初めての平穏
優瑚と一緒に壱野先生の部屋を訪ね、かあさんに会うことももちろんあった。清涼な秋が冷えこむ冬へ、移り変わる十一月の最後の日曜日、俺と優瑚はかあさんに会いにいった。壱野先生は学校に出ていて、ドアを開けたのはかあさんだった。俺と優瑚の顔を認めて、優しい笑顔になってくれる。その表情にほっとしながら、俺と優瑚は部屋にお邪魔する。
団地とは違うマンションの広い一室で、リビングやダイニングは共通でも、寝室は別々になっている。ここでの生活に、かあさんも慣れてきたようだった。紅茶を淹れて、俺と優瑚に出してくれる。あの手首の傷も、大きなケロイドとして残っていても、抜糸などは済んでいた。
優瑚は相変わらずキノちゃんや壱野先生のことを話し、「それ、先生にも聞いたよ」なんてときおりかあさんは咲う。俺はばあちゃんの言葉を思い出した。あいつと出逢う前は、かあさんは明るい人だった。明るいかまでは分からなくても、あの家にいるときより、かあさんの雰囲気はずっとなごやかだ。そばにいてくれるのが壱野先生だもんなあ、とひとり納得して、いい香りの紅茶を飲む。
「そうだ、雅羽」
「んー?」
「先生が心配してらしたんだけど、もうすぐ中学校卒業でしょう。高校には、本当に行かないの?」
キノちゃんにも訊かれたな、と思いつつ「行かないよ」と俺は即答した。
「働かないといけないし。今の店が雇いつづけてくれそうだし」
「それなんだけど、その……おかあさんね、あの人ときちんと離婚しようと思うの」
「えっ」
「先生が、これまでのことを聞いてくださって。別れて、DVを受けていたことを認めてもらえたら、あの人は私に……雅羽にも優瑚にも、近づけなくなるって」
「あー、何かそんな法律聞いたことあるかも」
「おかあさん、まだすごく怖いときもあるの。あの人がここに乗りこんできたらどうしようって考えて、息が苦しくなったり。何かあって、先生にもご迷惑をかけたくないし。雅羽と優瑚のことも、あの人から離したいと思う」
「……うん」
「あの人が、私にしてきたことを役所の人にも相談したりしたいの。ただ、そうなると、雅羽が未成年なのに夜のお店で働いてることも話さなきゃいけなくなる……と、思う」
俺はかあさんを見た。「私のために頑張ってくれてたのに、否定するみたいでごめんね」と言われて首は振ったものの、「じゃあ、離婚したあとにはかあさんが働くの?」と訊くと、かあさんは「何かしようとは思う」と思ったより前向きに答えた。
「それでも足りなかったら、生活保護とかも恥ずかしいことではないからって」
「……そっか」
「ダメ……かな? このまま、雅羽が十八歳になってから、離婚の話を進めても──」
「いや、ぜんぜん。ダメとかないよ。俺が働いてるせいで離婚の手続きしにくいなら、辞めるし。職場も俺の事情は理解してくれると思う」
「ごめんね」
「いいよ。俺が仕事続けるより、かあさんがあいつと離婚するほうが大事だし」
「ありがとう。じゃあ、そういう方向に動いていってみるね」
かあさんは安堵を混ぜて微笑み、俺もほっとした。
ついにかあさんとあいつが別れるように動きはじめる。今頃あいつがどうしているかは知らないし、あっさり承諾する気もしないけれど、大事なのはかあさんの意思だ。
かあさんはずっと離婚なんてあきらめていただろう。でも、やっと勇気を出すことにしてくれた。あいつと闘うことにしてくれたのだ。
「それで、これは──私のお詫びの気持ちでもあるんだけど」
「ん?」
「雅羽には、高校に行ってほしい」
「えっ」
「小学校も、中学校も、まともに行かせてあげられなくて。すごく心苦しかった。友達も作らせてあげられなくて。だから、高校生になって少しでも楽しい時間を送ってほしいの」
「え、と……高校、楽しいのかな。俺、友達作るのもたぶん下手だよ」
「雅羽なら、きっといい友達ができる。今から受験勉強っていうのはかなりつらいかもしれなくても、頑張れないかな。高卒を取っておくのも、悪いことではないよ」
視線を下げた。優瑚は俺とかあさんを交互に見たのち、「学校、楽しいよ」と俺の服を引っ張る。
「あたしも前は学校嫌だったけど、キノちゃんに会ってからはすごく楽しいもん。おにいちゃんにも、キノちゃんみたいな友達できるよ。大丈夫だよ」
優瑚を見て、それからかあさんを見ると、「じゃあ、一応受験だけでもしようか」と俺は仕方なく折れた。かあさんは嬉しそうにうなずき、「勉強は先生も見てくださると思うから」と言い添えた。
かあさんに頼まれて。優瑚に勧められて。俺が断れるはずもない。正直、学校なんてものに関わることはないと思っていたが、友達を持てるかもしれないというのは確かに魅力的だった。
その日から、これまで手もつけてもみなかった勉強を始めた。店には今回も事を話し、ママはめずらしく寂しそうにしたものの、「よく頑張ったね」と年内で仕事を辞めることを認めてくれた。「大人になったら飲みに来るんだよ」と言われ、俺は笑ってこくんとした。
