逃げたくない
非常階段には、まだまだ冷たさをはらむ三月の風が通っていた。空間が広がってるわけではないので、気持ちのいい風とは言えないけれど、あの教室の空気に較べればずっと穏やかだ。日陰から見上げる空はよく晴れていて、ドアを閉めてしまえば、いつも通り静かでもある。
とはいえ、一時間目が終わったところだというのに、気分はとっくにへばっていた。あの日の軆の痣はだいぶん引いたけど、心のほうは毎日傷で傷をえぐられている。犯罪者! 今朝登校すると、つくえには白いチョークでそう殴り書きされていた。
三月二十日の月曜日、今週で三学期は終わる。去年の今頃には想像もしていなかったほどいろいろあった中学一年生も、終わる。この一年は、ものすごく長かった。でも、思い返すと光が過ぎ去るより短かった。楽しいことがなかったせいだろう。短いというより、薄いのだ。具を挟んでいないサンドイッチみたいに、この一年には入学式と数日後の終了式があるだけだ。
嫌なことは“過去”であって “想い出”ではない。想い出は作ることができるけど、過去は勝手に残っていく。泥がついた靴の足痕みたいに。まあ、靴の泥なら落とすこともできるけど。とにかく、自分ではどうにもできない、残酷な猛威ばかりこの一年には体験した。
俺の中学一年生は空白も同然だ。この一年間、いろんなことがありすぎるぐらいあったけど、挟んで食べてもおいしくないものばかりだった。食べられない、あるいは食べたくない食べ物なんて、いくらあってもないのと同じだろう。
俺には、苦痛をバネに人生をより深く生きるなんて強さはない。こんなことなら、始めから何もないほうがマシだ。虚しいぐらいに空っぽだったほうがよかった。思い出したくもない過去ほど、人を追いつめるものはない。
俺はこの一年を、そしてこれから出遭っていく刃物たちが残す傷を、結婚式の車の空き缶みたいに引きずっていくのはごめんだ。うるさすぎる。消せるものなら消したい。しかし、しょせん無理だ。記憶喪失になる事故に遭う確率に賭けるなんて、バカげている。頭が狂って削除されるほど苦しむなんて、よほど精神をショートさせなくてはならない。
俺は逃れられないのだ。この一年で友人を失い、日常を失い、家族を失ったことを。
打ちのめされても俺が再び教室に顔を出した日、あの三人は心底嫌そうな顔をした。ほかのクラスメイトたちも、避けたり敬遠したりだ。あんなに頭からはみだしそうに想っていた賢司も、その中のひとりに紛れかけている。とうさんは俺の顔を見たくもなさそうで、かあさんは俺が部屋に下がったあと、いつも泣いている。雪乃ねえちゃんは俺にも親にもつかず、いざこざはお断りの冷たい距離を保っていた。
そんなに俺は、悪臭のようにそこにいるだけに耐えられない存在なのだろうか。みんなの態度は、そう訴えている。屈するべきなのか。頭を下げ、同性に興味はありませんと公言し、それでも信じてもらえなければ退場する。俺は、同性愛者という存在は、平穏な社会に対してそうすべき犯罪者なのだろうか。
できれば、当たり前で、何気ない毎日にいたい。それは非望なのか。ゲイだというのなら、贅沢な望みなのか。クラブやバーで、同じ種類の人間とだけ過ごすべきなのか。そういうところに行ける奴もいるだろう。行きたい奴もいるだろう。
だが、同性愛者ならみんなそうだとは限らない。もちろん咎められない居心地のいい場所にいたいとは俺も思うけど、でも、そういう場所を家や学校に求めるのは、そんなにわがままなことだろうか?
ストレートを侵害する気はない。賢司にだって、気持ちは押しつけなかった。むしろできる限り抑えて、消してしまおうと努力した。ストレートの恋愛を冒すつもりもない。恋愛するのなら、ゲイとやる。応えてくれる相手と。そちらのほうが俺もつらくない。それでも俺は、ストレートが行き交う、いつも通りの中にいてはいけないのか。
当然だ。いてはいけない。そう言う奴がどうしても間違っているように感じる自分が正しいのかは、やっぱり分からない。ゲイだけの感覚かも。そんな猜疑もちらつく。けれど、少なくとも俺はそう感じる。そんなことを言う奴は間違っている。みんなみんな、分かっていない。正しくない。偏見だ。そう、みんな何も考えずに偏見しているだけだ。
ひんやりした匂いの風が額をすりぬけ、緩やかに前髪を揺らす。非常階段の下りを見おろした。ここを降りれば、裏門から学校を投げ出せる。社会を逃げ出してしまえる。
けれど、どうせ行くあてもない。一緒に逃げてくれる相手もいない。何より俺は、きっと何にも悪くない。やましいことなんて、ひとつもない。だから、ここをおりて逃げなくたっていいのだ。
自分を信じよう。自分だけでも自分をかばってやろう。ここは降りない。あいつらと闘ってやる。負けたくない。絶対に負けたくない。敵討ちを志すものみたいに、それが正しかろうと間違っていようとゲイである自分を守ってやる。
誰もいない青空のもとは落ち着いても、休み時間は十分間なのでもうじきチャイムが鳴る。この気持ちを忘れないようにしよう。忘れそうになることが、これからどんどんあるだろうけど。
投げ出すのは、自殺みたいにいつでもできる。やっぱりやめなきゃよかった。そんな最悪の後悔にだけはつきまとわれないよう、まだ今は、こうやって日常生活を続けていこう。
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