月光の少年-4

家庭訪問

 かあさんに打ち明けたあと、殴られたまま転がっている俺を見つけた優瑚は、「ごめんなさい」と繰り返しながら泣き出してしまった。俺は起き上がり、なまぐさい血を飲みこんで、「大丈夫だから」と優瑚の頭を撫でた。
 かあさんも「私があの人と話し合わなきゃいけなかったのに、ごめんね」と涙目で謝ってきて、「俺が我慢できなかっただけだよ」と笑みを作る。そして、俺が留守にするあいだは、ふたりにはなるべく一緒にいてもらうように頼んだ。
 何度も思い出したくもないだろうに、優瑚は俺にも打ち明けてくれた。かあさんが寝室で休んだあと、あいつは優瑚にあの服をたびたび着せていたらしい。それだけでも気色悪い話だが、あいつに触れたりとか、触れられたりがまだなかったのは、かろうじてのさいわいだった。
「またそういうことされそうになったら、かあさんを起こすか、電話で俺を呼べよ」と俺は優瑚に店の電話番号を改めて教えた。優瑚はこくんとしたあと、「おかあさんは、大きな声出して人を呼びなさいって」と言い、「それもいいな」と見事な変質者あつかいに俺は噴き出してしまった。
 俺たちに知られても、あいつがなおも優瑚に何かすることはなかった。優瑚は敏感に視線とかに怯えても、かあさんもずいぶん気を張って優瑚のそばにいてくれたし、行為が悪化することは防げた。それでも「ほんとに何もないな?」と確認を取ってしまい、そのたびに優瑚は「大丈夫」と微笑んでくれた。
 年が明けて、立ちこめる空気がぐっと冷えこんだのち、柔らかな春になった。俺が働きはじめて一年が経ち、優瑚は小学三年生になった。
 今まで学校に行くのが憂鬱そうだった優瑚が、今年度からどこか嬉しそうに登校するようになった。家よりは学校がマシとか感じさせてるのかなと心配になったが、ある日、「明日、お友達の家に遊びに行っていい?」と優瑚が言い出して、夕食の餃子を焼いていた俺はまばたきをした。
「お友達」
「うん。キノちゃん」
「キノちゃん」
 初めて聞く名前だった。二年生のときまで同じクラスにいた友達の名前ではなかった気がする。その友達とは、結局気まずいままのようだったし──。
 俺は餃子のにんにくが匂う湯気を見ながら、「ええと」とまず気になったことを聞いた。
「キノちゃんは、女の子ですか?」
「うん。席が近いの」
「てことは、同じクラス」
「そうだよ。キノちゃんはね、すごく優しいの」
「優しい」
「あたしのことも仲間外れにしないの。こないだ遠足あったでしょ。そしたら、一緒にお弁当食べてくれたしね、みんながあたしのこと置いていったら、キノちゃんがそばにいてくれたの」
 こんなに一気にしゃべる優瑚はめずらしい。というか、キノちゃん情報より、優瑚がハブかれているらしい情報が気になるのだが。
「いい子なんだな」と俺が言うと、優瑚は陽光の中で水を浴びた花のようにきらきらした瞳でうなずいた。
「キノちゃん、おにいちゃんのこともかっこいいって言ってくれたの」
「は……はっ? 俺?」
「あたしのことも、おかあさんのことも、大切してくれるかっこいいおにいちゃんだって。キノちゃんはそれを分かってくれて、すごく嬉しい」
「そ、そうですか」
 小三でそこまで優瑚の心を察してくれるとは、かなり賢い子なのだろうか。「じゃあ、いつかお礼を言わないとな」と俺が小さく笑うと、「うんっ」と優瑚はキッチンのふちにつかまって笑顔を見せる。
「おにいちゃんも、キノちゃんに会ってほしいな。キノちゃんもおにいちゃんに会いたいと思う」
「はは、そのうちな。優瑚にそんな友達ができて嬉しいよ」
「あたしも嬉しい。……あのね」
「うん」
「もしかしたら、キノちゃんなら、おうちに呼んでもいいかなって思うの」
 思いがけない言葉に、俺はまたまばたく。
「キノちゃんなら、あたしんちを『変な家だね』とか言わない気がするの」
「……誰かに言われたことあるのか?」
