特殊な生徒
中間考査の結果はまあまあといったところだった。しかし、あの一年生の無残な成績と引き合わせると、まあまあなんて健闘だ。中間考査から一週間が過ぎた六月の頭、今生徒たちは担任から個別成績表を受け取っている。
自分の点数が平均点と並べて一覧にされた、短冊みたいなぺらぺらの紙だ。無機質にコンピュータ印字されている。全部平均点を越しているというわけではなくも、高い塔から見下ろすようにかけはなれてもいない。
六時限目の学級活動、この個別成績表が配られ終えたら次は席替えで、教室に抑圧した沈黙はない。窓際側の列で席は離れる弓倉も、午後の陽射しの中、後ろの席の奴と話している。俺は二秒で横目を目の前に持ち上げる成績表に戻すと、無感情な数字を眺めて頬杖をついた。
俺が単純なのだろうか。別に彼に心を許したわけでもないのに、弓倉と接して、俺のいっそ喉を切りたいほど息切れしていた精神は安定しつつあるらしい。確かに、彼に話しかけられて以来、自分の席に孤立して思いつめる時間は減ったけど──
完全に、相手を信じる能力を失っている。MPを使い果した魔法遣いみたいに。この相手は自分を裏切らないと安心することができない。
親友さえ俺を見捨てた。家族すら俺をはねつけた。そんな俺を信じると言われても、どうやって信じればいい? どこかに軽蔑を匕首みたいに隠し持たれていて、不意に突き刺されたら。
漂流した末、たどりつくときもある。大切に想っていた人たちに偏見されていくうち、自分は偏見されて当然だと思いこむようになっていたのかもしれないと。
みんなを信じていたかった感情は、空洞に疼く。けれど、家族や友人たちの気持ちは“それだけ”だったとしてあきらめる。そして、弓倉みたいに「分かる」と言ってくれる人をこれから捜していく。
それが、とりあえず俺の進んでいく道なのかもしれない。
「物好きだな、とは確かに言われるよ」
このあいだの音楽室からの帰り、俺と帰ると言って弓倉はまた友人たちに置いていかれていた。彼の友人は弓倉が俺に接しているのは承知しつつ、彼を敬遠したりはしていない。だが俺を仲間に入れようともしない。そんな仲間から、彼が摘出手術みたいに切り捨てられてしまわないか恐縮する俺に、弓倉は素直にそう話した。
「でも、俺が友達になりたいなら勝手にすればって。自分たちは混ざらないけどって──いや、悪い奴らじゃないんだけどさ」
すんなりした腕に音楽の教科書を抱える弓倉は、苦笑いする。まあ、その友人たちは事情を解しているわけで、わりに弓倉を外したりはしていない。
問題は外野だ。そこには、どうしても軽薄な偏見を持ったり勝手なうわさを放火したりする奴がいる。
「でもさ、そういう巻き添えにビビってたら、君の友達にはなれないじゃん。やっぱ誰かが勇気持たないと」
世話を怠けられるペットみたいな無生彩な俺の目に、弓倉は明るい瞳でにっこりする。彼は前髪を上げているから、よけいそういう印象が強い。
勇気。俺と友達になるにはそんなもんが必要なのか、と思っても、無論口にはしない。自分とは違う弓倉の感覚も感じた。正義感、というか──俺にはそんな強さはない。
「俺が踏み出したことでまた誰かと友達になれたらさ、それは塩沢にとっていいことじゃない?」
屈託ない彼を見つめ、「まあ」と布にくぐもったみたいな声で曖昧にうつむいた。陽の射す廊下では、上履きが行き交っている。普通そこまで思いやって友達になるかなあ、という感想は普通なのか、俺がいじけているのか──「まあそんな深く考えてないけど」という照れ咲いに、顔を上げた。
「俺はみんなみたいに塩沢を偏見しようとは思わないだけ。ま、だからほんと、俺のことは気にしなくていいよ」
