているのか、何だか今ひとつ分からなくなってくるものの、とにかく、断じて理解はしない。
 だったら、同性愛は生まれつきの病気だろう。そういう奴を、仮に認めてみる。ならば、彼らは障害や疾患を持って生まれた人にも唾を吐かなくてはならない。ハンディのある人間なんか、生きていく価値もない。そう罵倒して、虫螻あつかいで暴行しなくてはならない。でも、恐らくしない。生まれつきの体質なんていろいろあるのに、なぜ同性愛だけ罪なのだ。俺は確かに多くの人と“違う”かもしれないけど、“悪い”ということはないはずだ。
 結局ただのイジメなのかも、と感じる気もする。彼らの軽蔑や嫌悪には、一貫性がない。いつか思った通りなのだ。全部“何となく”で、気持ち悪いのも打ちのめすのも、すべて感覚的な付会にすぎない。
 たとえば、あいつらは俺の顔に痕跡を残さなかった。偶然ではないと思う。俺の下手な皮肉で裏返ったとき、久米は頬を殴りつけそうに胸倉をつかんだのに、腹をつらぬいた。
 理由は明快だ。見えるところに痕を残したら、ばれる。とはいえ、あいつらは俺をぶちのめすのにやましさなんてないはずだ。ばれたって、正しい処罰をしたのだと胸を張ればいい。なのに、ばれないよう、卑怯な工作をした。ホモを殺したって犯罪にはならないと本気で思っているのなら、怖いものなんてないだろうに。
 もっともらしいことを言って俺を踏み躙ったくせに、肝腎なところは矛盾している。もちろん彼らは、自分の軽蔑を信じているだろうが、行動がそれをのっとって残虐になりきっていない。まさか良心ではないだろうから、保身なのだろう。社会が擁してくれる保障はない勝手なことをしたと、どこかでは分かっているから、足した用に砂をかける猫のような真似を忘れなかった。
 彷徨ううち、そんなふうに思えてくるけど、妙な客観がふと水をさして、俺を不安にもさせる。冷静に見れば、こんなのは同性愛者の自己弁護かも。そんな影がよぎり、軆から視覚が抜け出して、何歩も引いて自分を眺める。その白けた視線に、かえって自分を冷静に見つめられなくなる。
 俺は自分ひとりで何もかもきっぱり判断できるほど強くないし、大人でもない。誰かに聞いてもらい、媚びない落ち着いた意見でうなずいてほしい。でも、こんなの、誰が嫌悪せずに心から理解してくれる? だから自分ひとりで抱えこみ、月のように戻ってきて、空まわりしている。
 けれど、日曜日の昼、夕、夜ともなってくると、明日の学校が怖いほうが先になってきた。ベッドの中の自分の匂いと体温に逃げこんでも、軆が震えてくる。こんな、亡霊にのしかかられるような、真っ黒な恐怖は生まれて初めてだ。感覚が死んでいくのが分かる。学校に行きたくない。天敵に追いつめられた動物みたいに、眼前のそれしか考えられなくなっていく。
 どうせ、学校に行く意味もない。毎日があんなふうで、勉強は頭に残っていない。行き続けても、俺の人生が醜い記憶に汚れるだけだ。思い出したくもない過去をわざわざ作りにいくなんて、バカげている。行きたくない。行っても無駄だ。これ以上の忌まわしい残像を、永遠に引きずるなんて我慢できない。
 教室に来るな。あいつらはそう言っていた。なのに行けば、きっとまた──いや、さらに思い知らせてくるに違いない。そう、結局あいつらが卑怯かどうかなんて、問題の焦点ではない。一度踏み出せば、躊躇なんて腐っていくし、軽蔑を口実にイジメ化しているのなら、攻撃は確実に悪化する。
 全身の痣も、引くどころか腫れ上がっている。これをその上えぐられたら、本当に障害を負うかもしれない。深まっていく夜に頭痛が早鐘になると、殺されるのだって戯言ではない気がしてきた。
 いっそ死にたい気分ではあれ、あいつらに殺されて死ぬのは嫌だ。まだ、今は。だから、今のうちに行くのをやめたい。行ってはいけない。どうすれば、家族は理解し、家の中にかばってくれるだろう。
 喉でくぐもった息遣いを震わし、背中をくりかえしじっくり刺している、得体の知れない発疹のような痣たちを想った。一階にはとうさんもかあさんもいる。本気で検討した。しかし、イジメられていると言えば、当然両親は明日学校に行き、そこでその“理由”を知るだろう。知られて拒絶されたら、俺は家にもいられない。
 どうすればいいんだよ、とジレンマに滲んだ視界に唇を噛んだとき、不意にふとん越しにひかえめなノックが聞こえた。

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