保健室
僕の通う高校にも保健室があって、教室でなくそこに登校している生徒がわずかながらいるらしかった。話によると、保健の先生は僕の性を分かってくれているという。だから、登校先を保健室にするのはわりとあっさり決まった。
次に、いつから登校するかを話し合った。「切っかけが分からない」と言うと、松瀬先生が十二月の期末考査はどうかと提案してくれた。
勉強は、独学とはいえ続けている。遅れているのも一ヶ月くらいだ。範囲を聞けば、たぶん取り返せる。試験も保健室で受けられるそうだ。独学で分からないところがあれば、今回に限り、松瀬先生が家まで来て、他教科含め教えると言ってくれた。
そんなわけで、十二月までの一週間ぐらいは久々に必死になって勉強した。運動より勉強のほうが得意だったし、追いこめば範囲は頭の中に吸収されていった。
気持ちが安定したのもあるのかもしれない。やっぱり、学校に行かなくてどうしようと落ち着かなかった。その中で、やっと光る道を見つけられたのだ。僕は進めばいい。
だが、前日は誰かに会ったら怖いなと寝つきが悪かった。鈴里にはきちんと会いたいとは思うけれど、とりあえず試験だ。
どうやって鈴里と話すのかはまだ考えていない。でも、ちゃんと会う。話す。それは決めている。
十二月に入った日の朝、僕は久しぶりに制服を着て、黒のコートを羽織った。柔らかい匂いのオムライスの朝食をしっかり食べて、指先が凍りつく曇り空の下を歩いて駅に向かった。
がたん、ごとん、と響く満員電車の中は、暖房と人いきれが染みこんで、むしろちょっと暑い。高校最寄りで駅を出ると、学校指定の黒か紺のコートを羽織った学生が、たくさん高校に流れていた。顔見知りにつかまりたくなくて、そそくさと学校に急いで靴箱を抜けていく。
保健室はどっちだったか迷いかけたけど、一階にあることは聞いていたので、面倒な遭遇が起きる前に見つけられた。開いてるかな、とドアに手をかけると動いたので、どきどきする心臓を深呼吸でなだめ、思い切ってドアを開けた。
保健室の中には、男子生徒がひとりだけいた。赤く燃えるストーブの前に座り、ノートをめくりながらペンをくわえている。
僕のほうを振り返った彼は、ペンを指先に取って、「おはよー」と言った。僕はそれにはっとして、「おはようございます」と保健室に踏みこんで、後ろ手にドアを閉める。
「あ、あの、保健の先生……」
「しろちゃんはちょっと出てまーす」
「しろちゃん……」
「白田だからしろちゃんじゃん」
「あ、えと、僕、保健室登校、今日が初めてで」
「そおなの? それは失敬」
軆が冷えていたので、自然とストーブに歩み寄って手をかざす。先客の彼は、ノートを眺めながら首をかしげて、かたわらのかばんから教科書を引っ張り出したりしている。その教科書が僕と同じなので、二年生だということが窺えた。見憶えのない生徒だと思う。
保健室登校の人だよな、と思っても、よく分からない。髪は黒の短髪で眉も整い、瞳や口元は何となく人懐っこい。軆つきは筋肉でがっちりしている。ストーブの炎を見つめて、何か保健室登校のイメージじゃないかも、とか思っても無論口には出せない。
「何年生?」
僕もノート見直しておかないとな、とか思っていると、不意にその生徒が顔を仰がせてきた。僕は座る彼を見下ろし、「二年生です」と答える。「マジか」と彼はちょっと嬉しそうに親近感を見せた。
「俺も二年生。一年ダブってるから歳はひとつ上かも。でも敬語じゃなくていいよ」
「はあ」
「俺は壱野っていうんだ。君は」
「あ、香河」
「香河くん。あ、二年ってことは受ける試験も一緒じゃね? ちょっとここ教えてよ」
「あ、うん」
指さされるままノートを覗きこみ、さいわい僕でも分かったので、自分の復習も兼ねて解説する。「ほうほう」と壱野くんはくわえていたペンで、ノートに貼ったプリントに下線を引いた。教科は数学で、要点をまとめたプリントのようだ。「保健室登校って、こういうのもらえるの?」と訊くと、「自分でPCで作った奴」と壱野くんは問題に納得してひとりうなずく。
「先生が作った奴みたい。すごいね、ちゃんと要点まとまってる」
「まとめた時点で頭ん中では終了して、あとで見直すとぜんぜん分からなかったりする」
「はは」
「ここで先生にも教えてもらうけど、それも頭に残らねえや。俺がバカなのかなー」
「授業も黒板の書き取りばっかりで効率悪いよ」
「まあな」と壱野くんは笑って、「ん、ここに来たのは勉強落第?」と立ち上がる。身長は壱野くんのほうが高い。
「えっ。いや──その」
「あ、無理に言わねえでいいけどな。ちなみに俺は、周りがみんな年下で居心地悪くて」
「え、入学したときは」
「入学しただけだった。遊んでたとかじゃないぞ。バイトに必死だったんだ」
「働いてたの」
「ん。お袋の再婚相手がいい人で、やっと去年からまともに高校来れるようになったんだ。それまでは、俺が働かないと妹に食わせるもんもなかったんだ」
「そう、なんだ……」
僕には想像もつかないけれど、学校というより、家庭が大変な人なのだろうか。その重さにたたずんでしまうと、「うがっ」と突然壱野くんはうめいて顔を手でおおった。
「ど、どうしたの」
「俺、何か語った。恥ずかしい。ごめん、興味ないよな」
「あ、いや。そんなことないよ。僕もうまいこと言えなくてごめん」
「んーん。はあ、まあ……これでも教室から浮いてる自分がきつかったりするんです。一匹狼の奴とかすごくね? 群れるより孤立のが絶対嫌だよ」