弓倉のなめらかそうな額と飾らない瞳を見つめ、一応うなずいておいた。
くじ引きで席が決まると、教室は交差点みたいな混乱に騒がしくなる。小学校のときのようにつくえごとの引っ越しはせず、使う人間とその荷物だけが入れ替わる。俺は中央列の前から四番めの席になった。引き出しの中身をつめた手提げや体操服のデイパックをつくえにおろし、もっとも教師と対峙する範囲の椅子に腰を下ろす。
荷物を引き出しやフックにしまいながら周囲を軽く見まわすと、斜め前が空席だった。今日は欠席も早退もなかったはずだから、千坂の席だろう。以前、雪乃ねえちゃんがいまどきクラスにはひとりやふたり登校拒否児がいるものだと言っていた。まあそういうことだ。俺にはできないことを彼女はやっている。そう思うと、いいよなあ、とやっぱりどこかでは感じてしまう。
弓倉は窓際側の一番前の席にいた。彼以外、今のところ誰と同じ班になっても変わらない。ちなみに、当番などは席に関係なく学期を通してなので、騒ぎが落ち着くと余った十数分は理科の補習になってしまった。
「塩沢くん」
ホームルーム前の用紙の配布の際、前の奴は俺に束を渡すとき、目が合うと気弱な愛想咲いをしてきた。怖がる奴もいるのか、と思いつつまわした後ろの奴は、一年のときにもあったそっけない態度で受け取る。
気まずく疲れる反面、いろいろいるよな、と妙に感心しているとホームルームは終わり、手提げを取り上げていた俺は、そんな声をかけられた。
顔を上げると、榎本だった。今日も黒髪を波打たせてスーツを着ている。いつのまに教壇を降りてきたのだろう。俺の目と重なった近寄りがたい冷淡な目が、相変わらず優しく見えるよう引き攣りをこめて微笑みかけてくる。
「な、何ですか」
そんな笑い方をされると、俺までぎこちなく咲い返してしまう。人懐っこいピエロに、手品で出した花を無理やり贈られたみたいに。
「あのね、今日、このあと時間取れるかしら」
「え。あー、まあ」
「別に悪い話じゃないのよ。その、君の最近のこと聞いておきたいだけなの」
最近のこと。見てないのか、と思っても、まあ教室にはほかにも生徒はいる。前述通り登校拒否児もいる。千坂の登校拒否は一年生のときからの引き続きでなく、四月の終わりにぱったり来なくなったものだから、よけい気になるだろう。例の不良の矢崎もいるし、この人もいろいろ気苦労が多いのだと思う。
「塩沢に何かあるんですか、先生」
ふと放課後のにぎやかさの中から、そんなミントガムを噛んだ息が似合いそうな清涼な声がした。見ると、弓倉だ。
彼は教師の前では学級委員っぽく振る舞うほうで、教師に向かっても気乗りしなければにっこりできない俺には、器用に思える。そちらを振り返った榎本は、窮屈なベルトをはずしたみたいに表情をやわらげた。
「ちょっと話があって」
口裂け女が塗るような赤い口紅が分厚い口は、ほかの生徒に対しては容姿通り冷淡なほうだ。が、弓倉はお気に入りで、そうやってどことなく口調が一オクターブ甘くなる。
「弓倉くんも、塩沢くんに何か」
「いえ、一緒に帰ろうと思っただけですけど」
「友達になったのね」
「まあ、そうですね。──じゃあ、俺、待っとこうか」
弓倉はこちらを向き、「あ」と俺は肩を緊張させてあやふやに首をかしげる。
「いや、その、いいよ」
「長くなる話?」
「少しよ。待ってもらってても」
「でも、弓倉には俺のほかにも友達がいるし。ほんと、いいよ。たまにはいつもの奴と帰ったら」
弓倉はちょっと眉を寄せ、「いいのか」と首をすくめる。
「うん。あの、ほら。俺だって、俺のこといろいろ気にしてもらわなくていいし」
