月光の少年-12

教師失格

 夏休みになって、家でだらだらするのも性に合わなかったので、ファミレスの厨房でバイトを始めた。高校生でも、働いたらそのぶん生活保護費から差し引かれてプラマイゼロだけども、やっぱり少しでも自分たちで稼いだ金であるほうが嬉しい。
 厨房での仕事は初めはひたすら皿洗いだったが、それはめちゃくちゃ慣れているし、調理を手伝うようになっても、家事でいつも料理をしてきたので失敗は少なかった。「夏休み限りで辞めちゃうのもったいないなあ」と先輩に何度か言われて、何となく、「学校始まっても手伝いに来れますよ」と言ってしまった。すぐそれは社員さんと店長に伝わり、あっという間に本格的に採用されてしまった。
 初めは学校の合間だったけれど、相変わらず高校は息苦しく、いつのまにか逃げこむようにバイトに励むようになった。学校に行くと言って家を出て、夕方まで働いている日もあった。おかげで給料が妙にはずんで、役所に申告しなくてはならないので全部かあさんに渡すのだが、金額を見て「こんなにいただけるの?」とかあさんは不思議そうにしていた。
 高校から遠ざかっていき、結局俺は、壱野先生に心配してもらっていたのに留年してしまった。担任に呼び出されたかあさんが、最近は穏やかだったのにおろおろと狼狽えているのを見て、初めて自分が悪いことをしたのだと感じた。「バイト辞めて、来年からはちゃんとします」と俺はみずから担任に頭を下げた。
 やっと生徒指導室から解放されると、廊下でかあさんにも謝った。かあさんは首を横に振り、「学校、あんまり楽しくない?」と訊いてきた。俺は口ごもったものの、「友達作れなくて」と自嘲気味に嗤った。かあさんは少し哀しそうな目をしたあと、「高校は行ってほしいって、おかあさん、雅羽に押しつけちゃったね」とうつむいた。
「ごめんね」
 かぶりを振った。以前は執拗に聞いていたかあさんの謝罪を耳にするのは、何だか久しぶりな気がした。あいつではない、俺がかあさんにそう口走らせる想いをさせているのかと、つらくなった。
 空が重たく感じられた冬が明け、陽射しが春めいてきた三学期の終わり、バイトも辞めてしまった俺は、校庭への階段に座ってぼおっとしていた。空の青さは穏やかで、抜ける風はまだひんやりしているのが心地いい。
 来年からは、ちゃんとする。そう言ったけれど、友達ができる自信はなかったし、しばらく離れてしまった勉強についていけるかも不安だった。まともに高校生ができればいいのだけど、それがどうも苦しい。
 どうしたらいいんだろ、とサッカーをする生徒を眺めていると、「一緒にやらないの?」という声が不意に背後にかかって、はっと振り返った。
「男の子は好きだよねえ、サッカー」
 そこにいたのは、白衣を羽織った若い女の先生だった。小柄で、自然なメイクはしていても、童顔な感じだ。俺はまばたきをしたものの、「あ、」と声をもらし、目をそらして「……別に」と続ける。
「あいつらの友達、とかではないんで」
「そうなの? でも、やりたいなら混ぜてくれるんじゃない?」
「いや、ルールよく知らないというか」
「そうなの? サッカーだよ? ワールドカップだよ?」
「え、えと、知らないっす……」
「そうなのか。って、実は私も、ゴールしたら点数が入ることくらいしか分かってない」
「ダメじゃないですか」
「いいんですー。サッカーは試合のときのあの一体感がいいんですー」
 俺は思わず笑ってしまって、「理科の先生ですか」と訊いてみた。すると、その先生は「よっ」と言って俺の隣に座り、「保健の先生です」と俺ににっと笑ってみせた。
「あー、保健体育の先生……?」
「すごいボケだね!? 養護教諭ですよ。保健室にいる先生」
「あ、ああ。何だ。びっくりした」
「びっくりしたのこっちだよ」
「……すみません。あんまり、その、よく分からなくて」
 先生は俺を見つめ、「何かあった?」と首をかたむけてきた。俺はどきっとしつつも、あやふやに咲って、「大したことじゃないです」と目を合わせずに言う。「そっか」と先生は追及せず、俺と一緒に校庭のサッカーを眺めた。
 しばらくそうして並んでいると、「しろちゃーんっ」という女の子の声がして、「おっ」とその先生はその声をかえりみる。