そんなわけで、昼間は勉強、夜は仕事納めまで働き、年が明けると壱野先生にもマンツーマンしてもらって勉強に励んだ。わけが分からなかった数式や英文が、ちょっとずつ読み解けるようになっていく。それでも、あんまり飲みこみがいいとは言えなかったけれど。
年始の滑り止め私立は、まだ試験を受ける余裕がなく、卒業式のあとの公立一本で勝負した。自信はなかった。たぶん落ちて高校浪人して、もう一年勉強してから挑戦することになるだろうと思っていた。しかし、一応見に行った合格発表に自分の番号があって、マジか、と喜ぶよりぽかんとしてしまった。
俺が勉強に励むあいだ、かあさんも離婚に向けて頑張っていた。あいつがかあさんにしてきたひどいことは、かあさん自身の話だけでなく、俺や優瑚、そして同じ団地に住んであの怒号を聞いていた人まで証言してくれて、すぐケースワーカーの人にあっさり認めてもらえた。
病院の先生も診断書を書いてくれて、生活保護の申請だけでなく、障害年金の手続きも行なった。警察にDVの被害届も出し、かあさんひとりであいつと対峙しなくても、いろんな人が助けてくれる中、桜の蕾がふくらんできた春先に両親の離婚が成立した。
そうして、ついに春から俺とかあさんと優瑚は再び一緒に暮らしはじめた。かあさんは工場で働きはじめ、優瑚は五年生になり、俺は高校生になる。最後にママが見てくれた面倒で、アパートは生活保護受給者でも受け入れてくれるところがすぐ見つかった。壱野先生も、キノちゃんとキノちゃんのご両親も、またいつでも遊びにおいでと言いながら見送ってくれた。
無事高校に入学した俺は、自分が制服着てるの変な感じ、とか思いながら電車で通学を始めた。校門を抜けると桜がほろほろ散って、同じ服装の奴らのあいだで「おはよー」という声が飛び交っている。
この時間は、永年睡眠にあてていたから眠い。陽光で目がちかちかする。
靴箱で上履きに履き替えると、教室に向かって閉まったドアの前で深呼吸する。よし、と心を決めるとドアをスライドさせて──一瞬来る視線はあっても、今日も特に声はかからなくて、俺は息をついて席に向かう。
自分と同い年の奴らの中にいるのは、今まで大人の中にばかりいたから、慣れなかった。みんなすぐさまグループを作ってしまい、別に群れなくてもいいか、とその中に混ざる努力をしなかった俺は、単独行動が多かった。悪いことだとは思わなかったのだけど、担任教師が体育会系だったので、「ちゃんと集団行動もしろよ」とよく声をかけられた。
集団行動。って、どうすればいいのだろう。すでにできあがったグループに割りこんでいくのも悪いし、かといって、グループに属していない奴はそれぞれひとりでの行動が楽なようだし。
第一、俺は勉強に追いつくことに必死なのだ。たたきこんだ中学までの勉強とは明らかにレベルが違い、理解して吸収するのに時間がかかる。
何か、俺って予想以上に学校ダメかもしれん。そう思いはじめるまで、時間はかからなかった。優瑚の言う通り、友達でもできればいいのだろうが、クラスには近づけそうな奴が残っていない。しんどいなあ、と思った俺は、よくないことだと分かっても、授業をさぼって教室を避け、非常階段や屋上への踊り場に腰かけて、図書室で借りた本を読んでいるようになった。
引き続き、壱野先生は俺の勉強を見てくれていて、俺はよく小学校にもおもむいた。かあさんや優瑚には言いづらいので、壱野先生にあんまり高校に馴染めないことを相談した。「勉強は、むずかしいけどそんなに嫌いじゃなくて」と応接室に通された俺は、宿題のページを開きながら息をつく。
「友達が……ほんと、作り方が分かんないです」
「友達は理屈じゃないもんね」
「そうなんですよ。なのに、担任は『もっと友達と過ごせ』って言ってくるし、それもきつい」
「そっか。でも授業は受けておかないと、高校は留年があるから気をつけて」
「留年かあ。あー、それもやだなあ。周りがみんな年下になるんですよね」
「そうだね」
「年下は優瑚とキノちゃんしか分からん」
壱野先生は、俺の言葉にくすっと咲う。
そういえば、優瑚とキノちゃんは高学年でも同じクラスになった。担任は壱野先生ではなくなったけれど、壱野先生も今年度は高学年のクラスを受け持っているので、ふたりの様子は担任の先生から窺うことができているそうだ。「高学年は、林間学校とか修学旅行とか、想い出を作る機会が多いからね」と優瑚とキノちゃんが同じクラスになった配慮は、壱野先生に聞いた。
「学校がどうしてもつらいっていう子は、雅羽くんだけじゃないから。無理だなって思ったら、素直におかあさんに相談してごらん」
帰り際に壱野先生はそう言ってくれて、俺はうなずいた。
壱野先生は、俺や優瑚だけでなく、かあさんのことも継続して心配してくれている。ときおりふたりがお茶しているのも、別に隠されてもいないので知っている。俺はママの「新しい男」という言葉を思い出し、壱野先生が父親になってくれたら俺は嬉しいんだけどなあ、なんて淡く思うようになっていた。
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