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将来を思って

 そういえばあの写メを聖樹さんに見せていない。駅に着いて、最寄駅への電車に乗った僕は、ケータイを開いてあの写メを表示させ、隣に座る聖樹さんにさしだした。受け取った聖樹さんは、「すごいね」と眼鏡越しに微笑む。
「僕はケータイでこんなに綺麗に撮れないよ」
「うん。いつか梨羽さんにカメラ持ってほしい」
「バイトしてプレゼントしてみる?」
 咲った聖樹さんに僕も咲ったけど、ケータイをポケットにしまいながら、ちょっとまじめに「聖樹さん」と呼んでみる。
「ん」
「あの、僕、少し考えてることがあって」
 僕の神妙さに聖樹さんは首をかたむけ、「うん」と真剣に聞いてくれる。がたんごとん、と乗れる普通電車は、平日の昼下がりのせいか、乗客も少なく静かだ。
「バイト……とか、は、僕はたぶんまだ無理なんだけど」
「あ、ごめん。冗談だよ」
「ううん。いつかはしたい。でも、その前に、高卒かなって」
「高校?」
「一応、去年入学した通信制高校があるよね。あれって、退学になってるのかな。ずっと行ってないから退学してるかな」
「確か八年間は在学できるから、在籍してるよ」
「じゃあ、僕、高校に行ってみようかなって思う。ちょうど、四月だし」
「……大丈夫?」
「このままじゃ、引きこもりと変わらないし。じゅうぶん休ませてもらったと思うんだ。だから、今度は頑張りたい」
 僕に瞳を見つめられて、真剣さを感じ取った聖樹さんは、「そっか」と僕の頭をくしゃっとしてくれた。
「うん。頑張っておいで」
 僕は照れ咲いして、うなずいた。聖樹さんは、出逢ったときから、その穏やかな瞳で僕を受け入れて見守ってくれる。それは、僕をすごく勇気づけてくれる。
 電車はひと駅で降りた。その町は、僕と聖樹さんが出逢った街より少し北にある。
 僕が正式に鈴城萌梨になって、僕たちは引っ越しをした。聖樹さんが、悠紗にも僕にも、自分の部屋がそろそろ必要だろうと気遣ってくれたのだ。聖樹さんの通勤時間はちょっと長くなってしまったけど、以前より地域的な町だ。
 駅前には商店街があって、僕と悠紗はよく一緒に食材の買い物に来ているので、顔を憶えられている。特に悠紗はソフトクリーム屋が気に入っている。休日で聖樹さんがついてくると、精肉や八百屋のおばさんたちが喜ぶので、僕たちは楽しくて笑ってしまう。
 お花見をした広い公園と車道のあいだの歩道を抜けると、戸建の家並みに混じってマンションが建ち、駅から十分くらいで煉瓦色の現在暮らすマンションにたどりつく。
 以前のマンションには、最上階にXENONの部屋もあったのだけど、あまりにも帰らないのと僕たちがいなくなるので、みんなはそこを引きはらってしまった。今、あの四人はたぶん住所不定で、全国のライヴハウスを転々としている。
 前のマンションも、このマンションも一番階下の二階だ。部屋の前に着くと、ギターの生音が聴こえてきた。
 聖樹さんが鍵を取り出してドアを開け、僕を先に通してくれる。僕は家に上がって、「ただいまー」とギターの音に負けないように言った。すると、音がやんで、リビングへの廊下に面しているドアのひとつが開く。
「おかえり!」
 にっこりとしたのは、弟の悠紗だ。外国のバンドTシャツに色あせたジーンズを合わせ、短いと聖樹さんみたいに童顔に見られるという理由で、艶々した黒髪は伸ばして後ろでくくっている。九歳で童顔を気にしてもなあと聖樹さんは息をつくけれど。
「ギター弾いてたの?」
「紫苑くんから新曲の楽譜来たんだ。けっこう激しめ。スタジオでー、アンプつないでー、やりたいなー」
 暗にスタジオ代をねだる悠紗に、鍵を締める聖樹さんは苦笑して、「悠のお手伝いは増えるよ」と言った。
「萌梨くん、今年から高校行くそうだから」
「えっ、何で? 行かなくていいじゃん」
 眉を寄せる悠紗に、「悠はそうでも、萌梨くんは違うんだよ」と聖樹さんが言って、僕も靴を脱ぎながら言う。
「悠紗は音楽があるけど、僕は何にもないし。高卒くらい取ろうかなって」
「ふうん。あ、それで俺にいろいろまわってくるのか。いや、いろいろというか昼間の家事は全部?」
「あ、萌梨くん、そのへんはどう? 確か、毎日開校してるみたいだけど。大学みたいな感じらしいから」
「大学……って、どんな感じなのかな?」
「自分の受ける授業がある日にだけ行けばいいんだ。あと、試験の日ね」
「いきなり毎日は無理かも」
「そっか。じゃあ悠、まだ毎日全部ではないよ」
「よかった。ギター弾くヒマなくなったら意味ないしなー。あ、じゃあ、俺これ練習するっ。更新のこと、また聞かせて」
 悠紗は挙手してばたんと部屋に引っこみ、僕と聖樹さんと顔を合わせた。
「あの子、子供の頃のほうが落ち着きあったね」
「だね」
