月光の少年-2

守るために

 目が覚めたのは、三時間後くらいの八時前だった。「おにいちゃん」と肩を揺さぶられ、三秒ぼんやりしたあと、はっと目を覚まして「どうかしたのか」と身を起こす。
 すると、ピンクのランドセルを背負った優瑚が、俺の形相にやや億面しつつ「おとうさん、会社行ったよ」と言った。「あー」と俺は声を垂らしてから、「ありがと」と笑みを作って、優瑚のおかっぱの頭を撫でる。
 ちょっときつい印象の目元をした顔立ちでも、優瑚はおとなしい子だ。学校もあんまり好きではないようでも、そうしたらあいつがうるさいから、俺が学校だけは行っておくように諭している。
 俺はさすがに働かなくても、中学同様、小学校もろくに行かずに家事や優瑚のお守りをやっていた。かあさんの調子がよくて、「今日は大丈夫」と言われた日だけ学校に行っていた。でも、勉強はぜんぜん分からないし、友達もうまく作れないし──
 だから、優瑚には、毎日学校に行って困ることがないようにしてあげたい。
「朝飯は食ったか?」
「シリアル食べた」
「そっか。じゃ、学校だな」
「……うん」
「一年から二年はクラス替えなかったよな。友達はいるんだろ」
「いる、けど……何か、怖い」
「怖い」
「前、家に遊びに行っていい? って訊かれて、無理って答えてから、怒ってるの」
「とうさんがいないときなら連れてきてもいいんじゃないか」
「………、やだもん」
 優瑚のふてくされた表情を見つめ、幼心にこの家庭を友人に知られたくないのだろうと思う。しかし、それは言わずに、「遅刻するぞ」と俺は立ち上がって優瑚の背中をとんと押す。優瑚はうつむいて、小さくこくんとすると俺と共に部屋を出た。
「いってきます」と優瑚が朝陽の中に登校していくのを見送ると、俺は家に引き返してリビングを覗いた。
 誰もいない。かあさんはまだ寝室か。眠っているなら、そうさせてあげたほうがいい。
 俺ももう少し眠りたくても、家事をやらなくてはならない。手始めに洗濯をして、乾燥までまわしているあいだに、自分もシリアルの朝食を取って食器を洗った。
雅羽みやは。おはよう」
 かあさんが起き出してきたのは昼前だった。キッチンにいた俺は「おはよー」と返して、「昼飯、牛丼だから」とぐつぐつ香ばしく牛肉を煮込みながら笑顔を作る。かあさんは蒼白い顔つきで息をつき、「ごめんね」という口ぐせをこぼしながら、ダイニングテーブルの椅子に座る。
「ちゃんと薬飲んだ?」
「朝は……飲まなかったね」
「昼はちゃんと飲まなきゃダメだよ。飲まないとしんどいだろ」
「………、薬がないとまともじゃないなんて、ほんとに情けないよね。ごめんね、こんな母親で」
「いいんだよ。そういう病気なんだし。原因は俺も優瑚もよく分かってる」
 かあさんはまた息をつき、長い髪で表情を隠してしまう。数年前に亡くなったばあちゃんは、あの男と結婚するまではおかあさんは明るい人だったんだよとよく語っていた。
「昨日、ずいぶん遅くまで帰ってこなかったね」
 つゆをたっぷりかけて牛丼ができあがると、俺はかあさんと向かい合って、昼食を食べはじめた。しばらく沈黙して口を動かしていたものの、俺より食べるのがゆっくりのかあさんが、不意にそう言う。
 俺は箸ですくった飯を口に押しこむのをやめ、「起きてたの?」とまばたく。
「ううん。二時くらいに寝たけど、まだみたいだったから」
「四時くらいにやっと仕事終わった」
「ほんとに働くの?」
「かあさんの病院代とか、もう貯金がないんだろ。あいつはかあさんが病院かかってるのも知らないし。知ってもくれないだろうし」
「……でも、雅羽を働かせてまで」
「病院は行かなきゃダメ。薬もらうためでもあるんだ」
「ごめんね……」
「いいんだよ。かあさんのことも優瑚のことも、俺が守るから。頼っていいんだよ」
 かあさんは、苦しそうに涙目になる。俺はキッチンの引き出しに隠しているふくろを持ってきて、その中のたくさんの精神安定剤を取り出してかあさんに渡した。
 かあさんはまだ「ごめんね」と繰り返しながら、牛丼は半分くらいしか食べていなかったけど、お茶で薬を飲みはじめる。俺はその口元を見つめ、かあさんが最近切っていないか素早く手首にも目を走らせた。
 洗濯物が仕上がったベルが鳴り、ふかふかの洗濯物を取りこんだ。それから、ゴム手ぶくろをつけて、仕方ないのであいつの服をつかんで洗濯機に放りこむ。いつも余計に洗剤を入れて、三回すすぎにかけてしまう。
