切断された心
夏休みはお盆に両親の実家に帰ったくらいで、ほとんど引きこもっていた。
去年までは、夏休みなんて、毎日のように鈴里と過ごしていたのに。ひとりで宿題を片づけながら、たまに分からない問題があると、これを口実に鈴里の家に行ってみようかなんて一瞬考える。
でも、ダメだ。応えられない鈴里を突き放したのは僕のほうだ。本当は、ここまであっさり引き下がられるとも思わなかったけれども──
二学期が憂鬱だった。鈴里との距離も、みんなからの視線も、いたたまれなくて逃げ出してしまいたい。不登校とかしたいな、とちらちら考える。しかしそんなことをしたら、家族がびっくりして、いよいよ家庭にも僕の性を知られてしまう。
おとうさんも眉を顰めるのかな。おかあさんも言葉を失くすのかな。おねえちゃんもさすがに受け入れてくれないかな。
怖い。家族にまで拒絶されたら、僕は生きていっていいのか分からない。軽蔑されるのは学校でじゅうぶんだ。もう生活をあの目で汚染されたくない。
学校があまりにつらくて、せめて家族には分かってほしい。同時に、あの眼つきに家庭には踏みこんでほしくなかった。
「夕絽」
学校に始まってほしくないと思うほど、日づけは加速していく。あっという間に八月の下旬になり、夜まで続いていた蝉の声もなくなって、虫の声が透き通りはじめている。それでも、クーラーを入れてときおり水分を摂らないと熱中症になりそうな熱気はある。
シャワーを浴びて、ほかほかとボディソープの匂いに包まれて部屋に入ろうとしていた僕は、のぼってくる足音と共に名前を呼ばれて、振り向いた。髪を後ろで束ねて、薄化粧の残るおねえちゃんだった。
何だか、家族はまだ僕のことを知らないのに、目を合わせるのが下手になった。
「な、何?」
ついどもって、恥ずかしくなりながらうつむくと、「少し話せる?」とおねえちゃんは柔らかな声で僕に歩み寄ってくる。
「え、うん」
「鈴里のことで」
どきんと肩を揺らすと、おねえちゃんは優しく僕の肩を押して僕の部屋に入った。クーラーはつけっぱなしだったから涼しい。
つくえの上を見て、「宿題終わった?」と訊かれてこくりとする。おねえちゃんは、いつも通り僕の頭を撫でて、ベッドサイドに腰かけた。僕もその隣に座り、鈴里、と反芻して、痛いというか不快な腫瘍に触れられたような胸苦しさを覚える。
「今日ね」とおねえちゃんはもったいぶらずに口火を切った。
「そこのコンビニで鈴里に会ったの」
「えっ。あ──そうなんだ」
「『この夏休みに夕絽には会ったの?』って訊いたら、『ぜんぜん』って言ってたけど」
「ん、まあ。会ってない」
「……そっか」
おねえちゃんは、水色のワンピースの膝の上で手を組む。
「私が訊いていいのか分からないけど、何かあった?」
「え……」
「無理に言わなくてもいいんだけど、鈴里は『夕絽が俺とはもういたくないみたいだから』って言ってたの。そうなの?」
鈴里といたくない。やっぱりそう取られてるよな、とつきんと胸が痛む。
「夕絽は鈴里にべったりで育ってきたから、そんなことあるわけないって笑っておいたけど。鈴里は結局、笑わなかった」
一瞬心配したのだけど、どうやら鈴里は、おねえちゃんには僕がゲイだとは伝えなかったらしい。一応、そこにはほっとする。
おねえちゃんは僕を覗きこみ、「鈴里のこと、嫌いになったんじゃないよね」と愁眉する。僕は視線を裸足に落としたまま、小さくうなずく。
「じゃあ、鈴里も──夕絽みたいに、つらそうだったよ? 仲直りはできないの?」
「喧嘩は、別にしてないよ。ただ、僕がひとりでしっかりしなきゃと思って」
「ひとりでしっかりするのと、ひとりに閉じこもるのは違うよ」
「分かってる、けど……まだうまくできてないだけで。整理できたら、……また」
また、なんて来ないと思うけれど、そう言うしかない。
