何も分からない
自分を偽って生きていこうとした頃、俺は外面と内面を切断しようとした。今、咲えなくなっている理由はそれとは違う。勝手に遊離していくのだ。運命に逆らえない恋人同士みたいに、残酷に心身が引き裂かれていく。
原因は、親友だと思っていた賢司に見捨てられたのと、やはり家族も自分を理解してくれなかったのが大きいと思う。俺は家族が大好きだと断言できるような息子ではなかったけれど、こうしてほぼ失った状態に置かれてみると、分かる。とうさんもかあさんも、雪乃ねえちゃんだって、俺の大切な部分にきちんと根づいていた。
みんなに分かってもらえないのが一番つらい。誰に分かってもらえないより耐えがたい。みんなが当たり前にいた場所に、気づくと誰もいなくなっているのは、予想以上のショックだった。引っ越しを機に、置き去りにされたペットみたいだ。
そうやって家族ですら分かってくれないとなれば、俺だって強気ではいられなくなる。やっぱり、自分は汚れているのかも──そんな罪悪感が、黒煙のように立ちこめてくる。
家族にも信じてもらえない自分なんて、どうやって信じればいい? 頬をぶたれて、目を合わせなくなって、口をきかなくなって、焼け出されたような深い喪失感がある。
目の前で真実が燃えていく。大好きなのかはやっぱりよく分からないのだけど、彼らは俺のかけがえのない味方だった。そんな、失くしてはいけないものを、ゲイであるせいで失くした。失くせるはずがないものを、この指向のせいで失った。そこまで嫌悪されるのなら、俺もゲイである自分をどうやって弁護すればいいのか、分からなくなってくる。
家にいるのがつらいなんて、これほどむごい状況はないかもしれない。別にとうさんにはあれ以来殴られていないし、かあさんも食事は作ってくれるのだけど、家の中は明らかに変わった。雪乃ねえちゃんは殺虫剤をまきまくったような息苦しい空気に、髪の毛まで神経をとがらせている。
両親の俺を見るときの目がつらい。自分の息子がそんな──。親がそう思うのならそうなのかもしれないと、だんだん地響きが近づいて不安になってくる。
家にいるのが、申し訳なかった。両親に期待外れの息子の顔を見せるのが忍びなかった。彼らには、俺は失望させる出来損ないなのだ。作ったのを後悔していると思う。でも殺せないからせめて忘れてしまいたいと思う。ちょうど俺が、さまざまな記憶から逃れたがっているように。
大人になれば、ここは出ていくだろう。出ていって、その先で真っ当に生きていけるだろうか。今は非常階段を降りないと意地を張っていても、大人になったらどうせ日常を投げ出すかもしれない。だったら、今降りたっていいだろうに、感覚だけはしつこく凡人で、無鉄砲になれない。振り子が左右を往復しつづけるように、家を出れば学校に行き、学校を出ればこうして家に帰っていた。
前は、帰ってきたら門を抜けるついでにドアフォンを鳴らしていたけど、今はまず玄関に行って、鍵が開いているか確かめる。開いていなかったら、仕方ないので戻ってドアフォンを鳴らす。開いていれば、黙って家に入る。いつしか、そういう何気ないことにも執拗に気をはらい、なるべく家族と顔を合わせないようになっていた。
麻酔を打って痺れが浸透していくように、それが日常化しているけれど、ふと気がついて痛みが走るときもある。
俺は何をしているのだろう。なぜこんなにびくびくしているのだろう。あの、気づくと景色がなくなっていて真っ白な空間にたたずんでいたような虚しさは、かなり頭を愕然とさせる。
今日は鍵が開いていたので、そのまま入った。雪乃ねえちゃんの靴があるから、帰ってきたときのままなのだろう。
庭で洗濯物と芝生にそそいでいた陽射しは、だいぶ南中に近づいていた。
骨に食いこむ荷物に眉を顰めながらも、放り出して物音を立てるわけにもいかない。スニーカーを脱いでリビングのドアの前を素早くすりぬけ、階段に行き着くと門限を破って帰ってきたように足音を殺して、二階の部屋に行く。
俺の落ち着ける居場所なんて、今やここぐらいだ。誰もいないから何も怖くない。自分はやましくないと信じていても、人の前に出ると気になって恐怖心のようなものに駆られてしまう。まあ、誰もいないからときどき余計に深く沈みこみ、狭い死に部屋に閉じこめられているような圧迫感を覚えるときもある。けれどそれでも、ここでは少なくとも何も起こらない。
そっとドアを閉めると、ようやく床にこの荷物を下ろせる。隣に雪乃ねえちゃんはいるのだろうか。音楽でも聴いてりゃいいんだけどな、とあくまでも気配を感じ取られたくない俺は、慎重に荷物をつくえの脇に引きずっていく。
あとで、この大量の教科書と春休みに買っておいたノートに、名前を書かなくてはならない。面倒だけど、部屋にこもる口実になる。何か部屋暗いな、と思ったら、つくえに面する窓のカーテンが閉まっていた。
