石のように
「二年四組の子はここに集まりなさい!」
2-4、という看板を持つ、スーツを着た黒髪を波打たせる女教師もそろそろ呼びかけはじめる。あれが今年の担任だろうか。受け持たれたことはないが、確か理科教師だ。美人だけど、きつそうだから綺麗じゃない。そんな感じだ。三十台の前半ぐらいだと思う。
ようやく生徒たちが新しいクラスに分散すると、看板をおろした教師が、出席番号順に点呼する。男女混合名簿で、俺は十三番だった。男女別だと六番だ。もう何とも言えない。数字のジンクス的には今年はとんでもないのではないか。
だが、いやいや周囲をほんの一見したところ、ゆいいつのさいわいで苦手な顔は見当たらなかった。点呼が済み次第、その出席番号順の列で新しい教室におもむく。
教室に向かいながら、左の女子列で俺を見て耳打ちしあう子たちがいた。実際こうしてみぞおちを躙られてみると、予感していた覚悟なんて、ウエハースよりもろい。心臓が重たく滅入って、消えてしまいたくなる。
ゲイってだけなんだけどなあ、と思っても、人には同性愛なんて、“だけ”なんてものではないのだろう。それに、よく考えれば、俺には錯乱した醜いうわさもつきまとっている。
二年四組の教室は、第一棟二階だった。二年三組と第二理科室に挟まれている。非常階段がすぐそばだ。
席は男女別の出席番号順で、俺は中央列の一番前、すなわち教卓の真ん前だった。見世物にされるような席だ。男子の列は中央と窓際が六人で、廊下側が五人だった。廊下側が六人だったら地味な席だったのに、と怨みつつ、俺は一年のときより座高が高い椅子に腰かける。
こんな席では、余計にこの軆が窮屈だ。夜毎きしんで成長する、背や肩の骨が憂鬱だ。人の目を素通りする子供の体型のままでいたい。そんな男、俺ぐらいだろう。食欲がないから、その骨に体格が追いつかず、骨ばった容姿になりつつある。春休みの声変わりで喉に響く音程も変わった。
いつもオカマと中傷されているわけだが、そうして男へと変化する軆に抵抗はない。女の子みたいな線でありたいとは思わない。ただ、心ではすごく肩身の狭い想いをしているのに、正反対にずけずけと広くなる肩幅が恥ずかしかった。
第一棟の教室は中庭に面し、左手の窓の向こうには第二棟の窓が並んでいる。もちろん陽射しは射しこんできて、明るさに申しぶんない。新しい教室の慣れない匂いにそわつき、まだ浮遊生物みたいにまとまりのないざわめきを、「静かに」と教壇に立った例の女教師が鎮めた。
「もう皆さんも、二年生なんですからね。素早く時をわきまえるようになりましょう」
そう低い声ではないが、融通のきかない冷たい角を隠し持った、教師らしい口調だ。俺は背中を刺す静電気の視線に耐えて、つくえを見つめていた。
意識過剰の錯覚かもしれないけど、歓迎されていないのは確かだからいたたまれない。つくえは傷はあっても落書きはない。そういえば、赤いマジックペンでとんでもない落書きをされていた俺のつくえは、どうなったのだろう。
かつかつ、と硬い音がして顔を上げると、女教師が黒板に自分の名前を書いていた。
「榎本千晴です。一年生のときは六組を受け持っていました。担当教科は理科です。一年間、楽しく過ごせるように一緒に頑張っていきましょう」
奇妙な愛想咲いには参加せず、教卓の上の榎本の左手の薬指の指輪を見ていた。
楽しく過ごす。目の前の生徒がどんなに社会的、道徳的、集団的に問題の種であるか、知らないのだろうか。
「中学校の三年間で、二年生は最も大変な時期です。勉強は三年生のもの以上に重要ですし、入学してきた一年生たちのため、良い先輩でなくてもなりません。けれど、修学旅行などもありますし、そういうときに息抜きしながら、今年一年をきちんと乗り切ってほしいと思います」
教育委員会著の台本を読んでいるような榎本を、俺は上目で一瞥した。
気の強そうな華奢な顎をしている。赤い口紅の唇、優しい丸みがない頬、何より目つきが細く、整いすぎた眉も手伝って容赦なく動物実験を行う科学者のように冷ややかだった。明らかに堀川とは違うタイプだけど、といって期待できそうな感じもない。動作のたび、さざなみのように細かくうねるセミロングが揺れていた。
教科書配布のあと流された学級通信の名簿で、俺は深刻な気持ちでクラスメイトの顔ぶれを再確認した。賢司の名前はない。久米もいない。だが西園の名前があった。上久保はいない。これはいいほうなのか、ついていないのか。
小学校のとき、同じクラスだった奴がいる。引き続き同じクラスの奴もいる。それは至極当たり前のことなのに、気分をつまずかせて藁半紙の安っぽい臭いに顔を伏せた。
配布の嵐が過ぎ去ると、旧学年の教室の前に放ってきた荷物を取りにいく。こういう個人行動は、孤立する人間をすごくさいなむ。ほったらかしてるあいだに何かされないかな、と抗菌加工に艶めく新品の教科書を見おろしても、まだ解散ではなく戻ってこなくてはならないから、担任がここで待っているようだ。
ひとりで黙々と元一年一組に向かい、そこで立ち話したくなる友人に逢うこともなく、さっさとまばらの教室に帰ってこれた。妖怪みたいに口を開いたかばんに教科書をつめこみおえると、ファスナーを閉めた上に伏せってきつく目をつぶる。
「塩沢ってあいつだよな」
「ほんとにホモなのかな」
「同じ班になったらどうしよ」
生徒たちが帰ってくるほど濃くなるざわめきの合間に、そんなささやきが混じって、頭上をすりぬけていく。俺は肩を抑えつけ、かばんのナイロンのにおいしか感じていないふりをする。
新しいクラスができたことで、俺の敵はさらに増殖していくのだろう。別のクラスのままだったら、まだ漠然としていたのに──一年一組は断頭台ぐらい悲惨だったけど、敵が増えて八つ裂きにさらされるなら、あのクラスに閉じこもっていたほうがマシだったかもしれない。
この教室にいる奴は、みんな俺の敵予備軍だ。人に出逢っていくほど、敵が増えていく。誰も彼もが敵になる。歯の立たない相手と、オセロゲームでもやっているようだ。先に進むほど、黒に取り囲まれていく。
だから俺は、動物のように咬みつく強さでなく、石みたいに耐えられる強さを養う。逃げる強さを拒むなら、それしかない。闇雲に剥いて、痛感させてやれる牙もない。お前らは間違った偏見をしている! そう思って、耐えるしかない。逃げないのなら。
俺の周囲は、斬っても斬っても倒れない不死身の悪魔のようなもので、たぶん逃げたほうがいい。でも屈してはずれたくないから、必要なのは、頭の中に忌まわしく木霊する傷がついても耐えられる、鋼鉄みたいな強さなのだ。
一年生が終わったのは、二年生が始まるためだ。しょせんそうだと思う。あのクラスでなくなって悪夢が終わるなんて、どうせあってくれない。きっともっとひどくなる──
話し声を鎮める榎本の声を頭に聞きながら、やっぱり今にも遠くに彷徨いそうな心を胸に抑えつけて顔を上げた。
【第四十章へ】