 そのあいだに、俺はかあさんが残した牛丼も食べてしまい、また食器や鍋を洗う。炊飯器も空になったので釜も洗った。あいつの洗濯も終わると、かあさんが薬で少し落ち着いたのを見計らって買い物に行く。献立を決めると、材料をささっと買ってしまい、帰宅して夕飯を作った。
 そうこうしていると、優瑚も帰ってきて、十六時を大きくまわっていた。俺は十八時には店に着いておかなくてはならない。そういやシャワー浴びてねえ、と気づいたので、ざっと熱いシャワーで軆を洗い、下着以外の服は着まわす。かあさんが夕方の薬を飲んだのを見届けてから、優瑚にかあさんのことを頼み、俺は十七時半になる前に家を出た。
 夕暮れ時だった。緩やかに日が長くなって、桃色と橙色が重なりあった色が空に溶けて景色を染める。まだ昼間の陽気が残っていて、風は暖かい。
 あんまり眠らなかったせいか、視覚が乾燥しているような変な感じがしていた。あくびがこぼれて、明日は昼寝する時間を取ろうと決める。
 駅前は、帰宅中の学生やら見切り品目的の主婦やらでにぎやかだ。そんな通りの路地を抜けて、暖色の明かりが灯っていく飲み屋街に出ると、店に急ぐ。
 ──そんなふうに、俺の学校に行かない中学時代は始まった。初めはどうしてもスピードが出なかった皿洗いも、週五勤務でみっちり働き、何とかまわせるようになった。
 チーフは俺を弟分みたいにかわいがってくれたし、ママやお姐さんたちも揶揄いつつ俺を認めてくれるようになった。初めて手取りで給料をもらえたときは、がっつりした金額ではなくても、やはり感動した。
 平日は睡眠をしっかり摂れないぶん、週末の夜によく眠った。じめじめした梅雨が明け、夏の日射しが一気に広がった七月の日曜日、ぼんやり蝉の声を聞きながら目を覚ますと、朝の八時だった。
 朝飯作らねえと、とにぶく起き上がろうとしたとき、この世で一番嫌いな声が耳に障ってきた。無意識に眉を寄せ、あいつ起きてんのかよ、と舌打ちしてはしごでベッドを降りる。
「普段はお前がだらだら寝坊しようと、自由にさせてやってるだろう! 休日くらいは食事ぐらい作って、俺を労わろうと思えないのかっ」
 そんな怒号が家じゅうに──いや、たぶん周りの家にも響いている。
 部屋を出ると、廊下のキッチンの手前で優瑚が膝を抱えていた。俺に気づくと、泣きそうな表情を向けてくる。駆け寄って「部屋逃げとけ」と小声で言うと、優瑚はこくりとして、俺たちの部屋に逃げこんだ。
 覗いたキッチンでは、ふんぞり返ったあいつが、怯えたかあさんをねちねちとなじっている。
「飯は俺が作るから」
 俺はそう言って、あえて無遠慮に両親に割りこんだ。恐縮したかあさんと苦々しいとうさんがこちらを見る。「またお前か」とダイニングテーブルの椅子に座るとうさんは、いらついた息を吐いた。
「お前がそうやって何でも首を突っ込むから、余計にこいつが無能になるんだろうが」
 何も返さず、ただかあさんにはリビングのほうを目配せして、キッチンに立つ。俺の無視が気に食わなかったのか、「お前がこいつをダメにしてるんだぞっ」ととうさんは怒鳴りつけてくる。
 喉を掻っ切られないと、こいつは黙ることができないのだろう。
「こいつに母親らしいことをさせろっ。もっと妻らしく俺をねぎらうべきなんだ。何なんだ、まったくっ……狂ってるな、お前たちは」
「すみません……。あの、雅羽。おかあさんが作るから」
「大丈夫。かあさんは無理しなくていいよ」
 俺がそう言っても、かあさんはおろおろとその場に立っている。しかし、ここで俺が引くわけにはいかないので、「じゃあ、手伝ってくれる?」と譲歩した。すると、とうさんは「朝飯くらいひとりで作れないのかっ」と言い出し、だったらてめえが自分で作ってみろよ、と吐き捨てたくなる。
 こいつの言うことをまともに聞いていたら、神経をかきむしられて、怒鳴り返したくなってくるだけだ。聞き流して、淡々と朝飯を用意した。
 焼き鮭、たまご焼き、味噌汁、きゅうりの浅漬けと白飯。作ったものを無表情にテーブルに並べていく。本当はこいつの前だけ空っぽにするような嫌がらせぐらいしてやりたいが、そうしたらかあさんに矛先が向く。
 我慢して飯を出してやると、とうさんは餌を食い散らかす動物のように、くちゃくちゃ音を立てて食べはじめた。その咀嚼音に嫌悪感を覚えつつ、「かあさんは、あとで優瑚と食べてやって」と今度こそかあさんをリビングに行かせる。
 そして、俺はひとりでとうさんのいるテーブルに着いた。

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