Koromo Tsukinoha Novels
その夜も午前二時に及ぶ閉店まで働いて、アフターの食事までこなすと、送迎の車で地元に帰宅した。時刻は午前四時で、僕はまず熱いシャワーを浴び、楽なスウェットすがたになると、自分の部屋にふとんを敷いて寝転がる。
バッグからスマホと名刺入れを取り出し、森沢さんの連絡先を登録した。ID検索で出た名前も『森沢伊鞠』で、小説っぽい本の表紙を撮った写真がアイコンになっていた。好きな本なのかなあ、本読むのかなあ、とか思いながら、とりあえずひと言はメッセを送信しておいた。
『瑛瑠ですよ!
今日はありがとうございました!』
とはいえ、森沢さんたちは零時を機に帰っていったので、こんな明け方はちょうど寝ているのか、既読はつかなかった。
僕は今日は出勤していなかった聖生のトークルームに移り、森沢さんのことをだらだらと書いて送った。聖生はすぐ既読をつけて、『え、客に惚れたわけ?』と返信をよこす。
惚れた。僕はいったん考え、そうだな、と思った。惚れたのかもしれない。
ほんとにかっこよかったし、あの声でもっと名前を呼んでほしいし、何なら本名で呼んでもらいたいくらいだ。
女の人ではあるけれど、そんなことは気にならない。ずっと自分はゲイだと思ってきた。違うのかもしれない。魅力的な女の子を知らなかっただけで、バイなのかも──
そのへんをまたつらつらと書いて、聖生に送ってみる。既読が現れたあと、『俺も瑛瑠はゲイだと思ってた』と来て、『だよねえ』と僕はふとんをごろごろする。
あんまり眠くなくて聖生とメッセをいつまでも続けていると、突然、『森沢伊鞠さんからメッセージが届いています。』とシステム通知が来て、僕はがばりと起き上がった。
「わ、わっ……何か来た」
慌てふためくあまり、ひとりそんなことを言いつつスマホを持ち直す。時刻は午前六時を少しまわっていて、起きたんだ、とどきどきしながら思う。
一度深呼吸をすると、えいっ、と通知をタップしてトークルームを開いた。
『おはようございます。
昨夜は課長がご迷惑をおかけして、すみませんでした。』
うむ。これだけか。まあ、ここできゃぴっとした返信が来たら何か幻滅なのでよしだ。
そこはさておき、課長って中戸さんか。確かに面倒くさかったものの、森沢さんがそう言うなら許す。『大丈夫ですよ~』ととりあえず送って、『起きたとこですか?』と続けてみる。
目の高さに持ってきたスマホ画面を見つめて、しばらくかたまったみたいに待っていた。
しかし、既読はつかない。部屋の外で「おはよう」と言い交わす家族の声が聞こえてきても、森沢さんの反応はない。
「何でえ?」と僕が突然声をあげると、「癒が何か言ってるぞ」とか何とかおとうさんの声が聞こえた。それは無視して、僕はスマホを握ったまままくらに突っ伏して、ふとんをどすどすと殴った。
確かに朝だけど。いそがしいかもだけど。せめて既読はつけない? 一応質問投げてるんだから、そうですよ、とか返してこない?