「どしたー?」
「生理来たー。薬ないー?」
「はいはーい。──ねえ、君」
 俺は立ち上がったその先生を見上げた。白田、という名札に気づく。それで「しろちゃん」か。何だかかわいい。
「居場所ないなあって感じたら、いつでも保健室においで」
「え……」
「おいしいゆず茶をご馳走してあげるよ。じゃあね」
 そう言い残すと、しろちゃんは女の子に駆け寄って、一緒に校舎に消えてしまった。
 居場所は──あるけど。かあさんと優瑚と暮らす、アパートの部屋。あるいは、壱野先生が招いてくれる小学校の応接室。たぶん、キノちゃんの家とかだって。
 でも……確かに、学校では、俺は居場所がない。学校に来ると、俺はどうしてもひとりで、さらにそれを教師に責められる。それが、つらい。すごく、つらい。
 二度目の高校一年生が始まった。予想していた通り、周りがみんな年下の中に踏みこんでいくのは、精神的にそうとうきつかった。始業式の放課後、逃げ出すように教室を出て、無理だ、と心で繰り返した。
 行けない。行きたくない。教室は無理だ。笑い声や話し声が何だか怖くて、ひとりだけ新品じゃない制服を着た疎外感に、頭の線がちぎれそうになる。
 何で俺、こんなに普通にできないんだろう。そう思って、泣きたいのをこらえて、下校の生徒が騒がしく流れる廊下を歩いた。まっすぐ家に帰るつもりだった。しかし、そうしたら、明日またあの教室に行かなくてはならない。どうにかそのループから抜け出せないかと考えるうち、俺は保健室の前に来ていた。
 いっとき躊躇ったものの、思い切ってドアを開けた。すると、何人かの生徒と、あの日の先生──しろちゃんが相変わらず白衣を羽織ってそこにいた。「お、今日から二年生かな?」と俺を憶えてくれていたしろちゃんはにっこりしてくれたのに、俺は唇を噛んで、首を横に振ることしかできなかった。
 そんな俺に、しろちゃんは少しだけ真顔になったのち、静かに歩み寄ってきて、微笑んで背伸びすると、「よしよし」と俺の頭をぽんぽんとした。
「よく頑張ってここに来たね。少し休んでいきなよ」
 ──それから、俺は教室でなく保健室に通うようになった。しろちゃんの計らいで、それで出席日数として加算されることにもなった。
 優瑚が眠ったあと、かあさんには頭を下げて謝った。かあさんは慌てたようにかぶりを振り、「そこまでつらいなら辞めてもいいよ」とも言ってくれた。しかし、俺はしろちゃんのことを話して、「たぶん、保健室なら」とおそるおそる言った。保健室登校するぐらいなら、辞めて働いたほうがかあさんのためだろうか。そう思ったけども、「雅羽が無理してないなら、保健室登校でもおかあさんは嬉しいからね」とかあさんは優しい瞳で言ってくれた。
 保健室登校でも定期試験は受けることができるので、俺はもう一度、勉強に身を入れた。壱野先生も協力してくれた。しろちゃんのことを話すと、「いい先生がいてくれてよかった」と壱野先生は安心した様子で咲った。「一番の先生は壱野先生ですけどね」と俺が言うと、壱野先生は照れたような色も見せつつ、俺の頭をくしゃっとしてくれた。
 しろちゃんと保健室のおかげで、俺はようやく通学が重荷ではなくなった。俺がよくしろちゃんの話をするようになったので、「おにいちゃん、その先生が好きなの?」なんて六年生でそろそろませてきた優瑚に言われたりした。「そんなんじゃないし」と俺は優瑚を小突き、そんな俺たちのやりとりに、かあさんはなごやかに咲っている。その日も三人でそんなふうに過ごしながら夕食を食べていて、ドアフォンが鳴ったのは突然だった。
 時刻は二十時をまわっていて、こんな時間に勧誘というのもあんまりないだろう。誰なのか分からず、無視しておこうかとなりかけたとき、かあさんのスマホに何か着信した。かあさんはかたわらにあったスマホを手に取って確認し、やや慌てたように立ち上がって、インターホンは無視して玄関に行ってしまった。
「誰?」と優瑚が首をかしげ、「分かんね」と俺は玄関を覗いてみる。「すみません、いきなり」という声はいつものおっとりした声で、「壱野先生だっ」と優瑚も声を聞きつけて立ち上がった。俺も腰を上げたとき、「雅羽くん、こんばんは」と優瑚と手をつないで壱野先生がリビングにやってきた。