もしかしたら、今、おねえちゃんに打ち明けるチャンスかもしれない。でも、やっぱり言えない。言うのが怖い。
誰かにこの性を知られるのを考えると、どんどんみんなに知られていったあの夜のスマホの画面がよぎる。発言が増えるほど、感受性を掠奪されて、最後には真っ暗になった。あの暗闇が再び脊髄に巻きついてくるのは耐えられない。
「ごめん、おねえちゃん。心配しなくても大丈夫だよ」
おねえちゃんは物憂げに僕を見つめ、「夕絽は引っ込み思案だから」と哀しそうに微笑む。
「きっと、つらいことがあってもつらいってなかなか言えないと思うけど。言っていいんだからね、私は夕絽の味方だよ」
「……ん。ありがとう」
「話したいことができたら、私でよければ聞くからね。無理しないで」
そう言って、おねえちゃんは立ち上がり、ドアへと向かっていった。僕はその背中を見つめ、「おねえちゃん」とふと呼び止めてしまう。おねえちゃんはドアを開けようとしていた手を止めて、かえりみてくる。
「うん?」
「もし……僕に、つらいことが起きて」
「うん」
「逃げたいって言ったら、怒る?」
おねえちゃんは僕を見つめてまばたきをしてから、柔和な笑みを作った。
「逃げたいときは逃げちゃって、行き先がなければ、おねえちゃんのところにおいで」
僕はおねえちゃんを見つめて小さく咲い、こくんとした。おねえちゃんも咲うと、僕の部屋を出ていった。
ゲイだ、とはきっと直接伝えることはできないと思う。それでも、学校にはもう行きたくない、通学するのは精神的に無理だと限界が来たときは、おねえちゃんに相談しよう。そんな人が鈴里を失ってもまだいてくれていることに、僕は心底ほっとした。
そうして、二学期が始まった。始業式は一学期と同じく疎隔されるだけだったけど、次の日から変化が現れた。
朝、登校して教室のドアを開けると、クラスの視線がざっと毛羽立つように集まってきた。良くない目だとはすぐ感知した。しかし、いまさらそんなふうに注目される心当たりがなくて、とまどいながら席に向かった。
つくえを見た僕は立ち尽くした。そこにはチョークで、『ホモ』とか『オカマ』、『消えろ』とか『死ね』──毒々しい中傷が書き殴られていた。
何……誰? 誰の字?
とっさにそう思ったけど、筆跡は憎しみに荒れていて、誰の仕業かは分からなかった。それどころか、こちらを注視してくる教室を見まわす勇気さえ出ない。
搏動で息遣いが浅くなる。プールで幽霊の髪が巻きついてくるみたいに、足元を床に引きずりこまれそうになる。頭がくらくらする。
遠巻きに無視されるのもつらい。けれど、こうして目に見えて嫌がらせをされると、体温が一気に下がった。
泣きたかったけれど、こらえて僕は椅子に荷物をおろし、ティッシュでチョークの文字を消すことにした。マジックじゃなくてよかったな、なんてかろうじて思う。
だが、かばんから教科書をしまおうと引き出しを開け、びくっと手を止めてしまった。ぬるぬるした液体で、引き出しの中がべったり濡れていたのだ。何の液体か分からなくて触れずにいると、「あれローションだよな」という声が聞こえてきた。
ローション。ローションって──理解した途端に頬が燃えて、何で、とティッシュでは足りないのでタオルを取り出した。
どうして? どうして人は、ゲイをセックスとすぐ結びつけて考えるのだろう? 僕は鈴里が好きだけど、ぎゅっとされたら幸せかなとは思ったけど、抱かれたいとまでは考えたこともない。ローションなんて、そんな恥ずかしいものを欲しいと思ったこともない。なのに、みんながくすくす嗤っている。
恥ずかしい。僕が持ってきたものでも何でもないのに、もしかして、いつかこれが必要になる自分が恥ずかしい。何とかぬめりを落としたものの、もう一度濡れタオルで拭き直したいと思っていたところで、チャイムが鳴ってしまった。結局、僕は引き出しには何も入れないまま、荷物はフックにかけて席に着いた。
