Koromo Tsukinoha Novels
──次の三時間目に受ける授業はなくて、私は四時間目までヒマだった。木立と名乗った彼は、やはり澪くんといつも行動を共にしている男の子だった。
中性的な人は不思議と色っぽい。木立くんも遠くからだと愛らしく見えていたけど、近いと視線の角度や些細な所作で目を引いた。
上目遣いで「話があるんです」と誘われたまま、彼と一階に降りて、中庭の広場に出ていた。
空は灰色で低い。あと一週間とちょっとで、十二月だ。わざわざ寒風に当たりにきている生徒はいない。
木立くんは校舎沿いのベンチをしめし、私はまだ当惑しながらそこに腰をおろした。
「深奏さんは、コーヒーより紅茶ですか」
「えっ。まあ──はい」
「そっ。じゃあ、先にあったかいの買ってきますね」
そう咲って、木立くんは自販機がある昇降口への角に消えていった。見送っていると、びゅうっと風が抜け、髪が舞ってスカートがひるがえる。
あたりを見まわし、澪くんが出てくるんじゃないかとかバカみたいに思ってしまう。無論、そんな様子はなかった。
話がある。何だろう。あれは冗談だから。そう友人の口に言わせて、改めて澪くんに振られるのだろうか。そんなことされなくても、分かっているのに。
そうじゃないと恐ろしい。自殺する、なんて──ひどい断り方だ。ただの、ひどい断り方だ。
「澪に聞きました」
戻ってきた木立くんは、私に熱いミルクティーを手渡して、隣に腰かけた。そしてカフェオレをひと口すすり、まずは感覚が消えかけた指先に熱を伝えていた私に、そう言った。
「え」
「その──深奏さんの気持ちのこと」
「あ、」
「あいつの返事──」
「わ、分かってます。あんなこと言われたら、あきらめるしかないですよね。もう話しかけたりしないので、」
「……あきらめるんですか」
「あきらめろってことでしょう?」
木立くんの目が、一瞬冷めたように見えた。その反応が分からなくてすくんでしまうと、木立くんは何秒か押し黙って、缶をかたむけて甘い香りのカフェオレを飲んだ。
「澪のどこが好きなんですか?」
「え」
「見た目ですか?」
「………、どこか、なんてまだ分からないです。ただ、そばに近づけたらいいなって」
すると、木立くんはなぜか笑みを取り戻して缶を膝に置いた。そして、身をかがめて私を覗きこんでくる。近い顔に、どぎまぎするより狼狽える。
「本気なんだ」
「え──」
「澪もね」
「えっ?」
「深奏さんが澪を想ってくれてるみたいに、澪も死ぬことばかり考えてる」
目を開いた。木立くんは背筋を正し、ふうっと息をついてカフェオレをひと口飲む。指先の感覚がまた壊れて、私はまだプルリングも抜けない。
「じゃ、じゃあ……私のことを断る嘘じゃない、の?」
「悪趣味すぎるでしょう、そうだとしたら」
「こ、木立くんとか、友達だっているのに。木立くんは、止めようと思わないの?」
「思ってるよ。思ってるから、深奏さんに声をかけたんだ」
「私……」
木立くんは私のほうに首を捻じり、私はこみあげる戦慄に視線を迷わせながらも見返す。
「澪から、深奏さんの話は前から聞いてたよ。最初はあんな奴だから、鬱陶しくて愚痴なのかなって思ってたけど。でも、あいつが自分から誰かの話をするのは、そういえばめずらしいことだった」
「愚痴、ってことは、悪く言われてたの」
「いや、『最近話す女がいる』とか。容姿のこととか」
「よ、容姿は……よく言われないよね」
「そんなことないよ。まあ、かなり童顔だとは言ってたけど」
私はやっと熱を感じてうつむく。
「深奏さんは、ええと──二十七だっけ」
「うん。澪くんとは、ちょうど十歳離れてる」
「あんまり、年齢感じないね」
かすかに咲って、ようやくミルクティーのプルリングを開ける。
「……止まってたの」
「え」
「私の人生、十年くらい止まってたの。引きこもってたから」
「……そうなんだ」
「人と交流はあったけど。全部ネット。昔からの友達は、ひとりしかいない」
「じゃあ、感覚的には澪とか俺と変わんないんだね。あ、何かそういえば敬語抜けてるな。ごめんなさい」
「ううん。いいよ、そのままで。澪くんもタメ口だし」
「そっか。あ、それで──澪、深奏さんのことはわりと気にかけてたんだ。今日はたぶん空元気だったとか、自分の好きな小説の話を聞いてくれたとか」
あの澪くんが。思いがけなくて、どうしても嬉しくて、変に笑わないように優しい匂いのミルクティーに顔を伏せる。
「だから、『澪は深奏さんが好きなんだな』って言ったんだ。そしたら、『その資格があるなら』って」
「資格……?」