「こんばんは。どうかしたんですか」
 無意識の反射的な質問だったけど、「あ、うん……」と壱野先生は歯切れ悪く答える。
「ちょっと、話が」
「話」
「先生、コーヒー? 紅茶? ココアがいい?」
「優瑚ちゃんが淹れてくれるの?」
「うんっ。あたしはココアが一番好き」
「はは、じゃあココアにしようかな」
「分かったっ」
 優瑚は壱野先生の手を離すと、キッチンに行ってココアを用意しはじめた。玄関の鍵を締めてきたらしいかあさんもリビングに現れ、「すみません、散らかっていて」とかしこまる。
「いえ、急に来たのは僕のほうなので」
「何かあったんですか」
「はい、……あの、ええと──」
 壱野先生は俺を見て、優瑚を見て、かあさんに目を戻した。どこか、その表情は硬かった。
「その、僕の──父がですね。あ、父も教師なんですけど」
 かあさんはきょとんとして、壱野先生の親父、という唐突な言葉に俺も当惑する。
「父は僕の故郷で教師をしてまして、そんなに規模のない小学校なんですが。田舎の小学校で、若い先生がいないんですね。だから、その、よければ実家に戻ってきて手伝ってくれないかと」
 かあさんが目を開き、俺もとっさにそれが理解できないぐらい混乱した。
 それは、つまり──壱野先生が、いなくなる?
「先生」と優瑚がマグカップを置いて、こちらに駆け寄ってくる。
「嘘でしょ。そんなの断るでしょ。先生が行かなくてもいいじゃん。若い先生なんてほかにたくさんいるよ」
 壱野先生は困ったように咲い、優瑚の頭を撫でてから、かあさんを見つめた。
「僕は、その小学校に転任しようかと思ってます」
「えっ……で、でも」
「僕は教師失格なので、頭を冷やさないといけません」
「な、何でそんなこと。先生は立派な先生ですっ。優瑚のことだけじゃなくて、雅羽のことも、私のことまで──」
「でもやっぱり、生徒の保護者に恋をしてしまったんですから」
「……え、」
「これ以上、いい教師の顔をしてあなたのそばにいるのはつらいです。いろんな話を聞かせてくれましたよね。苦しかったことも、それより昔の楽しかったことも。いつまでも、良い話相手でいられたらよかったんですけど」
 切なそうに壱野先生は微笑み、俺は思わず「かあさん」と言って、かあさんの肩をつかんで揺すぶった。その拍子、かあさんは開いた瞳から涙をこぼして、それから大粒の雫をいくつも流しはじめる。壱野先生はそれを見つめて、「ごめんなさい」とつぶやく。
「言わないつもりだったんですけど。言ったとしても、せめて優瑚ちゃんの卒業後だろうって……でもきっと、田舎に戻ったらそっちでお見合いでもして、結婚とかしてしまう──」
「……ないで、ください」
「え」
「行かないで、ください」
 壱野先生は、わずかにかあさんに目を開いた。かあさんはぼろぼろと泣きながら、「お願いします」と震える声で続ける。
「私は、これからも先生と……一緒にいたいです」
 かあさんの言葉に壱野先生はまじろぎ、「そうだよっ」と優瑚は先生にしがみつく。
「あたしたちと一緒にいようよ、先生。何でおかあさんが好きなのに、離れていこうとするの?」
 壱野先生は優瑚を見つめ、それから、ゆっくり俺を見た。胸が震えて俺も泣きそうになりながら、「先生がとうさんならいいのにって、もうずっと前から思ってましたよ」と何とか言う。壱野先生はうつむいて、しばし考えていたものの、ようやく顔を上げて、かあさんを向いた。
「僕と、結婚していただけますか?」
 そう言って、先生はかあさんの手を取る。かあさんはそれを握り返すと、何度もうなずいた。嗚咽で声が出ないようだったけど、必死にこくこくと首を動かして想いを伝えた。
 壱野先生の表情が、やっといつものようにやわらぐ。そして先生は、かあさんだけでなく、俺と優瑚にも「ありがとう」と言ってくれた。
 自然に笑顔と安堵がこみあげ、俺はふたりに「おめでとう」と言うと、自分自身、ずっと欠けていたものがようやく満たされた気がした。

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