遺された優しさ
最寄り駅まで帰ってくると、マンションの前の通らないまわり道をして、喫茶店に行ってみた。
まだ午前中でゆっくりしている時間帯なので、たぶん邪魔にはならないだろう。そう思いながらドアを開けると、からんころんとベルが鳴って、「いらっしゃいませ」と穂乃芽ちゃんの声がした。
「どうも」と顔を出すと、俺の顔を認めた穂乃芽ちゃんが「瑞栞さん」とはっとした表情で駆け寄ってくる。「今、大丈夫?」と訊いてみると、「はい、もちろん」と穂乃芽ちゃんはちょっとどんな顔をしたらいいのか迷ったあとに咲って、俺を店内に通した。マスターもカウンターから俺のすがたに目をとめ、「よく来たね」とどこかつらそうな笑顔でながら言ってくれた。
ちらほらお客さんはいるものの、まだにぎわっているというほどではなかった。
時刻は十一時前だから、あと一時間もすればランチのお客さんで混みあいはじめるだろう。その時間帯に、一応店員の俺が席に居座っていたら迷惑だ。
そうなる前には帰ろうと思いつつ、お冷やを持ってきた穂乃芽ちゃんにカフェオレを注文した。「伯父さん、瑞栞さんにカフェオレ」とマスターに伝える穂乃芽ちゃんを見つめ、学校は行ってないんだな、と思った。
俺は息をついて、ひと口お冷やをすすった。グラスが指に冷たかったけど、電車ではあの男のことを考え続けてしまい、口の中が渇いている。
あの男の笑みを思い返すと、吐きたいような胸苦しさを覚えた。夢の中で見た雪舞の笑みがよぎるせいかもしれない。あんなふうに笑って雪舞は言った、あとひとりだと。
分からない。あの男と雪舞が関係あるかなんて、そんなの分からない。もしかしたら、ぜんぜん関係ないところから俺につきまとっているのかもしれない。
だから、あの男のことはちゃんと警察に言わないといけないと思う。だが、雪舞に関係しているかもしれないということは──
「どうぞ」
ふわりと柔らかい匂いがして、穂乃芽ちゃんがマスターが淹れてくれたカフェオレを俺の前に置いた。
はたとした俺が「ありがとう」と言うと、穂乃芽ちゃんは「少し、いいですか」と俺の向かいの席をしめした。「いいけど」と答えつつマスターを気にすると、「伯父さんが、話してていいって言ってくれたので」と穂乃芽ちゃんは椅子を引いて腰かける。
「ごめんね、心配かけて」
「いえ。……お友達のこと、伯父さんもショックみたいでした」
「え、ああ──そっか、あいつ、ここにも来てたもんな」
「学校の先生だって」
「うん。小学校。生徒も、ショックだろうね」
穂乃芽ちゃんは睫毛を伏せる。もしかして生徒からしたら教師なんてそうでもないのかなとちらついたが、言わずに話をそらす。
「穂乃芽ちゃん、学校は? もう三学期だよね」
俺の言葉に顔を上げた穂乃芽ちゃんは、照れ咲いしてから「行ってないです」と首をかたむけた。
「留年は確実です」
「……そっか。まあ、穂乃芽ちゃんはここで働いてるからえらいよ」
「働くなら働くで、親戚のツテに甘えるなって親には言われますけどね」
「学校辞めて、働くのも考える?」
「そうですね。このまま在籍してても、どうせ行かない気がしますし」
「つらいなら、無理しなくていいと思うよ」
「はい。ただ、中卒って働けるんでしょうか」
「……厳しいとは思うけど」
「資格でも取ろうかなあ。瑞栞さん、何か資格持ってますか」
「俺は建築士とか持ってるよ。前、リフォームの会社で働いてたし。資格取るのはいいと思う」
「ですよね。とはいっても、何がしたいかっていうのがないかも」
「ここ手伝ってるなら、飲食はとりあえず大丈夫そうだね」
「うーん、ファミレスとかは目まぐるしそうで怖いなあ。仕事内容も人間関係も」
穂乃芽ちゃんはそう言ったあと、「社会不適合者ですね、あたし」と苦笑した。俺はかぶりを振り、「今はこの店が心配なんだよね」とカップを手にして指を溶かす。
「ごめんね。俺がここに戻ってきたら、穂乃芽ちゃんも心配せずに仕事探せるのに」
「いえ、それは気にしないでください」
「うん……まあ、そろそろ、復帰したいなとは考えてるんだ」
「そうなんですか」
「さすがに、二ヵ月も収入がないとね。陽葵のヒモにはなりたくないし」
「けど、ええと、その……気持ちとか、大丈夫ですか」
俺は目線を下げ、カフェオレの水面を見つめながら「部屋にひとりでいるほうがつらくて」と小さく笑った。「……すみません」とうつむいた穂乃芽ちゃんに、俺は首を横に振る。
「今、念のために陽葵のこと送り迎えしてるから、日中の空いた時間だけでも働けるかなって思ってる。俺の都合すぎるかな」
「そんな、ぜんぜん。瑞栞さんがそういうペースにしたいなら、伯父さんは分かってくれますよ」
「じゃあ、あとで相談してみるね」
「はい。あの、陽葵さんを送り迎えしてるんですか?」
「うん。俺が原因だとして、一番危ないのは陽葵だと思うし」
「瑞栞さんが原因なんて、そんなのマスコミが言ってるだけじゃないですか」
「いや、警察もけっこうそういう見方してるんだよね。……何か、あるんだろうね」
