非常階段-56

容赦ない排斥

 学校のトイレの悪臭がする。手探りで冷たいタイルをたどって蛇口をつかむと、いっぱいに水を出して、滲む目を抑えながら洗面台に身をかがめた。
 小鳥たちがついばんでいるみたいに、眼球が痛い。右手は無意識にきつくレバーを握りしめていて、左手が不器用に温い水をすくう。俺はそれをつぶれた目の中に投げこみ、何とか痛みを洗い流そうとした。
 背後に騒がしい足音が近づいてきて、それがそばのトイレの入口に駆けこんできた途端、俺はびくっと硬直する。
「塩沢」
 けれど、その焦った声で胸騒ぎはやわらいだ。弓倉の声だ。足音は俺の右脇で止まり、泣いていないと言い張る子供みたいに目をこする俺を、気配が覗きこんでくる。
「あ、こすっちゃダメだ」
 でも、痛みが取れない。それに目を開けて見ないと、弓倉じゃない奴に揶揄われているのではないかと怖い。
「ゆっくりすすぐんだ。あいつらは来ないよ」
 俺の手をなだめる声は、とりあえず、誰かが弓倉を真似ているというのではなさそうだった。涙を溜める目をつぶるままうなだれ、こわばった右手をレバーからほどく。
 まぶたの中で、トゲが転げまわっているようだ。血が通っていくみたいに、冷たさを通しはじめた水を両手に溜めると、そこに顔を埋めて、できるだけ睫毛で水中を切った。
 二学期が始まって、三週間が経とうとしていた。冬眠後の熊みたいにしばらくぼんやりしていた生徒たちは、そろそろ観念して学校生活に順応しつつある。
 毎日うだる青空が続き、残暑は真夏に生き写しだった。そして俺への周囲の態度は、夏休みをさしはさんだ名残もなく厳しい。
 俺をプールに突き落とした望永と坂巻が、一年生のときの久米たちの位置につこうとしていた。九月の席替えで望永とは席が前後になってしまい、それが彼の安全装置を抜いたらしい。
 彼が前で俺があとなのだが、用紙配布のとき汚したり丸めたりして渡してきたりする。後ろにまだ三人いる俺は、汚れたのを取らないわけにはいかないし、まとめてつぶされた場合は背中からの怨みがましい眼に耐えなければならない。
 引き出しの口にカミソリの刃を仕掛けられていて、腕を切ったこともあった。虫の死骸とか教科書を破るとか、一年生のときやられたのもあった。そして今日は呼ばれて思わず顔をあげた拍子に、眼に鋭く何かを投げつけられた。
「ごめん、塩持ってくるの忘れたんだ」
 たまねぎの汁でも投げつけられたのかと思った。違う。思わず目を抑えると、頬骨がざらついたから、砂だ。傷口に血があふれるように痛みに涙があふれてきて、無意識に目をつぶるまま立ち上がって、つくえを離れようする。
 だが、足を引っかけられてつまずき、転びそうになって誰かのつくえにぶつかった途端、強く肩を押しのけられた。何とか薄目を開け、嫌悪感を滲ます眼だけ見る。何も言えない。ただ、湿った睫毛に霞むかぼそい視界で教室を出た。
 行き交う生徒にふらふらとぶつかって、口々に文句を投げられながら廊下を抜けていく。たどりついたトイレの洗面台のタイルに取りつくと、ひりひりと泣き出す目をつぶった。そして、トイレのつんと饐えた臭いにもっと眉を顰めながら、こうして瞳をつんざく針を洗い流そうとしている。
 けれど、なかなか取れない。タイルに打ちつける強い水音の向こうにチャイムが聞こえる。次は四時間目で、理科だったと思う。担任の授業だ。弓倉が気にして身動きしたのが、水音に紛れた衣擦れで分かった。
「いいよ」
「え」
「授業行っても」
「え、でも」
「俺はまだもうちょっと洗ってないと」