カーテンを開けっぱなしにして出かけると、いつもかあさんがカーテンを開けていた。勝手に部屋に入られるのが嫌でぶつくさしていたものだが、今はこうだ。
つくえに手をつき、身を乗り出して室内に暖かい春陽を招く。できるだけ、俺の気に障らないよう憶病になったのだろうか。あるいは、俺の部屋に入り、俺のものに触れることに嫌悪感があるのだろうか。
めくれたレースカーテンを引っ張って整えると、堅苦しい制服を脱いで、大きめのパーカーとジーンズになった。テレビとかによると、ゲイはぴったりした服を着るみたいだけど、反抗しているわけではない。この栄養の足りない軆つきをごまかしたいのだ。
ここのところ本当に、レーズンにされたぶどうみたいに、食欲が萎縮している。深刻に悩んでいるのにのんきに空腹になったりすると、そのときはそのときでムカつくけれど。食べたくないってより食べにいきたくないのかもな、とお菓子だって常備していない室内を見渡す。
こんなことになっていなかったら、さっさと一階におりて昼食を取っていただろう。そして、少食ぶる雪乃ねえちゃんとやりあって、かあさんに小言をもらう。そのあとはテレビを占拠してゲームをするか、友達と遊びにいくか──でも、もう、そういうことはできない。
何もすることがない。誰もいないと落ち着くけれど、俺はひとりでどう過ごせばいいのか知らないのだ。昔、内気だった俺は、賢司に出逢う前はこういう時間をうまくやりすごしていた。なのに、どうしてもどうやっていたのか思い出せない。
あの日以来、いつも誰かがそばにいた。こうしてベッドサイドに腰かけていると、引っくりかえしたインクが広がるような沈黙に飲まれて、くだらない考えごとに取りこまれてしまう。
いくら外界を逃げても、内界は逃げ出せないのを思い知る。その事実は、家族の拒絶ぐらい俺をさいなむ。すべてが外因だというのなら、外の世界を逃げ出せば俺の問題は解決されるはずだ。ここに閉じこもれば、何も不安なことはなくなるはずだ。
なのに、こうして悩んでいる。やはり、悪いのは俺なのか。俺に問題があるのか。だから、いくら閉じこもっても、この濡れた綿菓子みたいなべたべたした気分が断ち切れないのだろうか。
軆を崩すと、まくらの匂いにうつぶせ、方向音痴に心を彷徨っていた。隣でときどき物音がする。外では人が通るたび吠える近所の犬の鳴き声、おばさんたちの笑い声や子供たちのはしゃぎ声が駆け抜けていった。
人の話し声が聞こえるとびくついてしまう。俺のことは、近所にも広まりつつあるから被害妄想ではない。おばさんの甲高い笑い声がしたとき、ばさっとふとんをかぶった。
そうして、まくらに突っ伏し過ぎて蒸されたようになった顔をのっそり上げた頃には、少しずつ長くなっている陽もすっかり降りていた。
「柊」
ひかえめなノックと共に、そんな声が聞こえた。寝ていたわけでもないのにぼんやりした目の俺は、首を捻じる。かあさんの声だ。窓が闇を通し、ドアの隙間が廊下の明かりをもらしている。くせのついた前髪を引っぱりながら、ふやけたような脚を床におろしてドアを開けにいった。
「何」
そう顔を覗かせた俺に、「あ」とかあさんは怯えたような笑みを向けてきた。かあさんは、俺と最低限の会話はする。絶交しているのはとうさんだ。かあさんの怯えた笑みに、なぜか榎本を思い出しながら、前髪を引っ張る手をおろしてかあさんを見下ろす。
そう、いつのまにか俺はかあさんの背を追い越していた。でも、かあさんが怯えているのは、それで怪獣に見おろされている気分になるからではないだろう。
「あ、あの──帰ってきてたのね」
「……午前中にね」
声変わりしたせいで、よけい声が横柄に聞こえる気がする。
「そ、そう。気づかなかったわ。ごはんはどうする?」
「あー……まあ、少しなら」
「じゃあ、用意するわね。あと、その──担任の先生から電話があったわよ」
俺はわずかにまぶたをあげても、素直に喜べないときのような、うやむやな笑みに後退って首をかしげる。
「何て」
「柊の力になれるように努力するって。いい先生ね」
「……だといいけど」
そのとき、隣のドアが開いて雪乃ねえちゃんが顔を出した。俺の冷めた答えにぎくりとしていたかあさんは、救われたようにそちらを向く。
「雪乃。声かけようと思ってたのよ」
「だろうと思って出てきたの。あたし、ごはんはいらないわ」
「え。どうして。もう作ったのよ」
「四月なのよ。身体測定があるの。終わるまで蒟蒻ゼリーしか食べない」
「少しぐらい食べないと、軆が持たないわよ」
「持たなくなったとき食べればいいじゃない。今お腹も空いてないし」
「今年は受験生でもあるのよ」
雪乃ねえちゃんは、飛び魚の軌道みたいに弧をえがかせた眉をぴくりとゆがめる。
