禁固刑のような
終業式の放課後、一学期で三度目、担任の榎本に面談を申しこまれた。弓倉と教室を出ようとしていた俺は、彼と顔を合わせたあと、生気を失ったたんぽぽのようにぎこちなく首を垂らす。今日持って帰る上履きは、始業式に較べてだいぶ汚れていた。
「ダメかしら」と言う榎本の窺う声に顔を上げ直すと、同じ体重の子供が乗るシーソーみたいに、俺はどっちつかずに咲う。
「別に、話したいこととかないですけど」
「そ、そう。でも一応、夏休みのあいだは会えないわけだし」
「俺、大丈夫ですよ」
「けど、その、夏里先生に聞いてるのよ。プールのこととか」
わずかに息をすくめ、軽い手提げを握りしめながら、まばたきに乗せて視線を床に下げる。夏里、とはあの女子の保健体育教師だ。弓倉はこちらを見つめながら、脇を通る騒がしい女子をよけている。プール。俺は笛を吹くように丁寧に息を吐くと、榎本を見てうなずいた。
廊下では、独裁政権を解放された人々みたいに、早くも生徒たちが歓声で束縛を脱ぎ捨てている。
弓倉とは、靴箱の脇で別れた。友達を先に帰らせてしまったのを謝ると、彼は首を振り、「また二学期にな」と微笑んで、つくだ煮のような人混みに紛れていく。
俺と榎本はおなじみの生徒指導室に行き、段ボールの臭いが蒸し返る中で向かい合った。外の廊下ではよく物音が通り抜けていた。
榎本の口紅は相変わらず生き血のようで、クラスの女の子たちと違い、波打つ髪の長さもそういえば一定だ。
同じ女教師でも、この榎本よりあの夏里がマシだった気がする。あの二十代の女教師は、けっこう俺の気持ちに障らない対応をしてくれた。しかし、残念ながら俺は彼女とろくに接点がない。
それに学校は俺を肯定せず、治そうとしているのだ。生き血を吸い取るように。だから、こういう教師が適任と見るのだろう。
「夏里先生に聞かされて驚いてたのよ。それも、望永くんと坂巻くんなんですってね。そんなことする子とは思ってなかったけど」
榎本の情に欠ける目とか、青竹みたいな背筋が苦手な俺は、前髪に陰って足元を見つめている。昨日の大掃除でここは除外されたのか、そこそこ綺麗になった床や廊下と較べて、黒板に名残るチョークの粉のように、木目にほこりがうっすら積もっている。
「あ、あのね、塩沢くんのほうから私に相談があると思ってたのよ。聞いても放っておいたんじゃないわ」
舌を早まわしに焦らす榎本に顔を上げ、「はあ」と言った。別に何も言っていないし、思っていないのだが。言われて初めて、気になる。
そうだ。なぜ、聞かされてすぐ俺に確認しなかったのか。俺のほうから。本気で来ると思っていたのならおめでたいし、そうでなければ関わりたくないということだ。
俺の笑わない人形のような無表情に、はたいた黒板消しみたいに被害妄想を湧き立てたのか、榎本はいったん目をそらす。そして、バスケットクロスで涼しそうなネイビーのスーツの着心地が悪いように座り直した。
「その、ごめんなさい。私も努力はしてるのよ。それは分かってね」
「……はあ」
「舞田さんたちのことも、きちんと知ってるわ。何にも分かってないってことはないのよ」
だから、そんなことは思っていないのに、言われるとかえって気になってしまう。知っている。ならば、なぜ何もしないのか。いや、実際的には教師に何かされても迷惑だが。地上で櫂を漕ぐような無駄なものでも、努力してもらっている、と感じたことはない。
「でも、そういうのを好むのは舞田さんたちの自由でもあるでしょう。先生が、読むなって制限することじゃないわ」
「……ですね」
「彼女たちも悪気があるんじゃないと思うの。その──あ、塩沢くんがあんまり舞田さんたちを歓迎してないように見えるから。そうよね」
「まあ、はい」
「塩沢くんが、舞田さんたちに嫌な気持ちがあるのは分かってるわ。ああいうかばわれ方は嬉しくないって。でも、あの子たちも厚意だと思うのよね。塩沢くんのほうが分かってあげてほしい、って先生は思ってるんだけど」
榎本の死角のつくえの陰で手を握りしめる。黒いスラックスの上で血管が蒼い手は、敵の気配に畏縮した動物のように硬く震えている。