何か言われないと、僕は延々と待ってしまう。でも、二度寝しちゃった? なんていうふざけた追撃をできるほどの仲ではないし。もしかして、普通に僕からのメッセが鬱陶しいとか……
お腹をくだしているみたいにうめいて丸くなっていると、「癒、起きてるなら何か手伝いなさい」とおかあさんが顔を出した。僕が泣きっ面で振り返ると、「朝はみんないそがしいんだから」とおかあさんは腰に手をあてる。
「……朝っていそがしいの?」
「いそがしいに決まってるでしょ! 癒はいつも寝てて知らないかもしれないけど──」
「メッセは?」
「は?」
「メッセ返せないレベルで、いそがしい?」
おかあさんはため息をつくと、「昼間に働く人の朝は、秒単位でいそがしいんです! せめて静かにしなさい」とぴしゃっとふすまを閉めて去っていった。
僕は涙目をこすって、そうなのか、と思った。じゃあ、森沢さんも本当にいそがしいだけで、僕が鬱陶しいわけじゃないのかな。
スマホの画面を起こして、もう一度森沢さんのトークルームを見る。やっぱり、既読さえない。
いや、いそがしいのだ。きっと、いそがしいだけで、僕が鬱陶しいわけじゃない。鬱陶しかったら、それこそ『おはようございます。』だって来なかったかもしれない。
そうだよね、と僕はスマホを抱きしめると、吐息をついて冬用のぶあついふとんにもぐりこんだ。
そのあとも、森沢さんから返信は来ても、ラリーにはならなかったし、来る返信もそっけなかった。
声が聴きたくて『通話できる?』と甘えてみても、すぐには既読がつかなかった挙句、『また今度に。』とはぐらかされる。会いたいとは思っても、さすがに店抜きで会うのは同伴以外では禁止だし、同伴はしてくれるわけがないし。
『またお店来てね!』と送信するのが精一杯でも、『課長に誘われたら伺います。』としか返ってこない。
中戸さんか。あの人、また森沢さんを連れてくるだろうか。もう僕に会わせたくないとか、クズなことを思っているんじゃないだろうか。いや、僕がお願いしたら、もしかして──。
中戸さんと同伴するのは気が進まなかったけれど、あの人しか森沢さんにつながらないのだから仕方ない。『一緒にごはん行きたいなあ』なんてメールを送れば、『何食べたいの?』なんてすぐに返事が来た。
別にそのへんのハンバーガーでいいよ、と思っても、そんなのは逆に客のプライドを傷つけるので、『お寿司!』と言っておいた。『いつ行きたいの?』とある意味お寿司を承諾した返しに、僕は『明日でもいいよ。年内には会っておきたい~』と応じた。
僕のその言葉に気をよくしたようで、とんとん拍子に中戸さんとの同伴が決まった。
「瑛瑠ちゃんから誘ってもらえたのは嬉しいなあ」
まわらない寿司屋で僕に大トロもいくらもウニも食べさせてくれる中戸さんは、嬉しそうに僕を見つめた。「んまいです」と僕は支払額に遠慮せず、蕩けるネタとふわっとしたシャリをぱくぱくと口に投げこんでいく。
「ところで、中戸さん」
「うん」
「森沢さん元気ですか?」
「森沢? 何で?」
「ふふ、中戸さんがイジメてないかなあって」
「イジメてないよ。仕事はできる奴だし、ちゃんと信頼してるよ」
「そうなんですか?」
「ただ、もっとかわいらしかったらねえ」
セクハラ発言だなあ、と思いつつ、厚切りサーモンを頬張る。そんな僕を見つめ、中戸さんは息をついて腕を組む。
「森沢が気になるの?」
「えっ。んー、まあ。イケメンは好きですよ」
「会いたかったりする?」
中戸さんをちらりとすると、にやりとされた。
「………、中戸さん、酔ってないと鋭いですね」
「連絡先は交換したんだろう?」
「すごいそっけないんですよ。僕のこと、うざいのかもしれない」
「うざかったら、そっけない返事もしないでしょ」
「そうなんですか? 中戸さんのお気に入りだから、気にしてるだけかも」
「そんな気遣いはしなくていいって言っとこうか」
「そしたら、もはや何も来なくなるじゃないですか」
「じゃあ、俺にできることはないなあ」
