迫る狂気
朝、出勤していく陽葵を見送ると、俺は暖房のきいたリビングに引き返して、ソファに沈みこんだ。
室内が急に静かになるこのときは、いつも何だか落ち着かない。そろそろ家事くらいやれるようにならないと、とは思うのだけど、朝から精神安定剤も飲むのでけっこうだるい。背凭れに寄りかかり、ベランダに面したガラス戸を見て晴れた光に目を細める。
もう一月の半ばで、あの日から四十九日が近づいている。とうさんたちがいなくなったなんて、まだ信じられない。目の前で焼けた骨になってしまったのを見たのに、どこかでは、あの家で当たり前に暮らしているような気がする。
何であの三人が殺されなければならなかったのか、いまだに分からない。絶対に、怨まれるような人たちじゃなかった。
雪舞の夢は、相変わらず見る。俺の心臓をぐっと踏みつけ、みぞおちを圧迫して息苦しくさせる。でも、薬でぐったりして眠るようになったせいか、雪舞が俺を見下ろしながら、何を言っているのかを聞き取ることはできなくなった。
目が覚めると、しばらく息ができないほどの重さが胸にのしかかっているけども、つけっぱなしの電気を見つめていると、寝室の光景と隣の陽葵の寝息で少し冷静になれる。不安なときは、陽葵を起こして背中をさすってもらった。俺が力なく謝ると、陽葵は首を横に振り、「助けてほしいときは、いつでも言って」と俺の冷たい手を握った。
午前中を茫漠と過ごし、十二時をだいぶ過ぎてから、陽葵が作っておいてくれた昼食を食べる。今日はきつね色のオムライスだった。陽葵の料理ならずいぶん食べれるようになった。電子レンジで温めたオムライスにケチャップをかけ、リビングの座卓でゆっくり食べる。バター風味のたまごの中身は、鮮やかなオレンジのチキンライスだった。
かあさんが朝食のメニューが決まらないとたいていオムライスにしてたなあ、なんて思い出す。それに初栞は「ガキのメニューじゃん」と文句を言って、とうさんはわりとおいしそうに食べていて──不意にまた視界が滲みかけて、目をこする。
三人の日常のやりとりを鮮やかに思い出すほど、それが喪われた事実が迫って心がきしんだ。
何とかオムライスを完食すると、コーンポタージュスープを飲んで軆を温め、ぼんやりしていた。座卓に投げていたスマホに着信がついたのはそのときで、見ると夕彩からのメッセだった。
『マラソンの授業中。
生徒がグラウンド十周してるあいだやることない。』
それを読んで俺は小さく笑ってしまい、『サボって歩いてる生徒を注意したりしろよ。』と返す。
『それはほかのクラスの先生がやってくれてる。
マラソンの授業は合同だからな。』
『授業中にメッセやってる先生はどうかと思うぞ。』
『俺もそう思う。
いや、夜に少し通話できるかなと思って。』
『話せると思うけど。
何かあった?』
『例の美容師の元カノが、婚約者と喧嘩して、昨日俺の部屋に泊まっていった。』
思いがけない話で、『マジで?』と俺は送る。
『より戻すの?』
『やることはやってしまった感じです。』
『じゃあ、元鞘でいいんじゃね。』
そこからしばらく返信が途切れた。そののち、短く『スマホやってんの気づかれた。ごめん、夜に。』という慌てたメッセが来て、俺は苦笑いした。やはり、授業中にスマホをいじる先生はダメだろう。
でも──そうか。元カノが訪ねてきた。夕彩が復縁するかもしれない。未練はありそうだったしなあ、なんて思い返しながら、俺はスマホを置くと、夕彩にもそろそろパートナーと幸せになってほしいなと思った。
夕方、夕食の材料や日用品と共に陽葵が帰ってくると、俺は夕彩と元カノのことを話した。「元カノさんも、意外と未練あったんだ」と陽葵はまばたきをして、「好きなのは夕彩だったって言って、別れたらしいし」と俺は陽葵がエコバッグから取り出すものを冷蔵庫や戸棚にしまう。「だから、夜に夕彩と話すかもしれないけど」と俺が断っておくと、「そのあいだお風呂でも入っておく」と陽葵は微笑んで承知してくれた。
しかし、その夜、夕彩からの着信はなかなか来なかった。『通話できるぞ。』とひと言メッセを送っておいたが、既読もつかない。まあ、教師は放課後こそいそがしいのは聞いているので、あまり深く考えずに、ばたばたしているのだろうと思っておいた。
陽葵のあとに俺も入浴して、髪は陽葵が乾かしてくれる。零時になって、どのみちこの時間からゆっくり通話もできないだろうとあきらめると、『いつでも話聞くから。おやすみ。』と送信しておき、陽葵と一緒に就寝することにした。
ベッドにもぐりこんで、陽葵を腕に抱いて、緩やかに軆にまわっていく睡眠薬に意識が飲まれていく。そうして、ふっと頭の中が闇に落ちかけたときだった。
突然、スマホの電話着信の音が響いて、びくっと俺は目を覚ました。
「えっ……何、電話?」
陽葵も半分寝ぼけつつ身動ぎ、「ごめん、俺のスマホだ」と俺は陽葵から腕を放してスマホを手に取った。
『天森さん』と表示されていて、思わず目をこすった。天森さん。こんな時間に。
とっさに思ったのが、犯人が捕まったという知らせだった。急いで応答をタップして、「もしもし」とスマホを耳にあてる。
『もしもし。天森ですが』
「はい。えと、すみません、出るの遅くて」
『いや、もう休まれているかとは思ったんですがね』
「どうかしたんですか? もしかして、犯人──」
『いえ、残念ながらそういうお知らせでは』
「……そう、ですか」
一瞬ふくらんだ期待が、一気にしぼむ。そうだよな。捜査に進展があった話を聞いていたわけでもない。しかし、だとしたらこんな時間に電話なんて何だろう。
『朝のニュースでご存知になるより、私がお伝えしたほうがいいかと思いましてね』
天森さんの声は渋く、俺は眉を寄せた。
朝のニュース。何。何だ。ニュースになるようなことがあったのか?