痙攣になりそうな頬をなめして咲うと、「そ」と弓倉は眉をほどいて微笑み、教室を出ようとしていた仲間に急いで声をかけにいった。
俺は息をついて、重い手提げを持ちあげる。「ほんとにいいの?」と気にかける榎本にはうなずき、俺は彼女と一階の生徒指導室に行った。
「よかったわ。堀川先生には、塩沢くんは一年生のときひとりぼっちだったって聞いてたから」
段ボールが囲む部屋は、春先より蒸し暑く、今回は学年主任はいないので俺と榎本が向かい合った。
そう胸を撫で下ろす榎本に、「はあ」と俺はうなずくより首をかしげる。こう至近距離だと、化粧や髪のスタイリング剤の臭いが煙たい。
「それに、弓倉くんなら先生も安心だわ」
廊下で誰かが笑いながら駆けていく音がする。上履きの爪先を見つめる俺は、そうだろうよ、と思っても黙っている。
「少し心配してたのよ。もちろん友達ができるのはいいことよ。でも、友達になったらよけい心配になるような子もいるわけだし」
下を向くまま、俺はあやふやに咲っている。その発言は、さりげなく自分の生徒を差別していることにならないのだろうか。
「弓倉くんは責任感もあるし、人望も厚い子だわ。彼と友達になったなら、きっと今に塩沢くんはクラスに溶けこめるわね」
そう簡単に行きそうもないのは、見ていれば分かると思うのだが、見ていないからこんなふうに面談の機会を設けるのか。俺と弓倉では、俺のほうが引力が強いと思う。
いつだって、物事はできる限り悪くなろうとするのだ。俺が彼に引きこまれるのでなく、彼が俺に引きこまれ、共倒れで流刑になるほうが可能性として高い。でも俺は、榎本の希望的観測に、ただ差し障りなく弱気に笑っておく。
「気持ちのほうはどうかしら」
「え」
「そういう気持ち、まだ消えない?」
榎本のマスカラで松葉みたいになった睫毛の目を見た。ゲイ、であることだろうか。消えるとかじゃない、と言ってやりたくも、どうせ理解されないから、言っても無駄に感じられる。あまり言い張ると、頭がおかしいとも取られかねない。
「……まあ、はい」
「そう。不安ね。でも大丈夫だわ。私や弓倉くんたちと、かならず打ち勝っていきましょう」
そんなわけで、帰り道は思い切り吐きまくったあとのような、げんなりした気分だった。
あの先公は、ぜんぜん分かっていない。俺という生徒が、自分の経歴に残るのが嫌なだけだ。あいつの経歴のためにゲイであるのをやめたりはしない。
そういえば、弓倉はそのへんをどう思っているのだろう。女の子のほうになる、とかいう発言をときおりするし、やっぱりやろうと思えば揺るがせるものと思っているのだろうか。
しつこいけれど、同性愛は遺伝子に組み込まれた深く根ざすものだ。そうじゃない同性愛者もいるかもしれないけど、少なくとも俺は生まれつきだ。
ストレートの奴らだって、異性に惹かれるのはそんな根深いところからの本能だろうに、なぜ分かってくれないのだろう。自分で選んで同性を求めるなら、趣味が変わっていると言われても仕方ないのかもしれないが、俺は自分で決めたのではない。すんなり分かりそうなことなのに、針の穴に糸を通すみたいに、なかなか分かってもらえない。
あんなふうに榎本に面談を求められるのも、嬉しくない。特殊な生徒だなんて思われたくない。俺は普通でいいのに。
梅雨入り前の快晴の風が、頬をすべっていく。
みんな友達と咲っている中で、今日は俺はひとりだ。
都会の雑踏の中で、見分けがつかないような人間になりたい。なのに、学校や家は、何で俺を何気ない存在としてあつかってくれないのだろう。
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