非常階段-52

梅雨は明けても

 まあまあだった期末考査も終わり、残すは夏休みだけとなった学校は、時間をのんびり過ごすようになった。
 授業内容も一学期の復習や二学期の予習で、範囲をかっこまなければならない焦りもない。そして梅雨が明けてぶあつかった雲が開けた向こうには、幕がかかるあいだに一変した舞台のように、夏があった。
 とはいっても、俺がそうのんきに青空とか夏休みを満喫していないのは言うまでもない。下敷きをひるがえしたり、水筒をラッパ飲みしたりするクラスメイトたちの中で、幽霊みたいに浮いている。そして、窓際や非常階段で、頬や髪をぬるい風に撫でられてばかりいる。相変わらずだ。
 夏休みに至っては、来るのが怖いぐらいだ。自分が魔物の生け贄にされる日が近づいてくるように、できれば逃げ出したい。俺を人に預かった爬虫類のペットみたいに持てあます家族と、四十日間も家にこもるなんてどうかしている。
 盆の帰省はどうなるのだ。切れてついにグレるかもしれない。子供がおかしくなるのは、いつだって夏休みだ。夏期講習でもプールの補習でも何でも受けたいかも、と思っても、学校だって別に俺の居場所ではないのか。
 補習といえば、体育ではプールの授業が始まったりしている。昨日もあったけど、ああいった本が流行ったせいで、俺に肌をさらす男共の抵抗感はすごい。何なら、むしろ針ねずみの毛皮でも着たそうな気迫だ。
 授業後の十分か五分の自由時間、脚だけ浸してぼんやりプールサイドに腰かけていたら、いきなり背中を蹴たくられて頭からプールに堕ちた。
 冷たい水圧が顔面を引っぱたいたかと思うと、すぐカルキが染みこんだ水が泥のように口に雪崩れこんできた。塞がった喉に思わず目を剥いたけど、ゴーグルははずしていたから染みた眼球につい閉じてしまう。鼻から頭にあのつんとした痛みが針のように突き抜け、口が吐く泡がくぐもった音を立てて激しく立ちのぼる。どちらが水面かも分からず、手足をスローモーションにばたつかせながら、もう一度目を開いた。
 脚がうようよしていて、よく振ったサイダーみたいな白い泡をたどると、青く透く揺らめきがある。何とか軆を捻って足をつけると、底を蹴って顔を出し、途端俺は水を吐き出してひりつく喉で強く咳きこんだ。
「あーあ、受け身ぐらい取ってよかったのに」
 涙か水に滲む目を上げると、プールサイドに人影があった。ブレる視界には髪からの雫もかかっていて、とっさに何人かは分からない。声で男なのは分かった。
「頭冷やせば、俺たちを盗撮しておきたいのもおさまるんじゃないかと思ってさ」
「ていうか、底に頭ぶつけろよ。そしたら線が治るかもしれないぜ」
 狂った科学者のような笑い声が青空に高くこだまし、「あなたたち!」と女の教師らしき声が鋭くかかった。
「何てことしてるのっ」
「ちょっと足が当たっただけです」
「ふざけないでっ。大丈夫、ええと──」
 水が喉に引っかかって、声なんか出ない。頭が重心を狂わせて、酸欠のようにぐらぐらしている。腕をつかまれるまま、ぐいとそちらに引っ張られて、死体のようにプールサイドに引き上げられた。濡れたコンクリートは、オーブンから取りだしたグラタン皿みたいに熱い。突き刺さる鼻の奥にむせる俺は、胸から痙攣しながら呼吸をつっかえさせた。
「……塩沢くんね。彼のことは私も知ってるけど、何もこんなことすることはないでしょう」
「そう?」
望永もちながくん!」
「あー、はいはい。ごめんなさーい」
「私じゃなくて、塩沢くんに言いなさい」
「えー。悪かったな、塩沢。──ちぇっ、行こうぜ」
 自分の息切ればかり朦朧と響く先で、ひたひたと足音が遠ざかり、俺は柔らかな腕に抱き起こされる。たぶん、女子を担当している体育教師だ。「大丈夫?」と覗きこまれて顔が陰ったとき、「どうしたんですか」とあのだみ声がかかった。
「ああ、東浦先生。望永くんたちが、今、塩沢くんをプールに突き落としていて」
「塩沢……ですか」
「東浦先生からも注意しておいてくれますか。私じゃどうも──」