「保健室行くだろ」
 弓倉に顔を上げたが、目は開けられない。前髪が落とす冷えた雫が、手の中の池に跳ね返るのが聞こえる。
「行ったってしょうがないよ」
「目薬ぐらいあるよ」
「洗っとけばいい」
「誰にも言わないとひどくなるだけだぜ」
「誰かに言ったら一気にひどくなるんだ」
 ややいらだった語調を使うと、弓倉は花がつぼみに戻るように黙りこんだ。それで不安を感じた俺は、うつむいてまばたきを試しながら言う。
「ごめん」
 衣擦れが聞こえたけど、彼が振り向いたのかそっぽを向いたのかは分からなかった。まだ目は痛み、何度かカルキっぽい水を顔にかけたあと、失明が治った人のようにゆっくりまばたきする。半眼ぐらい開けるようになって、隣を見ると、そばにいるのは確かに弓倉で、こちらをじっと見つめていた。
「あいつらを許すわけ?」
 蒼ざめたタイルを見、目の前の黴みたいな染みにくすんだ鏡を見る。前髪も睫毛もびっしょりで、白目が真っ赤に潤んでいる。肩から息を吐き、インクの足りないペンみたいにかすれた声を出した。
「みんなは、向こうを許すだろ。俺はこうされて当然だって」
「塩沢──」
「みんなが弓倉みたいに分かってくれるわけじゃない」
 水道口が発狂した悲鳴のように水を吐き出している。俺はとりとめのない指先でレバーを上げて、水を緩めた。
 腰をかがめて手に水を溜め、もう一度、コンタクトレンズをつけていた目を洗うみたいに水中で目をすすぐ。そしてまばたきを繰り返すと、ようやく視界ははっきりしてきた。が、目の奥に痺れのような違和感は残っている。
「まだ痛い?」
「ん、まあ。砂、だよな。塩?」
「たぶん砂。塩なら溶けそうだけど」
「まだ残ってる」
 こすろうとすると、弓倉が素早く止めた。
「目に傷が入る」
 彼を一瞥して素直に手を下げると、流れつづける水道を見下ろした。そっとレバーを上げ切ると、水はひと雫落として止まる。くぐもって咳きこむ排水溝に水が吸いこまれていく。
 前髪を絞ってかきあげると、手はシャツの裾でぬぐった。弓倉を見ると、彼も俺を見ている。感情はまだ麻痺していたが、俺はわずかながら笑みを作った。
「来てくれてありがとう」
 水音がなくなると、タイルに声が響くのに気づいた。弓倉は首を振ると、俺の肩を出口へとたたく。
「ほんとに保健室行かない?」
「ああ」
「じゃあ、次、理科だよな。担任か」
 歯医者に行ったあとみたいに、制服にこの濃い水の臭いが染みついていないか気にしながら、トイレを出る。教室が並ぶ廊下は、始まった授業にすっかり長く伸びて静まり返っている。今日の理科は、教室だったはずだ。足音を殺し、弓倉と奥まった自分たちの教室へと向かっていく。
 風通しのためか、廊下の窓はいくつか開けられ、午前の日射しをじかに通していた。通り過ぎる教室にも、窓を開けているところがある。そこから教師の声がもれて聞こえたり、足音を聞きつけてこちらを向く廊下側の席の生徒がいたりした。弓倉に合わせて何気ない歩調を気取りつつ、俺の足はぬかるみにはまったように重い。
 目が痛いあいだは、そんなのは感じるヒマもなかったが、みんなの前に帰るのは恥ずかしい気がした。目をつぶされ、つまずいて転びそうになり、あれこれにぶつかりながら出ていった。どうしてこんなに、教室で恥をさらしてばかりなのだろう。榎本を思い返すと、気分はよけい陰ってくる。
 冷酷そうで、的外れで、一学期のときからあんまりいい教師だとは思っていなかったが、せめて堅物っぽさはあると思っていた。そんなのが本気でも困るが、まあ、本気で俺を治したいと思っていると。
