非常階段-42

自分の底で

 始まった中学二年生は、一度観た映画を巻き戻して観るようなものだった。完成した映画のように経過や幕切れまで同じとは限らないけれど、冒頭はだいたい同じだ。俺はリンチされなかったし、悪知恵の働く嫌がらせもされなかった。しかし、教室中に敬遠されてとまどわれ、疎外されていた。
 西園がクラスにいるし、秘かに久米の触手を警戒していたのだけど、あんがい何もなかった。毎日の視界から消えたので用はないのか、ほかのクラスからイジメにくるのは面倒なのか──たぶんどちらもだろう。彼と西園の親交が続いているのかも分からない。西園はこのクラスでさっさと友達を作り、そいつらと一緒に、電線から人間を眺めるカラスみたいに、俺を遠くから観ているだけになった。
 一年生のときにはいなかった人種もいる。親意なのか悪意なのか、いまいち謎のあつかいをする連中だ。テレビで芸人が男同士のキスをする感覚に近いだろうか。
 残酷なのか剽軽なのか、揶揄ってくる。ただし、俺のそばに寄ってきて、俺自身に向かってはやらない。授業中などに、みんなに向かって同性愛を皮肉った冗談を飛ばす。
「先生、もしそいつがホモだったら、子孫できなくて歴史は変わってたんでしょうか」
 これは、初めての歴史の授業でまずざっと教科書を一読し、歴史上の人物のところをめくっていたときの発言だ。教室は一斉に噴き出し、中年の女教師は眉を顰め、俺は硬直のあまり引き攣りそうな頬をこらえていた。無論笑いそうだったのではない。続いた社会教師の答えには、リモコンで消すテレビ画面みたいに一瞬で消えたくなるほど打ちのめされた。
「その場合は、そもそも親が次男などに跡を継がせていたでしょう」
 それは──同性愛者は、社会に適さないということなのだろうか。子供を残せない人間は、存在の価値もないということなのか。揶揄はまだ続いた。
「ひとりっこだったら?」
「この人には兄弟がいました」
「もし。仮に」
 くだらない心理テストみたいにわずらわしいけれど、こういう奴はいる。相手が答えに困って恥をかかない限り、気が済まない。だがあっさり答えた教師の言葉に、俺は突き刺さるショックを受けた。
「養子を取ったでしょう」
 背中でみんなが忍び笑っているのが聞こえた。完全に畏縮する俺は、ゆでられたみたいな気分だった。頭にのぼる血に軆が芯から燃えて、頬が毒々しいいちごのように真っ赤なのが分かる。
 もしかすると、あのリンチより屈辱的だった。でも何も言えずにうつむき、話が次に移るまで耐えていた。
 あの社会教師は、俺がいるから、そんな質問を飛ばされたと分かっていたと思う。それで、その答えは何なのだ。あれでも気を遣った答えだったのか。ストレートのゲイに対する気遣いとはそんなものなのか。
 あるいは私的に嫌悪していて、私的にあんな答えを述べたのか。その可能性のほうがマシな気がする。だって、あの答えが精一杯ゲイを傷つけないようにしたものだとしたら、ストレートの理解なんてたかがしれていて、俺の未来はあまりにも暗すぎる。
 ようやく言い負かされたと観念したそのクラスメイトは、窓際側の室月むろづきという生徒だった。短髪はさっぱりしていてもちょっと前髪が鬱陶しい、軆つきはしっかりしてきている男子だ。そうつぶれてもいない顔立ちは、実際ふざけるのを好みそうな軽快な感じだ。
 彼がどういうつもりなのか分からなかった。同性愛を嫌悪しているので茶化すふりでそんなことを言うのか、同性愛を普遍視しているので何気なく揶揄にしてしまうのか。後者なら許せなくもないけど、そういう感覚は時世的にまだ早い気がする。しかし一番ありうるのは、何も考えていないということだ。
 彼の仲間はそんな感じなのだけど、絶対俺自身には近づいてこない。俺個人に向かって、同性愛を揶揄うこともない。いつも大衆に向かってだ。やっぱり何も考えていないのかもしれない。彼らには、俺はみんなの笑いを取るちょうどいい道具なのだ。ピエロにされている。そんなふうに考えついてくると、しょせん彼らも俺を侮辱する敵に思えてくる。
 もうひとつ、一年生のときには見当たらなかったタイプは、俺のそばを通るたびくすくす笑う女子のグループだった。あんまり好きじゃない。バカにしているような、媚びているような笑いだからだ。
 けして、女の子だからという理由ではない。でも彼女たちは、俺に敵意があるわけではないらしい。新しいファンシーキャラクターみたいに、興味深く見ている感じだ。でもやっぱ遠くで眺めてるだけなんだよな、と思っていたら、何とこのあいだ話しかけられた。
「ほんとに男の子が好きなの?」
 つくえでぼんやりしていたところで、ドロップスのような甘くて高い女の子の声がした。いきなりの立ち入った質問に動揺して顔を上げると、例の女子連中がいた。