「えーっ。それは……その、またお店に連れてくるとか、……いろいろ」
「それはお願いかい?」
「お願い、です」
「じゃあ、瑛瑠ちゃんに何かしてほしいなあ」
「いや、今、めずらしくデートしてるじゃないですか」
「瑛瑠ちゃんのそういうすりかえ、嫌いじゃないよ」
「ありがとうございます」
「でも、これはデートじゃなくて同伴で、俺はこのあと瑛瑠ちゃんにボトル空けさせられるんだよねえ」
僕はむうっと頬をふくらませ、玉露の熱い緑茶を飲む。
これは、一発やらせろと言われる流れだろうか。さすがに、それは。枕営業なんてやらないのにお店にばれたらそう思われるし、というか、森沢さんにただ会うために軆をさしだすのはやりすぎだし、そもそも、僕の軆が中戸さんを受けつけないと思う。
「僕は……男の娘ですよ」
「知ってるよ」
「ちんこはありますよ」
「だろうね」
「無理でしょ⁉」
「無理だろうねえ」
僕はまた中戸さんを見た。中戸さんはやっぱりにやにやして、「俺も奥さん裏切る気はないから」と言った。
「ただ、今度うちの娘と会ってくれる?」
「娘さん」
「俺、思春期の娘に嫌われてる父親なんだけどね。娘がゆいいつ俺と話してくれる話題が、瑛瑠ちゃんのことなんだよ」
「僕ですか」
「興味だと思うけどね。娘と話せる機会になるから、瑛瑠ちゃんは俺の癒しなんだよ」
僕は、中戸さんに思いっきり変な顔をした。中戸さんはげらげら笑って、「そういうことなんで」と僕の肩に手を置いた。
「別に瑛瑠ちゃんと森沢のことを邪魔する気もないし、お店に連れてくるぐらいしてあげるよ」
「ほんとですかっ?」
「ただ、娘の友達になってやってくれるかなあ」
「友達ならいいですよ。ぜんぜんおっけです」
「よし、じゃあ、あとは食べてお店に行こう。ふふ、今夜は妙子と話せるなあ」
何だ。つまりこの人は、僕に心酔していたわけでなく、娘さんファーストだったらしい。それはそれで舌打ちしたくても、ここは大目に見よう。
何にせよ、森沢さんに会える!
よし、と気合が入った僕は、お寿司をたらふく食べて、お店に中戸さんを連れていくとしっかり接客させてもらった。酔った中戸さんはまた「瑛瑠ちゃーん」としなだれてきたけど、これも娘さんにくっつけない反動なのだろうと思えば、気にならなかった。
そんなわけで、僕と森沢さんが再会したのは、年が明けて新年会の忙殺も落ち着いた頃だった。新年会で会えるのでは、とも期待したけれど、残念ながら新年には中戸さんは個人的に飲みにきても、森沢さんは来なかった。
よかったかもしれない。とかく新年はいそがしいので、ひとつの席で落ち着いていることがない。中戸さんもそれを分かっていたみたいだ。『瑛瑠ちゃんが落ち着いて席に着ける日に行くからね。』というメールが来て、僕は枯れることが多い水曜日を指定しておいた。
森沢さんとのメッセは減速をたどっていたし、結局一度も通話はしてないし、もう会って話すしか手はない。
三人連れの客がひと組入っているだけだったその日、「あら、中戸さん、いらっしゃいませ」というカウンターにいたママの声に反応して、僕は振り返る。すると、中戸さんも店内の僕を見つけて手を振って──
その後ろに、連れがひとりだけいて、イケメンだああああと僕はそのすがたが瞳に映ったことに、打ち震えそうになった。
「森沢さん、お久しぶりですっ」
中戸さんには僕をつけるのはママも分かっているので、すんなりテーブルを任せてもらえた。ママはもうひとりキャストをつけようとしたけど、「瑛瑠ちゃんだけお借りするよ」と中戸さんがさらりと断ってくれた。
中戸さんと生温かい笑みを交わした僕は、すぐさま森沢さんのほうを向いて、満開の桜みたいににっこりした。切れ長の目が僕を見て、「どうも」とあの声が返してくれる。
「会いたかったですよーっ。メッセも僕が送るばっかだしー」
「メッセあまり得意じゃないので」
「そうなんですか? じゃあ、通話でもいいですよ」
「時間が合えば」
「えへへ、約束ですよっ。あ、何飲みます? 中戸さんは水割りですよね」