「ほんと、葉月あたりに似てきた」
「沙霧もちょっとあるね」
「もっと成長したら、要も来そうだな。まあ、あのふたりがそういう方面は教育してくれるか」
「あのふたりでいいの?」
 思わず苦笑すると、その苦笑は聖樹さんにも移る。
「まあ、僕たちを気にすることも、あのふたりなら知ってるから」
「そっか」
「リビングの共用PCで変なサイト見てたら、さすがにしかろう」
 僕は噴き出し、「そのときは僕もしかるようにする」と言って、悠紗の部屋のドアよりひとつ奥のドアの前で立ち止まる。
「少し休んでいい?」
「もちろん。僕は高校にもらった資料出してみるよ。確か僕が持ってたから」
 こくんとした僕はドアを開け、自分の部屋に入った。
 朝に開けたカーテンで、窓は春の陽光をいっぱいに吸いこんでいる。室内だと風がないから、暖かさもあった。以前のマンションより人の声や車の音がよく通り過ぎていくけど、気になるほどの騒音ではない。右の壁がクローゼット、正面が窓とつくえ、左にライムグリーンのベッドがある。
 ベッドサイドに腰をおろしてそのまま倒れこみ、ギターの音色を聴く。力を抜くと、僕の匂いがする。あの頃、僕だけ違った他人の臭いは、今では僕もなじんだ家族の匂いになった。
 今日も、ちゃんと受理されてよかった。みんな、僕は聖樹さんに引き取られて当然だと言ってくれる。僕もそう思う。でも、やっぱり僕が臆病なのは変わらない。自信もないし、強くもない。簡単に流されてしまう人間なのは同じで、更新の前の日などは常識の空耳で眠れない。
 僕はずうずうしいのではないか?
 聖樹さんの負担ではないか?
 やはりあの街にいるべきでは──
 あんまり怖くて、泣き出してしまうときもある。けれど、あの頃の僕はその涙を必死にごまかしていた。今は聖樹さんの寝室に行ってみて、声をかけてみる。聖樹さんも眠っているときは敏感だから、いつも目を覚ましてくれる。僕の涙を見ると身を起こし、僕はベッドサイドに座る。
「夢?」
「………、僕は、聖樹さんに甘えてない?」
 いくら唐突なことを言っても、聖樹さんは笑ったりしない。裸眼なのは、眠っていたからではなく、外出のときのみ伊達眼鏡だからだ。
「どうして? 僕のわがままで萌梨くんを引き取ったのに」
「でも、僕なんか出てこなかったほうがよかったのかも。それか、今からでも死ぬとか──」
 聖樹さんは、優しい瞳で僕の頭を撫でた。僕の頬にはいつのまにか涙が伝っている。
「僕に出逢いたくなかった?」
「違うよ。逆だよ。聖樹さんと悠紗が大切なんだ。すごく、大切で……だから、巻きこみたくないよ」
「萌梨くん」
「僕がここにいたら、お金とか、前のところでのこととか、更新とか、たくさん迷惑ばっかりで」
「それでも、僕たちは萌梨くんが大好きだよ」
 鼻をすすりながら、聖樹さんの瞳を瞳に映した。僕は、聖樹さんで初めて、人の目を怖くないと思った。
「悠紗も、沙霧も、とうさんもかあさんも。あの四人だってね。お向かいの湯村ゆむらさんも、商店街の人も、役所も保健所も、警察だって。みんな、今の萌梨くんを大事に想ってる」
「……僕は、生まれてきてよかったのかな。あんな……の、されて、生まれなかったほうがよかったのかも」
「萌梨くんは、僕たちのために生まれてきたんだよ。生まれてきてくれてよかった。出逢ってくれてよかった。もう心配はないよ。みんな、僕たちを認めてくれてる」
「明日も……認めてもらえる? あの人は親じゃないから、ここは知られちゃいけないって、分かってもらえる?」
「うん」
「怖いんだ。元気になったり、前向きになるのが怖くて。そしたら、治ったら、措置しなくても自分で拒絶しなさいって、ここを知られない更新手続きをしてもらえないんじゃないかって」
「大丈夫だよ。安心して強くなっていい。萌梨くんは強くなれるよ、もしかしたら、ほんとに措置なんかいらなくなるほどね。でも、まだ無理なのはみんな分かってる。いいんだよ、無理でいいんだ。今は、息子として僕に甘えていいんだよ」
 ──昨夜も、そんなやりとりをしてしまった。僕が泣き止むまで聖樹さんは頭を撫でていてくれた。
 落ち着くとダイニングでココアを一杯淹れて、僕が飲み終わると部屋に付き添ってくれた。僕が眠るまでそばにいてくれて──うなされたときも、フラッシュバックが来たときも、聖樹さんが根気強くなだめてくれる。
 その関係は、逆転するときもある。僕が打ち沈んだ聖樹さんを引っ張り上げるときもある。聖樹さんの傷も、いまだに深刻だ。けれど、こんなことは言っては失礼だけど、昔ほどではない。なぜなら、僕も昔ほどではない。僕には聖樹さんがいる。聖樹さんには僕がいる。だから悠紗や沙霧やあの四人という周りも見えて、顔を上げることができるのだ。

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