「男同士で愛し合うってどんな気持ち?」
「は……?」
 土足すぎて、思わず表情が崩れる。この日初めて、俺は教室で生徒と口をきいた。
「どんな子が好きなの? かわいい系? かっこいい系? 綺麗系?」
「受けなの? 攻めなの? どっちも?」
「やだ春菜はるな、そんなの訊いてもどうしようもないじゃなーい」
 こういう場面に限らず、男には女の方言が意味不明なときがある。勝手に照れて笑い合う彼女たちが、何を言っているのかも分からなかった。専門用語だろうか。何の? 同性愛の? なぜそんな言葉を知っているのだ。
 たたみかけて注文された店員みたいに、混乱して何も答えられずにいるとチャイムが鳴り、「また今度教えてね」とかにっこり言って、彼女たちは散っていった。
 その日以降、彼女たちのことは、好きじゃないというより何だか怖い。彼女たちが、けっこう俺に好意を持っているのは感じる。理解しているという印象は覚えない。彼女たちは理解しているつもりらしい。何を理解しているのかは謎だ。
 ただ、その理解はおそらく的外れで、その食い違いが、会話を発生させてもちぐはぐにした。彼女たちは、俺がしどろもどろなのは照れているからだとしか受け取らない。その笑顔はまるで褒めちぎって押し売りする商人で、だから彼女たちが何だか怖かった。
 そういう輩が二年生の教室には少数いるわけで、けれど大半が相変わらずで無視の再発であるのも否めなかった。だから、一年生のときと同じように、友達はひとりもいない。とまどう奴はこれからどこに傾倒するか決まっていくのだろう。攻撃するか、潔癖するか、困惑しつづけるか──ありえないだろうが、受け入れるか。
 小学校のとき同じクラスだった奴で、かなり気まずい高杉たかすぎという男子生徒がいる。彼は小学校六年生の夏休み、俺に水着のグラビアを見せた三人の中のひとりだ。
 あの日の夜、俺はあの悪夢を見て夢精した。ゲイと自認した今でも、あの夢がひどい夢であったのは変わりない。胸の中に寄生虫のうごめきを感じるような、あの夜の深く重い衝撃は今でもまざまざと思いだせる。内容自体はともかく、突然あんなのを見たのがショックだった。心の準備も何もなく、交通事故に遭いでもしたようだった。唐突すぎたのだ。そういう面では、あの夢はやはり悪夢だった。
 高杉は、物言いたげに俺を見ているときがある。その目を視界の隅に見つけたとき、彼もあの日を憶えているのだと知って、軆が恥ずかしさに動かなくなった。忘れていてほしかった。
 彼はきっとこう思っている。あのとき、塩沢はどの女の子も選びたくなさそうだった。それはどれも好みじゃないのではなかった。女の子に好みを持つということがないからだった──考えなければいいのに考えて、古典的なアニメみたいに爆薬を飲んで粉々になって死にたいと思う。
 いずれにせよ、教室において、俺が目立たずなじむことのできない異物であるのに変わりはなかった。疎外感は日に日に肩にのしかかってくるし、さりげない差別に遭うたび自分が見くだされているように感じる。さまざまなことが記憶に食いこんで、膿んだ傷口を残していく。
 非常階段は降りない。降りたくない。その誓いを守るのには、本当に必死にならなくてはならなかった。近くになった非常階段で、ぼんやりするときももちろんある。そして教室よりここが落ち着く心に、意志を裏切るようなざらざらした罪悪感を覚えて、情けなくなる。
 偏見する奴らに負けたくない。そうかたくなに思ったのは三月なのに、四月の終わりにはこうだ。
 今も非常階段で手すりにもたれ、下り階段ばかり見おろしている。ここを降りれば、楽になれる。なのに降りない。バカげていると思う。無益な苦しみなんて、糧にはならず一生の枷になるだけだ。
 いったい何のためにここにいるのだろう。ここに来て何が未来のたしになるのだろう。思い出したくもない汚辱が、引っくりかえした砂時計のように積みかさなっていく。でもこの場合、こぼれおちてくる砂は三分間ぶんではなく、無限大なのだ。そう思うと、気が遠くなり、とっとと降りるほうが何もかも俺のためになる気がしてくる。
 いろいろ考えて痛感するのは、自分が弱い奴だということだ。こんなに情けない奴だとは知らなかった。気に食わないならみんなに咬みつけばいいのに、それはできない。だったらこんな場所は捨てたらいいのに、それも怖い。何もかもが怖くて、何も選ばない今に甘んじて、それを正当化する弁解ばかり継ぎ当てている。
 俺は本当に逃げ出したくないのだろうか。もしかすると、自由になれる光を求めて闇を逆走するのが怖くて、迷子みたいに膝を抱えているだけなのではないだろうか。

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