 骨が抜け落ちたような腕を、焼ける地面に無理に立て、俺は女教師の腕を何とか離れた。
「あ、」
 暴れる心臓に息遣いもおぼつかないが、顔は背けるまま何とか言った。雫が眼前をぽたぽたと落ちていた。
「い、いいです」
「えっ」
「その、言わなくても。平気だから。何も言わなくても」
「でも、一度こういうのを許すとね」
「俺はされて当然だから」
 女教師がはっと息をすくめたのが聞こえた。東浦がどう反応したかは、目だけ動かしても煙たい臑毛しか見えなくて分からなかった。脇では歓声と水飛沫が陽射しに飛び散っている。
 終業が近いのに気づいたのか、東浦はそちらにもう上がるよう声を張り上げた。俺は地面につく手に体重を預けると、折れかかった枝のような膝でよろめきそうに立ちあがった。
「塩沢くん、」
「迷惑かけてすみません。次も授業がありますから」
 そうして俺は、ぶつぶつ言いながらプールをあがる生徒たちに混じっていった。このとき、おかしなもので、真っ先に東浦が怖かった。あいつの前で弱音を吐こうとは思えなかった。意地でなく、やはり恐怖だ。あいつがこんなことを言うか、思うかしそうで、そんなのは耐えられなかった。
 ──お前が悪いんだ。
 ちなみに望永というのは、よく思い出すと、クラスにいる奴だった。確かに彼は、舞田たちがああいう本を広めて以来、俺に娘をたぶらかす男に父親が向けるような険しい目を向けていた気がする。
 そのプールは三時間目の授業で、昼食は非常階段でひとりで取った。そして、やっぱりストレートの男とはそうだろうと思った。プールの男たちは、俺に触れたり見たりされようものなら首を絞めあげかねない敵愾心をみなぎらせていた。
 だいたい、彼らが俺に股間をいじられて感じるわけがない。なのに、今もまたつくえに伏せる俺に、舞田はお花を摘んできたみたいに楽しそうに声をかけてくる。
「ねえ塩沢くん、これ昨日買った奴なんだけど、最高なの」
 溶けかかった蝋のように、どろどろした感じの上体を起こすと、倒れないよう頬杖で軆を支えた。ここは今月の窓際側三番めの席だ。そとは雲ひとつない青に晴れあがり、ステージみたいに日射すこの席はけっこう汗をかかせる。教室は束の間の休み時間ににぎわっていた。
「何で男の子同士ってこんなにかわいいのかなあ。何かね、男子がプロレスとかやってると、どきどきするもの」
 無表情に舞田のしつこいぐらいぱっちりした瞳を見つめた。頬や腕は白パンのようにちぎれそうに柔らかい。すごくかわいいけど、俺はストレートでもこの女には惹かれないだろう。
 つまるところ、彼女たちは室月とかと同じなのだ。俺をおもしろがっている。本の中だけでしか楽しめないと思っていたことが現実に現れ、餌を前にした犬みたいに興奮している。
 でも、俺はそういう本が現実化した幻想ではない。男なのに男に惹かれる人間として生きていくことに、めちゃくちゃ圧倒されて、死にたいぐらい苦しんでいる。
「ねえ、塩沢くんに恋人っていないの?」
「……いないよ」
「ほんとに?」
「俺の周りにはストレートしかいないし」
「えー、でもストレートでも好きなら押すべきよ。ね、ここみたいに──」
「ストレートの男は、女の子とつきあうのが幸せだと思うよ」
 ページをめくろうとしていた舞田は、手も笑顔も止めて俺を見る。その本で彼女たちの正体が分かったあとは、俺はおろおろと混乱することなく、冷めて会話できるようになっている。
「自然だしね」
「……けど」
「俺は無理して愛されようとは思わないんだ」
 君も女に押し倒されたら迷惑だろ、ぐらい本当は言ってやりたかった。が、さんざん傷つけられる俺は、相手を傷つけるかもしれない言葉に臆病になっている。この痛みを人に味わわせるなんて怖すぎるし、それ以上にやりかえされるのが怖い。
「そんなことじゃ、いつまでも恋人できないよ。自分から男の子のほうがいいなんて男の子、いるわけないもの。塩沢くんが男の子も好きになれるようにしてあげなきゃ。ほかの本で言ってたのがあるの。女しかダメだと思ってるストレートの男の子を落とすのってすごく楽しいって」
