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第一歩

 顔にあたる陽射しがオレンジ色に透けてきた頃、僕はうとうとしていたのを振り切って起き上がり、リビングに行った。そこでは聖樹さんは仕事用のノートPC、悠紗はゲームが映ったテレビと向き合っていた。悠紗は集中しているので、「仕事?」と座卓の聖樹さんに歩み寄る。
「いや、メールが来てないか見ただけ」
「何かあるの?」
「部下に任せた仕事があったからね。何かあればメール来るだろうと思って。来てないから、頑張ってくれたみたい」
「そっか。聖樹さんは、部下とかに人気あるよね。毎年バレンタインにびっくりする」
「義理だって言ってるでしょ」
「本命の人もいそうだけどなあ……」
「萌梨くんまで。あ、もうこんな時間なんだ。今夜、食べたいものある?」
「んー、肉じゃがとか」
「分かった。牛肉とじゃがいも、玉ねぎと、糸こんにゃく──」
「にんじんは入れなくていいと思うよ」
 テレビから目を離さずに悠紗が口を挟むと、聖樹さんは笑う。
「悠ににんじんたっぷり、あったと思う」
「いらないってば」
「僕にはリクエストに聞こえたから。よし、じゃあ夕飯の支度するか」
「手伝おうか」
「ううん、ゆっくりしてて」
 僕は素直にうなずくと、悠紗の隣に腰をおろした。「何で肉じゃが」と悠紗は横目でふくれる。そういうところは、まだ子供っぽい。
「聖樹さんの肉じゃが、おいしいから」
「おいしいけどさ。にんじん入ってなかったらもっとおいしいよ」
「悠紗、昔はあんまり好き嫌いなく食べてたのになあ」
「味覚も成長す──あ、待って、戦闘」
 悠紗はコントローラーを握り直し、一ターンで勝てるように攻撃や魔法を設定する。そして、今度はかわいくない横目でなく、顔まできちんと向けてきた。
「萌梨くん、大丈夫だった?」
「えっ」
「昨日も……その、不安定になったみたいだから」
 僕は窺うような悠紗にまばたきをして、そののち、ちょっと照れ咲いする。そういうところは、変わらずに敏感な子だ。
「うん、大丈夫。行ってみたら、ほとんどの人が僕を知ってて、すんなり受理もされるんだよね」
「そっか。よかった」
「『大丈夫ですよ』とも言ってもらえるんだ。それで、分かってもらえないなんてないんだ、ってやっとほっとするけど。それまでは、被害妄想がひどくなって怖くなる」
「んー、まあ、受理されなくても大丈夫じゃない?」
「えっ」
「俺ととうさんが、萌梨くん守るしさ。警察とか役所の受理に頼ってても、不安なのは消えないよ。でも、俺ととうさんなら頼っても不安はないよね?」
 悠紗は得意そうににっとする。その笑みに僕もつい微笑むと、悠紗の頭をぽんぽんとした。そうすると昔はにこっとした悠紗だけど、今は「ガキあつかいー」とむくれてしまう。まあ、それでもかわいい弟だけど──
 そのとき、チャイムが鳴った。フィールド画面に戻った悠紗や、夕食の支度をする聖樹さんはいそがしそうなので、僕がドアフォンに出る。
「はい、鈴城です」
『あ、沙霧』
「何だ。出るね」
『よろしく』
 受話器を置いた僕はふたりに沙霧であることを伝え、玄関に向かう。そしてドアを開けると、聖樹さんの弟である沙霧がいた。
 聖樹さんに似た色の髪をさっぱり切って、出逢ったときから骨格はあったけど、それに筋肉もがっしりしてきている。聖樹さんより眼光が鋭いけど、瞳の色はよく似ている。
「今日は、バイト休み?」
「いや、夜勤だよ。ったく、いつでも入れますっつって採用されたら、マジでいつでも入れられるってなー。生活サイクルがねえよ」
「高校からのバイト辞められたって喜んでたのに」
「コンビニをナメてたな、俺」