頭では言われなくても分かっている。気持ちはそう簡単にいかないのだ。小利口な悪ガキに対し、子供だからといって許せないと感じるように。
「望永くんたちも、塩沢くんにとまどってるんだと思うわ。まだ浸透してることじゃないし。普段、仲のいい子じゃないわよね」
「はい」
「だから、塩沢くんを信じるのが、ちょっとむずかしいってところがあるのかもしれないわね。本当に乗り越えて治せるのかって」
尾行相手の視界から身を隠す探偵のように、反射的にまぶたをおろし、瞳がじかに傷つかないよう守る。
「でも、治ってみせれば何も言われないし、されないわ。ね。望永くんも坂巻くんも分かってくれる。だから、塩沢くんは自分を変えていくことに専念してね。必ず治るのよ。そう、だから舞田さんたちがちょっと嫌なのよね。治そうとしてるのに、そのままでいればいいなんて。そのままでいて苦しむのは、塩沢くんなのにね。何なら注意してもいいんだけど、分かってくれるかどうか。まあ、あの子たちの言うことは気にしないで、塩沢くんは自分を戻すことを考えていればいいのよ。先生もそっちのほうを手伝いたいと思ってるの」
隣の部屋が聞いているラジオみたいに、聞こうと思えば聞けるけどうるさいから、極力聞こえないふりをした。治る。変わる。戻す。喉に蛇が絡みついて、きつく絞めあげてきているようだ。そういう言葉は聞きたくない。
「もちろん、望永くんとかの問題も考えてるわ。治るまでは仕方ない、なんて言えるものでもないものね。ちゃんとやっていくつもりよ。先生を信じて」
神を信じるほうがマシに思えた。とそのとき、ひかえめなノックが割りこんで、首を捻じって榎本は顔を上げる。ドアを開けたのは、見憶えのあるほかの学年の男の教師だった。
「すみません、お邪魔でしたか」
「いえ。何でしょう」
「千坂さんのおかあさんがいらしてるんですけど」
「え、千坂さんの。あ、すみません。すぐ行きます。じゃあ、その、塩沢くんはそういうことで。二学期にもきちんと学校に来てね」
榎本を淡白に一瞥し、言いたかったのはそれか、と納得してうなずいた。千坂みたいな登校拒否児は、ひとりでじゅうぶんというわけだ。
ご心配なく、と思いつつ用紙と成績表だけの手提げを取り上げる。俺には登校拒否なんて度胸はないし、そもそも家にいればいいという問題でもない。俺は家でだって、教室と同じようにチキンライスのグリーンピースみたいにはじかれている。
学校を一歩遅れて解放された俺は、蝉が鳴き散らす桜の木陰を抜け、商店沿いの坂道をのぼっていた。この商店沿いが終われば公園で、横断歩道だ。
急すぎるラストで幕切れる映画みたいに終わった面談に、あたりにはまだ制服すがたの生徒たちがわりと見当たる。早くも私服で涼しげに自転車で坂道をくだっていくのもいる。
南中に忍びよる日射しは、じりじりと強く、その下にいるだけで水分はむしりとられて全身をべたつかせていく。気だるい空気の季節感は、これまで過ごした夏を漠然と思い出させた。
今年の夏は、いつもの夏とは違う。家族にゲイだと知られて、初めての夏だ。夏休みは四十日間で、俺はその四十日間をいったいどう過ごすのだろう。分かりきっているけど、分かりきっているから耐えられそうになく、びっくり箱を飛び出る首みたいに変なほうへ切れてしまいそうでもある。
非常階段は、学校だけにあるわけではない。家にいたって降りることはできて、家で“もう降りたい”と感じるのはかなり動力になりそうな気がする。
負けたくない。心から思っているのに、震災が絶対倒れないと言われていた建物をも粉砕するように、感情は俺の意志を執拗に揺すぶる。
分からない。負けたほうがきっと楽なのだ。だけど、負けて後悔しないと言い切れないから、逃げるのが怖い。溶けるアイスみたいに流れる汗を拭い、まあ思い出したくもないことになるのは変わりないんだろうけど、と曇るため息を引きずり、四十日間の禁固刑に向かっていった。
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