雪の十字架-25

約束があるから

 雪舞から手紙を受け取り、成人してこちらに戻ってきたときから、日田はずっと俺を「観察」していたらしい。
 俺が病院に通い、仕事を辞め、ほぼ引きこもっていた時期なども、奴はすべて詳細に知っていた。ストーカーみたいなことをされていたと知ったときは気持ち悪かったし、話しかけてくれたらもっと違う未来もあったのではないかと悔しくなった。
 しかし、日田は俺と話すなんて思いも寄らず、俺が苦しんでいる様子で雪舞を喪った哀しみの溜飲を下げていた。そして、陽葵の存在で俺が救われはじめた頃から、ふつふつと殺意が湧いてきた。
 幸せになろうとしている。「みゆちゃん」を見殺しにしたくせに、幸せになろうとしている。俺に対してのゆがんだ憎しみはどんどんふくらみ、自分だけが置き去りにされている感覚に精神が荒廃し、俺の実家の前で家族の笑い声を聞いたときについにはちきれた。
「あいつを僕と同じ目に遭わせたかった。大切な人を喪う絶望にたたきこんでやりたかった」
 両親の喧嘩が多かったという日田の生い立ちのあと、取り調べに対するそんな言葉も掲載され、俺はスマホでぼんやりその記事を眺めた。
 世間は怨まれる過失が俺にあったことを責める風潮から、日田のあまりにも捻じれた憎悪に眉をひそめ、俺を悲劇に巻きこまれた主人公あつかいするようになった。あんなに攻撃的だったマスコミ連中は、急に媚びるような同情的な声でマイクを向けてきた。俺は相変わらず無言で、マスコミには何も気持ちは語らなかった。
 俺には今収入がないし、陽葵もいなくなって、家賃をはらえなくなったので、マンションを引きはらうことになった。実家も借家だったので、俺は行く場所がなかった。
 そうしたら、マスターがしばらく住みこみで働かないかと持ちかけてきた。いつか部屋を借りるために金は貯めないといけないし、ほかに住める場所のあてもない。俺はマスターの言葉に甘え、職場に寝泊まりすることにした。
 マンションにあったものはほとんど廃棄した。ベッドも、ソファも、冷蔵庫も、洗濯機も。どうせ職場に持っていけないし、陽葵と共有していた想い出がよみがえるのもつらかった。
 実家にもようやく足を踏み入れ、やっぱりほとんどのものを廃棄させてもらった。ただ、アルバムがリビングに置きっぱなしになっていて、よくよく思い返して、そういえば最後に家族に会ったときにはアルバムを見たりしたことに気づいた。陽葵にプロポーズする手本にと、両親の馴れ初めを聞いたのだ。あの日を鮮明に思い出して息が苦しくなり、俺はそのアルバムだけ抱えると、あとは業者に任せてしまった。
 俺のことを心配して、葬式に行けないままになっていたのに、夕彩の両親が喫茶店を訪ねてきた。夕彩もそんなふうに、よく俺を心配して職場に来たことを思い出し、仕事中なのに泣いてしまって、そんな俺に夕彩の両親も泣いてしまった。
「夕彩がいなくなって寂しいから、瑞栞くんを息子と思っていいかな」
 おばさんはそう言って、「何かあれば、いつでもうちが家だと思って頼っておいで」とおじさんも言ってくれた。俺は恐縮しながらもうなずき、「夕彩にもちゃんとまた会いにいきます」と約束した。
 住みこむようになって、喫茶店の奥には小さな休憩室があるのを知った。「家に帰りたくないときは、私もここでゆっくりするんだよ」とマスターは咲い、「帰りたくないときなんてあるんですか」と俺がしばたくと、「私は妻が先立って、娘も嫁に行って、ひとりだからね」と初めてマスターの家庭のことを聞いた。
 奥さんを交通事故で亡くしたショックでサラリーマンも辞めてしまい、しかし娘さんを養うために始めたのが、この喫茶店だったのだそうだ。「マスターの奥さん、会ってみたかったです」と俺が言うと、「私がゆっくりしているぶん、気丈で明るい女性だったよ」とマスターは目を細めた。
 再び給料が出るようになると、病院にも挨拶に行った。金銭的な意味で、しばらく通うのはひかえると伝えると、先生は「生活保護などの申請もお手伝いできますが」と気にしてくれた。俺はそれには首を振り、「仕事がなかったら頼ってましたけど、マスターが分かってくれてるし、夕彩の両親もいてくれるので」と言った。すると、先生は無理に手続きを勧めることはせず、「つらいときは、いつでもいらしてください」と優しく微笑んだ。薬はあえてもらわずに帰ってきた。
 ここのところ、雪舞の夢は見なくなっていた。夢の中の彼女の恐ろしい言動は、すべて俺の不安と妄想が作り出したものだったのだろう。先生にもそう言われた。
 そう、夢なんてそういうものだ。幽霊が現れていたわけではない。久しぶりに見た夢の中の雪舞は、水面の上を波紋を残しながらひらひら踊っていた。こちらを振り返ると、ほのかに咲って、すうっと消えた。手のひらに落ちた雪みたいに、透明になって、いなくなった。
 その夢を見たときは、はっと目を覚まし、ようやく雪舞のあの虚ろな目から、そして怨まれているという自責から解放された気がした。俺から離れていった雪舞のすがたに、休憩室のカウチで静かに泣いていると、ノックが聞こえて「瑞栞さん、おはようございます」と穂乃芽ちゃんが顔を出した。
 俺は慌てて涙を繕おうとしたものの、間に合わなくて泣き咲いになってしまった。そんな俺に、穂乃芽ちゃんはどこか思いつめた面持ちになったあと、カウチの後ろにまわって俺の背中をぎゅっと抱きしめた。でも何も言わないから、俺も何も言わず、ただ、また流れてきた涙をそのままこぼした。
 生きていくしかない。そう思う。
 とうさん。
 かあさん。
 初栞。
 夕彩。
 そして、陽葵。
 俺のせいで死んでしまったことに変わりはない。いまだに追いかけたいと思うけど、追いかけて、果たして追いつけるだろうか。それが分からないなら、俺は五人に対して、生きることで償うしかない。最期まで生きた先でなら、五人は俺を待ってくれている気がする。
 陽葵との指輪を外す日は来ないだろう。クロスの指輪。俺は十字架を背負って、死ぬまで生きるのだ。冷たく重い、雪でできたような十字架。
 俺がそれを背負うことで、大切な人たちの魂の痛みが透明になって消えるなら、この雪の十字架を背負って生きていこう。みんなの魂を背負っていることを、その魂を無念から解放するためにひとりで生きていくことを、この指輪を見るたびに思い出していこう。
 窓から、春の朝の光が射しこんでいる。あんな光に包まれたみんなに、いつかまた、俺の名前を呼んでほしい。
 忘れない。また会えるのだから、俺は忘れない。
 みんなに会える、十字架が溶ける、春は必ず俺にも訪れる。
 涙に揺らぐ視界をはらって、指輪を朝陽にかざした。「綺麗ですね」とふと穂乃芽ちゃんが言って、「うん」と俺は微笑む。
 きらめくクロスの光に、この指輪を通して、かけがえのない愛する人とは今もつながっている気がする。
「──開店作業、しましょうか」
 そう言って、ぱっと離れた穂乃芽ちゃんにうなずき、俺はカウチを立ち上がる。
 エプロンをまとうと、できるようになった洗濯のおかげで、一緒に選んだ優しい香りがふわりと俺を包んだ。

 FIN

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