「んー、よろしく」
「森沢さんは? こないだ、あんまりぐいぐい飲んでなかったですよね」
「お酒はつきあいで飲むだけなので」
「誘ってやったのに、つきあいってなあ。森沢、かわいくないぞ」
「いいじゃないですか。──ソフトドリンクもありますよ? 烏龍茶かオレンジジュースですけど」
「じゃあ、烏龍茶でいいです」
「はあい」と返事した僕は、会話のあいだに黒服がテーブルに整えてくれたボトルやアイスで、飲み物をささっと用意する。「僕もいただいていいですか?」と中戸さんに断って、自分の水割りも作ると三人で乾杯した。
「そういえば、こないだ中戸さんに同伴してもらったんで、今度は森沢さんに同伴してほしいなあ」
しばしの雑談をはさんだあと、僕が心を決めてそんなことを言うと、「同伴って何ですか」と森沢さんは少し首をかしげる。
ああ、そのさらっとした髪に触りたい。
「お店に来る前に、デートをすることです」
「……デート」
「基本的に食事ですね。ごはん食べて、お店に来て、お酒飲んで」
「連れこむようなものですね」
「言い方ー! まあ、そうかもしれないけど」
「申し訳ないんですが、そこまでして来ようとは──」
「うふふ。森沢さんなら、デートだけでもいいですよ? お店には内緒で」
僕がにまにましながら言うと、森沢さんは静かに烏龍茶を飲んで、小さく息をつくと黙ってしまった。「瑛瑠ちゃん、こいつ頭堅いから」と中戸さんは水割りをすする。
「そういう、職業上アウトなことにはいい顔しないかも」
中戸さんを見たあと、森沢さんを見直した。森沢さんは無表情で、抱いている感情が分からない。
僕は水割りのコップを置くと、「ちょっと不謹慎でした」と素直に謝った。
森沢さんは僕を見て、わずかに眉を寄せて困ったあと、「瑛瑠さん」と改まった声で僕の名前を呼んだ。
「はい?」
「無理です」
「はっ……い?」
「言ったと思うんですが、私は女なので」
「わ、分かってます」
「普通に──という表現は間違いかもしれませんが、男性しか無理なので」
僕は森沢さんをじっと見つめ、震え声を出した。
「僕は、男ですが……?」
「失礼ですが、心のほうは……」
「男です! 心も軆も男です!」
森沢さんがよく分からないような面持ちになり、僕は男の娘とニューハーフの違いを説明しようとしたが、もうまどろっこしいので全部言ってしまう。
「確かに、僕は女の子とつきあったことはないです。自分はゲイだと思ってきました。でも、森沢さんのこと、イケメンだけど別に男とは思ってないし、女の人でもいいから、本気で好きだってっ──」
まくしたてる僕に森沢さんはまばたきをして、「好き、って」と僕は泣きそうな声で繰り返す。
「森沢さんが、好きっ……です!」
言ったあと、視線を落としそうになったら、小さく噴き出す声がして顔をあげる。森沢さんが、ちょっとだけど、咲っていた。
初めて見た彼女の笑顔を、僕は見蕩れるほどにかわいいと思った。
「ママさんが」
「へっ?」
「ママさんが、すごい顔されてますよ」
はっとして、カウンターを見た。ママの目と頬が引き攣っている。僕が気づいたのに気づくと、今にも切れそうに睨みつけてきた。
そりゃそうか。店内で、大声で、客に告ってしまった。最初の客に着くほかのキャストたちは、失笑している。
「う……えと、その、」
「瑛瑠っ!」
ママの男らしいくらいの怒声。
だよねえ。スルーするわけないよねえ。
ママは席を立つとこちらに歩み寄ってきて、まずは中戸さんに謝り、それから森沢さんにも謝った。「いやいや、僕は瑛瑠ちゃんの共犯なんでね」と中戸さんは笑って、「私も大丈夫です」と森沢さんも言った。
でも、ママはそのまま僕をテーブルに置くことはせず、ほかのキャストとチェンジしてしまった。僕はしゅんとして、カウンターに飲みかけの水割りのコップをカウンターに置く。「瑛瑠、ちょっと来なさい」とママは僕を店から引っ張り出すと、同じビルの一階に入っているバーまで連れてきた。
【第四章へ続く】