「そうじゃないけど……言われそうだから、誰も連れてきたくなかった。おにいちゃんが働いてるとか、おかあさんがお薬飲むとか、みんなの家とは違うんでしょ」
「………、そう、かもな」
「でも、あたしはおにいちゃんのこともおかあさんのことも、変って言われたくないの。キノちゃんは言わない気がする」
 真剣な面持ちになる優瑚に、よっぽどキノちゃんを信頼しているのが窺えた。優瑚の俺とかあさんへの思いやりも感じて、微笑んでしまいつつ、「今度連れてこいよ」と俺は優瑚を頭をぽんぽんとした。
「とうさんが仕事行ってるあいだなら、大丈夫だろ」
「おにいちゃんは、キノちゃんが来ても迷惑じゃない?」
「俺はぜんぜん。かあさんも喜ぶよ」
「そっか。じゃあ、明日キノちゃんのおうちで話してみるね」
 俺が承諾の代わりににっとして見せると、優瑚もにっこり咲った。優瑚のそんな陰りのない笑顔は本当に見たことがなかったから、これはキノちゃんが来たらもてなさないとなと思った。
 それから、優瑚はよくキノちゃんの話をしてくれるようになった。かあさんも、優瑚が楽しそうに友達の話をするのが嬉しそうだった。とうさんがいると、途端に優瑚は黙りこんで、俺かかあさんの影に隠れてしまうのは変わらなかったけれど、それでも優瑚はキノちゃんのおかげでだいぶ明るくなっていった。
 すぐ初夏に入り、アスファルトを照り返す五月晴れが続いた。突き抜ける青空からの日射しが、日ごと強くなっていく。
 連休が終わった頃、仕事を辞めたとうさんが昼間も家にいて、例によってかあさんに何だかんだ文句を垂れていた。かあさんはトイレに隠れて薬は何とか飲んでいても、びくびくと視線を泳がせている。手も震えているときは本当にやばいから、それを見取ったときは俺がずうずうしく割って入り、できるだけ矛先をそらす。
 今日もそんなことをしていて、とうさんの誹謗にうんざりした気分を味わっていると、昼下がりにインターホンが鳴った。どうせ勧誘とかだろうと一度目は無視したが、二度目、三度目のあとにノックが続いて、「とっとと追いはらってこいっ」ととうさんが苦々しく怒鳴った。
 かあさんは狼狽えながらそのまま玄関に向かおうとして、「待って」と俺は呼び止める。
「先に、インターホンで確かめよう。しつこいのだったら面倒だし」
「あ、そう……だね。ごめんね」
「ううん。俺が出るから」
 リビングを出て、廊下にあるインターホンの受話器を取った。「もしもし」と警戒をこめた声で呼びかけてみると、『あっ、突然すみません』という男の声がした。聞き憶えはなくて、やはり何かの勧誘かと思いかけたとき、『優瑚ちゃんの担任の壱野ですが』という言葉が続いて、咳きこみそうになった。
 優瑚の担任?
 やべ、と慌てて俺は横柄な声をやめる。
「えっ、優瑚の担任……の先生。何で……あ、もしかして優瑚に何か──」
『いや、ええと、家庭訪問なんですけど』
「家庭──え、でもお知らせとか」
『あ、そうなんです。優瑚ちゃんがどうしてもご希望日時のプリントを持ってきてくれなくて。なので、合間と言っては失礼なんですが、伺わせてもらいまして』
「そ、そうなんですか。何だよ優瑚……すみませんっ、今開けます」
 俺は受話器を急いで戻し、玄関に向かった。
 いや、待て。この状態の家に入れるのか?
 優瑚はこの家の中のことをあまり人に知られたくないと思っているようだ。くそ、何で今に限ってあいつは失業して家にいる? 引き取ってもらっても後日改まった日を訊かれるだろう。家庭訪問も期間内だから、希望はあいつがまた仕事を見つけていそうな遠い日にもできない。
 一瞬にしてごちゃごちゃ考えたが、仕方ない。先生は来てしまっているのだ。玄関までしか通さなきゃいいや、と俺は鍵とチェーンを外し、ドアを開けた。

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