「うん。分かる」
「俺は、連れ立って便所に行く気持ちのほうが分かる。トイレにひとりで行くと、何か不安な感じあるぞ」
僕は笑ってしまって、「壱野くんおもしろいね」と言った。「そうかー?」と言いながら壱野くんは別教科のノートを取り出す。
僕も一時限目の国語は確認しておかなくてはならない。軆が温まったのでコートを脱いで、ソファに腰を下ろしてノートや学習帳をめくった。
そうしていると、「壱野くん、留守番ありがとー!」と言いながら騒々しく女の人が入ってきて、「コンタクト大丈夫?」と壱野くんは顔を上げる。
「指からファンデがついたから、一度洗浄液で洗ってた。ごめんね。ほかの子は──」
どうやら保健の先生らしいと推測していると、その人がこちらに目を向けたので、僕は頭を下げた。髪をアップでまとめたその女の人は、「あー」と額を抑えて何秒か考えてから、ぱっと僕を見た。
「今日初めて見るってことは、香河くんかな?」
「はい。そうです」
「よかった、来てくれたんだね! 松瀬先生も喜ぶなあ。あ、壱野くん。この子ね、香河くん」
「ちょっと話してた。数学教えてもらった」
「えっ、壱野くんが教えようよ。先輩じゃん」
「いや、香河くんのが頭いいな」
「仕方ないなー。あ、二年生の子って今はほかにいなかったよね。ここはいっちょ仲良くなってみたら」
「うん。そうする」
自然に答えた壱野くんに、僕がつい顔を向けると、「よろしくー」と壱野くんはひらひらと手を振った。僕はきょとんとまばたきをしたものの、また思わず笑ってしまい、「よろしく」と応える。
「いい感じじゃない」と保健の先生が嬉しそうにしていると、やがてほかの保健室登校の生徒も数人やってきた。それでも、揃ったのはここに通う全員ではなくて、来ていない生徒もいるようだ。僕の隣にやってきた壱野くんが言うには、毎日来る生徒のほうが少なく、しかし今日は試験だから多いほうらしかった。
試験日は、午前中で終業する。でも、まだ生徒がいる校舎を歩きたくなくて、僕はのろのろと保健室に残っていた。さっさと帰る保健室の生徒たちが多い中、壱野くんも残って、ソファでスマホをいじっている。話しかけていいのか分からなかったから、僕はストーブに当たっていた。
保健の先生も僕たちを追い出すことはせず、気を利かせて話しかけてくれる。それにたどたどしく答えていると、松瀬先生も顔を出してくれた。ちょっと表情をほぐした僕は、松瀬先生に「まずはここに来ることに慣れるといいだろう」と言われて、こくんとした。話によると、保健室で僕に勉強を教えてくれる先生も、有志で決まりつつあるらしい。
ちゃんと、これからも登校できるように整ってきている。クラスメイトに遭わないのだけ気をつけてれば大丈夫そうかな、と松瀬先生を見送って安心していると、「香河くん、がっつり登校してくんの?」と不意に壱野くんがスマホから顔を上げて振り返ってきた。
「がっつり、というか。教室に行けないだけだから、毎日来るよ」
「マジか。俺もけっこう来てるほうだよ。仲良くしよー」
「………、壱野くんって、僕のこと知らないよね」
「ん、どういう意味」
「僕、その……イジメられてたんだけど。ゲイだからなんだ」
「ゲイ」
「男……の、ほうが、好きなんだ」
「カミングアウトしたの?」
「そうではないけど」
「ふうん。まあ、別に、だからって俺もイジメようとは思わねえから気にすんな」
「嫌、じゃない? ……気持ち悪いとか」
「別にい。俺が女にしか興味ないみたいに、男にしか興味がないだけだろ」
そんな単純なことかな、と思ったものの、実際、そんなふうに単純なことだ。僕は女の子に欲求が湧かない。
「好きな奴はいるのか?」
「えっ、あ──まあ」
「そっかー。俺も彼女いるんだ」
「そうなの」
「ん。今中一で、妹の親友」
「そ、そうなんだ」
「木乃里っていうんだけどさー。ずっと妹を支えてくれた子なんだよなあ。惚れるわー」
「壱野くんって、十八歳になるのかな」
「うん。十三歳とは至極犯罪」
「……だよね」
「でも好きだし。しょうがないし。木乃里が十八歳になるまで離れて、そのあいだに彼氏作ったらやだし」
僕は手元に目を戻して、いつか鈴里にも彼女ができるんだよな、と思った。そのとき、僕はできることなら祝福してあげたい。嫉妬したり、落ち込んだりしたくない。鈴里が選んだ女の子ごと受け入れたい。
それをぽつぽつと語ると、「そういうの話してみないの?」と問われて、「話したいとは思ってるけど」と首をすくめる。
「まず、話す切っかけがなくなっちゃったから」
「仲良かった奴?」
「幼なじみだよ。親友だった」
「そいつもイジメてきたの?」
「ううん。でも、助けてもくれなかった。それを責めるつもりはないけど」
「強いな」
「……情けないよ」
「そうか? ま、話せるといいな。香河くんに彼氏できたら見てみたいし」
屈託ない壱野くんの言葉に咲う。なぜだか、その言葉が嫌味のない本心だというのは分かった。
しばらく保健室に居残って、校内の人気が引いた頃に帰路についた。三日間、壱野くんのいる親しみやすい雰囲気の保健室で、期末考査を受けた。
鈴里と会って話をしたい。そう思っていても、朝の電車の時間はずらして登校してしまう。ずいぶん会っていない。ほんとにまた会えるのかな。そんな勇気出るのかな。そう思いつつ、ひとまず僕は保健室登校を続けた。
【第十一章へ】