言い知れない胸騒ぎに、片腕で陽葵を抱きしめる。天森さんは話を続けた。
『音瀬夕彩さん、ご友人ですよね?』
「夕彩……ですか? はい、そうですけど」
『……そうですか』
天森さんのため息が聞こえて、え、と俺は頭の中がちりちりと混乱に焦げてくるのを感じた。
何で。どうして天森さんが夕彩の名前なんて出してくるんだ。
『実はですね、昨日の二十二時頃に男性が倒れているという通報がありまして。類似性から、うちの署にも通達があったんですよ』
男性? 通報? 類似性?
『音瀬夕彩さん、どうやら帰宅中の道ですかね……何者かに、刃物に刺されてお亡くなりになったそうです』
心臓が一度大きくおののき、そのまま止まった気がした。
え……?
お亡くなり……に、なった?
夕彩が、刺されて──
「う……嘘、ですよね。そんな──」
『殺害方法が、確かに金居さんのご家族の事件と同様です。複数の刺し傷が致命傷でした』
「お、同じ奴が殺したんですか?」
『我々は、その線を強く見て捜査しています。そして、浮上した共通点が金居さんなんです』
「え……俺? 俺、そんな、何も分からない──」
『この犯行は、金居さんへの怨恨によるものである可能性があります』
「は? 俺?」
『殺害された方本人というより、金居さんに何らかの怨みがあって、その周囲の人間を──』
頭の中をノイズ音が圧して、天森さんの声が聞こえなくなっていく。
暗い脳裏にまたたく、不気味な笑顔があった。夢の中で、繰り返し俺を責める女の子が、嬉しそうに笑っていた。俺に怨みがあって、周りの人間を手にかける? これまで生きてきて、俺をそこまで怨む人間がいるとすれば、それは確実に……
鼓動が、どくんどくんと突き刺さりはじめる。酸欠のように息が切れ、過呼吸が起きてくる。腕も手元も冷たくなってがたがた震えて、スマホを取り落とし、心配そうにこちらを窺っていた陽葵が俺のスマホを拾って、代わりに天森さんと話しはじめる。
すぐに、陽葵の受け応える声にも動揺が現れた。俺は頭を抱え、神経をぶちぶちとちぎられているように痙攣し、まぶたに揺らめくあの女の子の心象に怯える。
雪舞。俺は発狂しそうな不安定の中で思った。雪舞だ。やっぱり、雪舞が戻ってきたんだ。俺にそこまでの復讐したいと考える奴なんて、世界中、どう捜しても雪舞しかいない。
「瑞栞」
いつのまにか電話を終えた陽葵が、いたわるように俺を抱きしめた。俺と陽葵のいつもの匂いがして、俺は彼女にしがみつく。陽葵は俺の頭を撫で、俺は不意に雪舞のあの言葉を思い出した。
みんな、殺してやるから。
「やだ……」
「瑞栞?」
「やだよ。みんな殺されるなんて嫌だ」
「みんな殺される、って──」
「どうしよう。どうすれば赦してくれるんだ」
俺は陽葵を抱きしめ、「陽葵だけは連れていかないでくれ」とうわ言のように口走った。俺のただならない様子に陽葵はとまどっていたが、「瑞栞、落ち着いて」と顔を覗きこんでくる。
「もしかして、何か心当たりがあるの?」
「………っ」
「それなら話して。誰にも言ってほしくないなら、警察に言ったりもしないから。私には話して」
陽葵の瞳を見た。でも、目の焦点がぐらぐらして、視線はうまく重ならない。「瑞栞」とゆっくり呼ばれ、頬に陽葵の温かい手が添えられた。俺は一度ぎゅっと目をつむると、しばらく躊躇ったのち、こわごわと口を開いた。
「こ、高校、のときに」
「うん」
「好きだった、女の子がいた」
「……うん」
「俺は、その子に……ひどいことを、したんだ」
陽葵の視線は少しこわばったが、「うん」と話をうながした。
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