「分かってるわよ。だからいらいらさせないで」
「でも食べないのも──」
最後まで言わせず、雪乃ねえちゃんはつまらない本を閉じるように、ばたんとドアを閉めた。取り残されたかあさんは息をつき、落ちこんで電燈の映る床を見る。
ドア枠にもたれる俺はその様子を見つめていて、ごく客観的に、可哀想な人だと思った。長女は反抗期、長男は同性愛、夫は娘には気が弱く、息子には勘当同然ときている。
それでも、俺はなぐさめの言葉は言わずに部屋の明かりをつけた。ふと頬にあたった光に、かあさんはこちらに向き直る。
「学校でもらったプリントがあるんだ。それ持って一階に行くよ」
つくえの脇の通学かばんをしめすと、かあさんはよりどころのない笑みとうなずき、「そのあいだに用意しておくわ」とうつむきがちに階段を降りていった。エプロンが蝶結びされたその背中を見送ったあと、部屋に引いて、帰宅したときのままのかばんのかたわらにしゃがみこむ。
俺はみんなを敵だと思っているけど、本当のところ、俺のほうから敵意を抱いた奴なんていない気がする。そちらが敵対してくるので、こちらも心を許せなくなった。かあさんが望めば、俺は別にかあさんの味方になれるのに──そう言っても、きっと喜んでもらえないのがつらかった。
夕食は焼き魚とごはんと味噌汁だったが、ごはんと味噌汁しか食べられなかった。香ばしい焼き魚には、醤油まではかけたものの、胃の半分にはすでに泥水が溜まっている感じがしていた。味噌汁は空にできたが、ごはんも少し残した。炊きたての白い艶めきが目に痛くも、食べすぎると吐きそうなのはどうしようもない。
不安と心配を愁眉に綯い混ぜるかあさんに、「ごめん」と顔を伏せて立ち上がると、二階からパジャマを取ってきて入浴した。
泡を落とした熱い飛沫が飛ぶ肌に、あの裏庭での痕跡をたどる。気味の悪い水痘じみた紫色は薄れたものの、触ると筋肉がこわばっている。こんなに容赦ない痣を負ったのは初めてだ。
イジメられてる奴とかって毎日これが絶えないんだよなと思うと、砂を噛むようなざらついた気持ちになる。人間って、自分の身に受けてみないと理解しないものだ。だから──きっと、ストレートのみんなは、ゲイの俺の気持ちが分からないのだろう。
髪を乾かして歯を磨き、スウェットの裾を引きずって洗面台を出た俺は、はっと息をすくめた。
左手に、和室に入ろうとしているワイシャツすがたのとうさんがいた。やば、ととっさに顔を硬直させ、持っていたドアノブを握りしめる。脇のかあさんに背広を持たせるとうさんも俺を見て面食らったものの、すぐ憎々しそうな渋面になって、無言で和室に入る。そこは、両親の衣装部屋でもあるのだ。
かあさんは俺に声をかけそうになったが、とうさんに呼ばれて慌てて中に続く。引き戸がぴしゃっと閉められ、門前払いを食らったみたいにたたずんだ俺は、絞られた心臓が弛緩してくると、のろのろとドアノブにつかむ手をおろして、ぐったりうなだれた。
歯を磨いたばかりの口の中が、膿がにじんできたようにべたべたしてくる。廃水に冒された魚みたいに身動きが重くなり、喉もなめらかに呼吸を通さなくなる。和室で話し声がしても、聞き取れなかった。素足の指をじっと見つめ、緊張にほてった軆が蒼白に喪心していくのを感じながら、その足を何とか動かすと静かに二階へと立ち去った。
“俺がゲイで、誰に迷惑がかかる?”
親に対しては、言えないのだ。言っていいのか分からない。俺は彼らに対して、子孫を残す義務があるのかもしれない。分からないけど。
ふたりがそれを期待していたのは確かだ。いつかは孫を作ってほしかっただろう。俺の子供を抱く日を夢見ていただろう。雪乃ねえちゃんがいる、と言いたくも、ふたりはそれでは納得しない気がする。俺がゲイだと、親には迷惑がかかるのかもしれない。
家族が関わった途端、あっさり自分の道を信じられなくなってしまう。親が分かってくれたら、かなり自分を信じられていた。だがふたりは認めなかった。
結婚は? 子供は? そんな血を継ぐ人間の義務で責め立てられ、たちまち男を求める男である自分は許されないのかと狼狽えてくる。おそらく、ふたりにはそう訴える権利はあるのだろう。ふたりは正しい。ならば、俺が間違っているということになるけれど──
家にいると、分からなくなる。いったいどうしたらいいのだろう。自分に嘘をつくのも正しいとは思えないのだけど、親を立てれば嘘が正しい。どうすれば、誰も理不尽に傷つかずにすむのか分からない。
俺が何かすべきなのか。周囲が何かすべきなのか。何も分からなくて泣きそうに混乱してくる。はっきりしているのは、俺がゲイだということだけで──果たしてそれは、認められるべき自由なのか、それとも、押し殺すべき悪徳なのだろうか?
【第四十二章へ】
