「あ、今ここ、『水彩の教室』のリバイバルやってるんだ」
彩雪という区のテアトル街の小さな映画館で、二十九歳で働きはじめて何年か経つ。
話題の最新作なんかぜんぜん上映しなくて、アングラ作品やインディーズ作品を毎日オールナイトで上映している。観客のリクエストに応えた、リバイバルもかなり多い。熱帯夜の今夜も、エアコンの具合は微妙な狭いロビーの受付で、チケットとパンフレットとポップコーンを同時に受け持ちながら、俺はふらりと入ってくる客を待っている。
そんな声がしたので、読んでいた佐々木彰の小説から顔を上げると、そこにはこの天鈴町限定ペーパーの〔こもりうた〕を発行している、陽桜区の物書きくんがポスターを見上げていた。隣には、彼の恋人であるかなりこの街で顔役の男もいる。
「これ、トモキさんの目に留まったんだよな」
「というか、メルが気に入って、トモキさんに見せたみたいだけど」
「この監督、そのときには死んでたんだっけ」
「ちょうど三十歳になってたはずだったって言ってた。それが──何年前かな」
「観てく?」
「ん、観たい」
貼り出している上映スケジュールで、待つのはあと三十分くらいだと確認してから、ふたりはこっちにやってくる。物書きくんは二十代半ば、恋人くんは二十代後半くらいだ。
「『水彩の教室』の大人二枚」
恋人くんがリュックから財布を取り出しながら言って、「了解」と発券をPCに入力しながら、俺は物書きくんを見る。
「その〔こもりうた〕、最新?」
「あ、はい」
「持ってく人けっこういるよ。よければ置いてって」
「ほんとですか? ありがとうございます」
物書きくんは嬉しそうに恋人くんと顔を合わせ、提げていたトートバックから紙束を取り出す。「チラシに混ぜて置いてていいよ」と俺が言うと、彼はポスターを貼る壁の手前のテーブルに〔こもりうた〕を並べにいった。「ありがとう」と恋人くんにも言われ、「いえいえ」と俺は代金を受け取ってから、機械から発券されたチケットを渡す。
「右のスクリーンだけど、たぶんあと十分くらい上映中なんで」
「分かった」
物書きくんが〔こもりうた〕を並べるのを眺めて、恋人くんは俺に向き直る。
「ここ、よく『水彩の教室』やってるな」
「リクエスト多いんで。あと、ここのオーナーが亡くなった監督と知り合いだったから」
「マジか。すげえな」
「一緒に飲んだらよく話してくれる。そりゃあまあ、主人公そっくりのたらし男だったらしいわ」
「そうなんだ。え、あれって実話?」
「ベースになってるのは監督の経験らしい。あの転校生も、男娼の親友も、幼なじみの女もいたんだって」
「あの恋人は?」
「いたみたい」と俺は手元で開きっぱなしだった本を、しおりを挟んで閉じる。
「ただ、恋人だけは自分は面識ないってオーナーは言ってた」
「そうなのか。そういや、主人公って恋人と街に出てるシーンはないな。実際は、やっぱ亡くなるまでそばにいたのかな」
「どうだろ。映画では、何度もアパートの前まで行って引き返して、会ってないよな」
「ラストシーンもそれだっけ。引き返して、人混みに主人公の背中が透けていく」
「あれが自分の死を悟ってるよなー。人混みに混ざっていくんじゃなくて、透けて消えるって。水彩の絵が水で落ちるイメージだったらしいけど」
「へえ。『水彩の教室』だから、タイトルは教室とか学校が意味ないって感じかと思ってた」
「それもあると思う。親友はもともとイジメられてたし、幼なじみも登校拒否だっただろ」
「俺は反発する転校生好きだなー」
「はは、あいつ自由だよな」
笑っていると、物書きくんが小走りに戻ってくる。「置かせてもらいました」と丁重に頭を下げられ、「また置きに来て」と俺はにっこりする。
「ま、そういう奴らとの生活そのものが、あの監督にはうわべの“水彩”だったんじゃないかな」
俺が本を手に取って言うと、物書きくんと恋人くんはまた顔を合わせる。
「あの」
「ん」と俺は落としかけた目を上げる。
「恋人の女の人も、監督さんには“水彩”だったんでしょうか」
首をかたむけてきた物書きくんに、俺は唸りながら、「俺には何も断言できないけど」としおりがあるページをめくる。
「HIV感染して別れて、最後、会わないまま自分で水かぶって消えたってことは、恋人には消えてほしくないものがあったんじゃないかな」
「……そう、ですね。そう思いたいです」
そのとき、右のスクリーンからそんなにいない観客がぱらぱらと出てきた。「どうぞ」と俺が言うと、ふたりは手をつないで軽く会釈して、劇場への廊下へと曲がっていく。
出てきた観客に「ありがとうございましたー」と言いながら、俺は本に目を落とす。佐々木彰のデビュー当時からの長いシリーズ作品だ。それを読んでいると、さっきのふたりと同じように、『水彩の教室』のポスターで立ち止まったカップルが、チケットを買いに声をかけてくる。
『水彩の教室』。たくさんの人の中にいながら、誰も信じられない男。そんな男をひとりで待って、彼を信じている女。
結ばれなかったふたりの物語。
あの映画は、たぶんずっとこんな映画館でリバイバルされつづけ、結ばれたふたりに愛されるのだろう。
何となく、そんなことを思った。
FIN