 もちろん、堅物なんていい要素ではない。けれど、教室で生徒が生徒を攻撃をすれば、迷惑なぐらいわめきたてそうな教師だとは思っていた。違ったようだ。印象を老朽化した壁みたいに崩しながら、思えば一学期、榎本はしょせん口だけだったと気がついたりしている。
 弓倉が閉まっていたドアをすべらせた。すると、木の枝に化けたナナフシみたいにひたと教室の空気が止まり、言い知れない視線がこちらに集中する。さすがにちょっと臆する弓倉が先に入り、熱が出そうな顔を伏せる俺が続く。マシになったはずの目が、何だかずきずきしてきて、やっぱり保健室に行けばよかったかと後悔が走る。
「あ、あら」
 榎本の声は、トーストの焦げめをマーガリンでごまかすぐらい白々しかった。
「弓倉くん、塩沢くん。授業はもう始まってるんですよ」
 頬に当たる視線に気まずく床に顔をそむけ、弓倉は一度俺を振り向いたあと、榎本に向き直る。教室は無言で、その冷めた無関心が酸素を吸い取っている。
「何か用事があったんですか」
 ぱた、と足音が一歩近づく。嫌悪や憐憫が綯い混ざった視線に、湿った前髪に隠れて窮屈にうなだれる。衆目の中、自分を炙る炎の前に立った罪人もこんな気分だろう。発熱のあまり、背骨に幽霊の指先が伝ったように冷たい汗が浮かぶ。後退りたいめまいに吐きそうになってくる。
「ふたりで何かしてたんですか」
 これは、榎本はまじめに言った台詞だったのだろうが、何人かの生徒が過敏な深読みで噴き出した。そして、それでなぜ笑えたのかが伝染し、窒息を逃げ出すように教室は一気に笑いに乱れていく。榎本もはっと口をつぐみ、俺も頬を唐辛子が飛び散ったように燃やした。
「ち、違いますよっ。そういう意味で言ったんじゃありませんっ」
「そういう意味ってどういう意味ー?」
「室月くんっ。もう、やめなさいっ。静かにっ。授業中なんですよっ」
 それでも嫌がらせのように笑いはやまない。弓倉がどんな顔をしているか、怖すぎて見ることができなかった。まだ痛みにこわばる目をつぶると、榎本への逆怨みが体内を疾走する。
「静かにしなさいっ。あ、あら、塩沢くん。服が濡れてますね」
 無神経な爆笑に困惑しつつ、榎本は目を留める。目を開くと、確かに胸元に水痕があった。
 だが、俺は唇を噛んで何も言わない。言ったところで、教師を味方につけたと言いがかりをつけられ、イジメが加速するのは分かっている。
 そもそも、この女教師が味方にならないのも分かっている。二学期に入り、こういう明確な侮辱が始まり、榎本のすりむけていく化けの皮を俺ははっきりと見ていた。
 彼女は、いざとなると毅然とした態度を取れない教師だった。一学期のあいだは、俺がされていたのはほとんど無視で、悪意が漠然としたすがたしか取らず、注意しにくかった──ということにしておけた。でも今学期に入って、手提げの持ち手を切られたり、教科書にマジックで落書きされたりしている。誰がやっているのかは、教室じゅうが知っている。しかし、榎本は望永と坂巻に声すらかけなかった。
 口だけだったのだ。俺が何をされても、ろくにかばってくれない。体育の授業でつまずかされ、俺の頬に絆創膏があったときには目を合わせようとしなかった。おとといの帰りのホームルームにせめて実行した非難も、かなり心許ないものだった。
「あの、みなさん……みんなで、ひとりの人を攻撃するのはやめましょうね」
 ささめいた生徒たちは、そばの席の奴と顔を合わせ、ふと皮肉っぽい笑い声が混ざる。坂巻の声だった。
「それって何のことですかー、先生?」