──しばらくは、嫌がらせを仕掛けてきているのが誰なのかまでは、分からなかった。慢性の非難。陰口の出所。執拗な悪意。ひとり、ではないことは何となく感じた。たぶんグループだ。学校なんて行くのはやめようかと、何度も考えた。行かなくなってもおかしくないだろう。
でも、そうしたら家族に知られる。家族にまでこの性質を否定されたら、僕は──それに怯えて、逃げ場もなく登校を続けた。そうしているうちに、僕が教室にいるだけでいらだたしくなってきたのか、「その人たち」は次第に直接的に攻撃してくるようになった。
階段で突き飛ばす。囲んで毒を吐く。殴るとか蹴るとか、そんな露骨なことはされなかったけど、おそるおそる顔を上げると、そこには水内と舞根がいた。鈴里はさすがにいなかったけど、もしかしたら直接手を下していないだけなのだろうか。
その日も、移動教室しようとしていたところを捕まってしまった。クラスメイトがみんな理科室に行ってしまって、がらんとした教室で、数人によってぐるりと囲まれる。チャイムが鳴ってしまい、これから一時間、中断する人もここには現れない。「お前さあ」と縮んでいる僕を見下ろすひとりが吐き捨てる。
「いい加減、学校来んのやめろよ。同じ空気吸ってるだけできめえんだけど」
「ホモ仲間で相手探せよ。何だっけ、ハッテン場? とか行きゃいいじゃん」
「そうそう。お前の相手は、そういうとこの変態のおっさんなんだからさ」
「俺たちと一緒に学校で過ごす資格が、そもそもねえんだよ」
震えそうな腕を抑えるために、ノートを抱きしめる。最近は、僕がおじさんに軆を売っているなんてうわさもある。この人たちが流しているのだと思うけれど。
何となく舞根を見ると、目をそらされた。水内を見ると、癇に障ったように目を眇められる。
「あのさ」
ふと水内が冷静に口を開き、責め立てていた三人が口をつぐむ。水内は疲れたような息を吐いた。
「こうなるって、分かってただろ?」
「え……」
「もし、人にホモだとか知られたくないなら、ホモだからって唾吐かれたくないなら、そもそも人に告白なんかするなよ」
「……僕、は」
「何だよ」
「鈴里、だけにしか」
水内はあきれた息をついてから、突然ぐっと僕の胸倉をつかんできた。水内の憎々しげな眼に首がすくみ、息が止まる。
「ストレートなのに、ホモに告られる重さが分かるか?」
「え、」
「見澤が口外したとか思ってんなら、被害妄想だ。見澤は悪くない。人に相談くらいしたくなるんだよ。いや、させてやれよ」
針が心臓を貫通する。そうだ。分かっている。鈴里自身にも言われた。ひとりで答えは出せなかったと。
水内は僕を床に投げ、体勢を崩した僕は尻餅をついてしまう。ぶつかったつくえが、がたんっと派手な音を立てる。
「いいか、とっとと教室に来るのをやめろ。お前がそうしたほうが、見澤だって楽だろうしな」
「す……鈴里がそう言ってるの?」
「うんざりしてるのはよく分かる」
うなだれた。水内と舞根を含んだ五人は、一時間も僕をいたぶることなく、僕を汚物のように見下してから教室を出ていった。
床に手をついて、しばらく動けなかった。水内の言うことに間違いがないのがつらかった。理不尽なことを言われたのなら、まだ言い返せるのかもしれないけど。僕は、確かに鈴里を苦しめたと思うのだ。
やっと、誰かのつくえにつかまってよろよろと立ち上がった。つくえにぶつかった肘が、内出血していて痛い。その赤紫をさすりながら、そうだよな、と思った。
鈴里を想うなら、僕にできることは教室に行かないことなのではないか? 二度と顔を合わせないことしか、もう僕は鈴里にできない。謝ることすら叶わないのだ、ならば僕は──
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