気になることあるし、と言いそうになったものの、やはり言えない。そこから雪舞の話につながるのが怖い。雪舞に怨まれて当然の高校時代の自分を人に知られたくない。
「瑞栞さんも、気をつけてくださいね」
穂乃芽ちゃんがじっとこちらを見つめて言い、「えっ」と俺は思わずまじろぐ。
「陽葵さんもだけど、あたしは瑞栞さんも心配です」
「俺は……狙われるとか、ないと思うし」
「あるに決まってますよっ。瑞栞さんも危ないんです。それは自覚してください」
「………、今の俺は、陽葵を遺して死ねないってだけで。殺されたほうが楽な気がする」
「そんな、」
「最悪、陽葵のことも守れなかったら、もう自分が生きてる気がしない」
「じゃあ、絶対陽葵さんのこと守ってください。瑞栞さんが、殺されるとか……あたしも伯父さんも哀しいです」
俺は穂乃芽ちゃんの真剣な表情を見て、弱く微笑むと「ありがとう」と言った。穂乃芽ちゃんは唇を噛んでいたあと、「ここに帰ってきてくれるの、待ってますから」と小さく言った。「うん」と俺はカフェオレを飲む。まだまだ自分のより、マスターのカフェオレのほうがおいしいなと思った。
そのあと、カウンターでマスターに復帰の件を話すと、「まずはここまで来れる日に、カフェオレを飲みにおいで」と言われた。収入の件はマスターも分かってくれて、接客より裏方をメインに、俺の調子がいいときに手伝わせてくれるそうだ。「俺のわがままばっかり通してもらってすみません」と恐縮すると、「瑞栞くんはいつも頑張ってるから」とマスターは穏やかに言った。
「友達の彼も言っていたよ」
「友達……って、夕彩ですか」
「瑞栞くんがいそがしいと、私と話してくれることもあってね」
「……俺、頑張ってる、かな」
「『無理しないように、見張っておいてやってください』って言われたよ」
「……夕彩」
「いい友達だね」
マスターの物柔らかな瞳に、つい視界が滲んで、慌てて目をこすった。
夕彩。何だよ。どうしてそんなに俺を思いやってくれるんだよ。俺は何にもできなかったのに。お前に甘えて、不安を愚痴って、そんなのばっかりだったのに。挙句、俺のせいでお前は──。
夕彩が俺に遺したものが優しいものばかりで、息もできないほど哀しくなって、切なくなる。
昼には部屋に戻り、陽葵が作り置きしてくれたたまごフィリングとスライストマトのサンドイッチを食べた。相変わらず食べるのは遅いけど、味は何となく分かるようになってきて、おいしい、と思いながら全部平らげる。
食器は洗って、そのあと何もしないのも滅入りそうだったので洗濯をしたり、ふとんをベランダに干したりした。動きまわっていると十六時が近づき、俺はコートやマフラーで防寒して部屋を出る。
まだ見かけるマスコミらしき奴らはいるが、囲んで追いかけてくるほどではなくなった。俺が無言をつらぬいて、相手にしないせいかもしれない。
二月の半ばで、この時間あたりから、まだまだ冬が色濃く残るきんとした空気が立ちこめてくる。緩やかに長くなっていく夕暮れの中、マフラーからこぼれる息はうっすら白い。電車に乗りこんで席に座ると、足元のヒーターがありがたかった。
スマホを何度もチェックしていると、『今日は定時!』という陽葵のメッセが届いた。『もうすぐ着くよ。』と返すと、『エントランスで待ってるー。』というメッセとちょこんと座った猫のスタンプが来て、少し微笑む。
陽葵の職場の最寄り駅に着くと、早歩きで陽葵が勤める会社のビルに向かった。「瑞栞っ」という陽葵の嬉しそうな声に顔を上げ、俺もほっとした笑顔になる。
「ごめん、寒かったよな」
「平気、外にいたの五分くらい」
陽葵はローズピンクのコートに白いファーのスヌードを巻いていて、ワインレッドの手袋もつけている。俺はその手を取って握ると、「帰ろうか」と陽葵を優しく引っ張り、「うん」と陽葵は俺の肩に寄り添って並行する。
「今日、昼飯のサンドイッチおいしかった」
「ほんと? よかった」
「味覚とか、だいぶ戻ってきた」
「そっか。じゃあ、せっかくおいしく食べれるなら、今晩は瑞栞の好きなものにしようか」
「陽葵の料理は何でもおいしいけどな」
「嬉しいけど、それ一番困る奴だから」
「はは。久しぶりに中華とか食べたいな」
「麻婆豆腐とか」
「うん。寒いから辛い奴がいい」
「よしっ。麻婆豆腐と、中華スープも作ろう」
「デザート、杏仁がいい」
「決まり。はあ、話してたらお腹空いてきた」
そんなわけで、電車に乗っていつもの街に帰ってくると、駅地下のスーパーで夕食の材料を買いこんで帰宅した。
暖房をつけ、陽葵は部屋着に着替えて、夕食の支度を始める。俺も手伝って、香辛料がほかほか立ちのぼる麻婆豆腐、白菜ときのこの中華スープ、もやしときゅうりの中華サラダができあがった。デザートの杏仁豆腐は冷蔵庫で冷やしておく。ごはんも炊けると座卓に夕食を並べて、「いただきます」と声をそろえて俺たちは夕食を始めた。
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