 すると、みんなそれに乗っかって奇妙に咲い、俺だけつくえにうなだれるふりで榎本の反応を見据えていた。続いた言葉で、俺は彼女を見切った。種の切れた動物を食用に殺すように。
「いえ、その、何か起こる前に言っておこうと思っただけです……」
 何もかも、体裁のいい嘘だったのだ。治すという約束さえ。すべて、偽善だった。教師として生徒を軽蔑するわけにはいかない保身だった。彼女は否定するだろうが、何とか笑いを鎮めるともう深く訊かず、俺と弓倉を席に戻して授業を再開するような態度に、信頼なんか見出せない。
 授業が終わる頃には、だいぶ目の中はイガを鎮めていた。心の中は閉めきった部屋のように薄暗くて、時間が経てば済むものではなかったけれど。
 望永のがっちりした背中を見たくなくて、水中に押しつけて溺死させるみたいに、視線を手元に抑えつけていた。
 カッターかナイフの傷口が入った教科書やノートを重ね、それらを持ち手は不器用に継ぎ合わせた手提げにしまう。
「先生っ」
 そのとき、昼食時間にやわらぐざわめきに聞き憶えのある綿菓子みたいな声がし、ぴくりと腕をこわばらせて、かがめていた軆を起こした。
 舞田の声だった。彼女はなびく髪と仲間を連れ、教室を出ようとしていた榎本を呼び止めている。窓際側の列にいる俺は、夕食の支度の匂いに嫌いな食べものの臭いを嗅ぎつけたように、嫌な予感を覚えながらそれを見守る。すると、かたん、とつくえに音が伝わって俺はついそちらを見た。
 望永の椅子が俺のつくえに寄りかかっていた。彼は刈りあげの後頭部を向けるまま、こちらは見ない。が、そのすりつぶした苦い声は明らかに俺に向かっていた。
「女を味方にするなんて最低だな」
 息をすくめ、静脈に氷水を注射されたように全身が冷たくなる。喉を殺して顔を伏せた。
 あいつらが勝手に味方面してるんだ。言いたかったけど、そう言って立場が悪くなるのは俺だ。無論、そうだな、なんて肯定してもバカにされたと彼は感じて胸倉をつかんでくるだろう。
 俺は底なし沼にはまってしまったのだ。もがくほど沈む。何をしても悪意に解釈され、こうして無反応でいるほか、マシな防御策はない。
 あんなふうに笑われた弓倉が、俺と昼食を取るかは怪しかった。分かっていても、声をかけられなかったらつらそうで、はなから彼が声をかけられないようさっさと弁当と水筒をつかんで教室を出る。前の入口には舞田たちが溜まっているので、家出みたいに素早く後ろのドアから抜け出して、非常階段にもぐりこんだ。
 日陰で涼しいのに、相変わらずここは誰もいなくて落ち着ける。錆びた階段に腰をおろした俺は、魔法瓶の水筒を脇に置いて膝に弁当を開いた。いつのまにか乾いた髪や、破裂しそうに熱かった頬を、九月の下旬で軽くなってきた風が撫でていく。
 とはいえ、仰ぐ空はまだまだ真っ青で暑そうだ。淡い雲がレースのようにかかり、空の青さを柔らかに透かしている。
 こんな二学期が始まって、痛感していた。結局俺は、ここで誓った通り、自分で自分を守るしかないのだろう。自分でぐらい、自分をかばってやる。
 そしてそのためには、傷が入って回線がばちばち火花を立てていても、無表情に向かってくるサイボーグみたいにならなくてはならないのだ。せめて表面上だけでも。
 傷を痛いと感じていたら、キリがない。自分を信じ、非常階段は降りないのなら、無感覚にならないととうてい生きていけない。

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