「死ぬから、遺すことになるから、自分は誰かを好きになる資格はないって澪は言った」
「………、」
「俺は澪とは六歳くらいから友達だけど。その頃から、澪は自殺するって決めてるんだ。誰がどうしても、その決心は揺らがない」
「何か、つらいことがあったのかな」
木立くんは視線をうつむかせ、それで何かあることは察せた。「何か」を本人でもない木立くんに訊くつもりはなかったけれど、幼い澪くんに死を決意させるほどのことがあったのかと思うと、喉が陰って苦しくなる。
「……澪を止めてくれないかな」
「えっ」
「深奏さんに、澪を止めてほしいんだ」
私はぎょっと木立くんを見た。そんな私を木立くんは見据える。
「澪、ほんとに死ぬつもりなんだ。そんなの嫌だよ。でも、俺でも彩空でも無理だった。深奏さんなら、」
「わ、私なんて……そんな、何も知らないのに」
「“資格”があれば、澪は応えるかもしれないんだよ」
その意味に私が眉を訝らせると、木立くんは私の目を直視する。
「生きていくって思えば、深奏さんの気持ちにも澪は応える」
「そんな……こと、澪くんにしか」
「資格があるなら、とは言ったんだ。それって、どこかではその資格が欲しいってことだろ?」
「分からないよ、木立くんが言い切っていいことなの?」
「いけない、けど。うん、ダメだ──でも、深奏さんも俺と同じ気持ちではあるはずだよ」
「同じって」
「澪に生きてほしいって」
生きてほしい。それは、否定できなかった。
そう、たとえ気持ちに応えてもらえなくても。せめて、生きてほしい。自殺なんてしてほしくない。どんなにつらいことがあったとしても、それだけは選んではいけない。
ミルクティーの甘みを飲みこむ。
死。昔、生理が来なくなるほどお腹を殴られて。私も死にたいと思った。それでも死ななかったのは、その勇気がなかった、一種の弱さかもしれないけれど。でも、だからと言って、みずから首をくくるのは強さじゃない。
「木立くんは、『死にたい』と思ったことはある?」
「ない、かな。むしろ『生きなきゃ』って思ってる。澪から目を離すのが怖い」
「私は……死にたいと思った。『お前の反応、飽きたから死ね』って黒板の前で手首を切らされたとき。このままほんとに死ねたらって」
頬に当たる木立くんの視線に、乾いた笑みをこぼしたけど、思い出すと走る左手首の痛みに顔を顰める。
「切っても、切っても、言われるの。『もっと深く』『掻っ切れよ』『死ねって言ってんだろ』。先生が来なかったら、……分からないけど。でも、血が流れるほど怖くなった。塊みたいに血があふれたとき、『ほんとに死ぬ』って。死ぬなんて、ほんとに怖いことなの」
「……うん」
「本気で死にたいなら、安易に『死にたい』とか言うなんて……って、少し、思う」
「あんまり変わらない」
「えっ?」
「深奏さんのその経験と、澪の状況は。勝手に話せないけど。ただ、その恐怖を澪はきっと知ってる。だから、俺もどうしたらいいのか分からなくて」
木立くんはカフェオレを飲み乾して、立ち上がった。私は顔を上げて、少し射す冬陽に目を細める。
「深奏さんが、死にたいも死ねないも知ってるなら、なおさらお願いする。澪を止めてほしい」
「……でも」
「澪に未来を見てほしいんだ。でも、未来なんか忘れてほしいんだ。遺すなんて考えず、深奏さんの気持ちのことも考えてほしい」
「私の気持ち……」
「考えてほしいよね? 『死ぬから無理』なんて、納得できないだろ?」
私は、冷めてきた手の中の缶を握りしめる。
「応えるっていうのは暴言だったけど。澪さえ生きていくつもりなら、考えるくらい、当然してもらえるんだよ」
木立くんが去っても、ぼんやりと中庭で緑に目を霞ませ、またチャイムで慌てて我に返って四時間目に向かった。今度の授業は澪くんたちとはかぶらなかった。
考えこむまま帰宅して、ベッドに仰向けになって、手首のケロイドを見つめた。
死にたかった。だけど、あの日──みんなの前で手首を切るよう命令されて、どんどん血を流した日を境に学校に行かなくなった。死ぬのが怖い。学校に行っていれば、弱い私に殺される。そう思ったから。
死にたいなんて、二度と思わないつもりだった。でも、やっぱり私は弱くて、一度目の恋が終わったときには死にたいと思った。
それから、二度目の恋が澪くんだ。皮肉なものだ。彼が死にたいから恋が断たれたゆえに、私のほうは死にたいとも思えない。
むしろ、気持ちはふくれあがっていく。それは、もう「好きだ」とか「つきあいたい」なんて自分のためのものでない。ただ、彼を想う気持ちだ。
お願い、死んだりしないで。生きていくのを見守らせて──
【第三話へ】