 俺は彼女を見つめ、虚ろに優しく咲っていた。俺にはそんな残酷な侵略はできない。自分から男のほうがいいなんていう男は──痛みが沼に引きずりこまれるように、じっくり麻痺に染みついていく。
 やはりこの子は俺も、同性愛も分かっていない。分かっていて、そんなことを言えるはずがない。
 そういう本だって、結局は暗に俺たちを否定しているのだ。根っから男同士だとヒカれる。だから、雛形には男女を使う。そして、みんな美少年だ。非現実。確かにそうだ。舞田たちは、同性愛の現実を分かっているのだろうか。
 同性愛者はみんな美しいわけではない。同性愛者はみんな若いわけではない。俺だっていつかは老いていく。そうなったときの俺にも、彼女たちは嬉々としているだろうか。目を背けないだろうか。
 そういう本は俺たちが直面していく現実を切り取り、美しい、受け入れやすいところだけすくいとっている。つまり、観念的なのだ。
 血生臭い現実に、生半可な綺麗ごとは通用しない。俺がとっくに痛感していることを、彼女たちは観念論で踏み躙ってくる。
 オカルトホラーがヒットするようなものでもある。すなわち、ありえないと思っているから楽しめる。どこかでは、全部おとぎ話だと思っている。目の前で男と男が甘ったるい声をあげて絡み合えば、彼女たちは幻滅でもしたような面で、真っ先に嘔吐するのではないか。
 弓倉だけが、俺がそういうふうに思っているのを知っている。夏休みも間近の蒸し暑い帰り道だった。蝉も鳴き出した日で、桜の葉が水中から見るように陽炎に揺らめいている。このあいだのプールについても話すと、弓倉は生徒がざわめく前方にしばらく視線を放った。
「俺がどうかしてみようか」
「えっ」
「ほら、俺って学級委員だし。何なら話合いとかにもできるよ」
「え、い、いや。そこまでは」
「担任に言うとか」
「……それもあんまり」
 こめかみに汗を伝わせ、弓倉の真剣な瞳を弱く見つめる。俺は、できるかぎり目立ちたくないのだ。いつも思っているけど、犯人みたいに顔に光を当てられたくはない。
「うまくできるか分からないけど、抑えてみてもいいよ。塩沢が嫌だと思ってるなら、止めたほうがいいんだ。望永たちのやることがひどくなっても困るだろ」
 視線を足元に下げ、ガムや煙草がなすられて傷だらけの肌のようになったアスファルトに緩く息をつく。まだまばらな蝉の声も、今は途切れている。
「もう、夏休みだし。夏休みのあとも続いてたら、考えるよ。今はいい」
「塩沢」
「ほんとに。今はこうやって弓倉が聞いてくれるのでいい。ごめん、暗い愚痴ばっかで」
「俺は構わないけど。じゃあ、まあ、無理はしないでくれよな」
「うん。ありがと」
 ちょっと咲えた俺に、弓倉も微笑み返したりしているうち、公園も横切ってT字路に着いていた。赤信号にふさがる横断歩道を、太陽にぎらつく車が暑さにいらついている速さで行き交っている。
 しょっちゅう恋人や好きな人について訊く舞田たちは、おそらく俺の好きな奴は弓倉だと思っている。しかし、彼には友情しか感じない。一年前こんなふうに共に下校していた奴相手みたいに、どきどきしたりしない。恋愛感情なんか、止まった時計のように古ぼけてしまった。
 まあ、当座の俺の悩みは夏休みだ。学校にも舞田や望永といった問題があり、それはどうせ四十日間に消滅することなく、冷凍保存しておいたみたいに二学期に持ち越されるだろう。が、今の俺は目前の夏休みのほうが憂鬱でならない。
 かあさん。雪乃ねえちゃん。休日にはとうさん。みんながいる家で、きっとどこにも行かずに過ごし、あの窮屈で息苦しい緊張感に縛られつづける。
 何で俺ってこんな状況にいるんだろ、と砂漠を彷徨うような錯覚に気が遠くなりながらも、青くなった信号にとりあえず弓倉と横断歩道を渡っていった。

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