 そんなことを話しながら、沙霧は通ったダイニングで聖樹さんに挨拶し、リビングの悠紗に肩をすくめる。
「ほんとこいつ、要さんたちみたいだよな」
 僕が思わず笑い、「沙霧くんも!」と悠紗が怒るので聖樹さんも噴き出す。
「そりゃ、要くんたちかっこいいけど。同じはやだっ」
「同じとは言ってねえけど。いつもゲームしてんじゃん。ギターは? 何でたまに弾いてると、あんな上達してんだよ」
「けっこう毎日弾いてるしっ」
「うん。今日も昼に弾いてたよ」
「そうなのか」
「引っ越してから、沙霧くんが俺んち来なくなっただけだろー」
「俺の部屋からは五駅だぞ、そんなしょっちゅう来れるか」
「電車代ケチってんの?」
「バイクでもかかるっつーの」
「今日はどっち?」
「バイク。実家も寄ってきた。親父とお袋も、萌梨のこと心配してたぜ」
「僕?」ときょとんとする背後で、「親父……」と聖樹さんが先日のお花見を思い出したのか暗くつぶやく。
「ああ。春だし、そろそろ手続きだろ? いつもすんなりいってても、かわいい孫がどうなるかは気になるらしくてさ」
“孫”という単語に照れたくても、「今日行ってきたよ」と沙霧に座るのをうながす。
「今日だったのか」
「うん。大丈夫だったよ。おじいちゃんとおばあちゃんにも、よろしく」
「はは、萌梨が直接電話でもして伝えてやったら喜ぶぜ」
「そ、そうかな」
「じいちゃんたち、ほんと萌梨くん好きだからなあ」
 実の孫の悠紗がぼやくと、「だよな」と沙霧は笑いを噛む。
「あのふたりは、萌梨に頭上がんねえだろうからな」
 悠紗と僕の祖父母、聖樹さんと沙霧の両親は、僕が“鈴城”になるきっかけを作ってくれたふたりだ。それまでは、聖樹さんの独断で部屋にかくまわれていた僕には要注意人物だったけれど。今では、悠紗と等しく僕をかわいがってくれる、優しいおじいちゃんとおばあちゃんだ。
 初めて会うときはすごく怖かったけど、おじいちゃんもおばあちゃんも、まず僕に深々と頭を下げたのでびっくりした。
「聖樹を変えてくれてありがとう」
 頑固だと聞いていたのに反して、おじいちゃんは実直にそう言った。
「今までつらかったね、本当につらかったね」
 遠回しな物言いをすると聞いていたおばあちゃんは、涙を浮かべてそう言った。
 ふたりに「鈴城」を名乗ることを認めてもらえて、それも僕を心強くさせてくれた。祖父母というものをそもそも知らなかった僕には、ふたりからの愛情は新鮮でもあり、くすぐったいくらい嬉しかった。
 そして、不思議なもので、僕が現れたことでふたりはそんなふうに愛情を豊かに表せるようになったらしい。聖樹さんも、悠紗も、沙霧もそう言う。だから、感謝するのは僕なのに、おじいちゃんとおばあちゃんも僕に感謝しているらしい。
 沙霧はあんまりゆっくりできず、夕食は「実家でただ飯の約束」と帰ってしまった。僕の更新のことが聞けたので、ひとまずそれでよかったのだそうだ。そうこうしていると聖樹さんが夕食を作り終えて、聖樹さんと、悠紗と、僕は、初めて会った日から変わらずに座卓を囲んで食事になる。
「萌梨くん、マジで高校なんか行くの」
 にんじんをはじいて聖樹さんに怒られながら、悠紗はそれがどうも気に食わない様子で首をかたむける。
「ん、まあ。……ダメかな」
「悠が口出すことじゃないだろ。あと、それ以上よけたら、僕のにんじんも足すよ」
「んー、どうなんだろうなあ。はっきり言っていい?」
「うん」
「ちゃんと、拒否できるの?」
「えっ──」
「もう、萌梨くんはそんなのされちゃダメなんだよ。でも、萌梨くんははっきり突き飛ばせる?」
 僕はほかほかと匂い立つ、肉じゃがとごはん、豆腐の味噌汁などの夕食に目を落とした。この質問に真剣を見取った聖樹さんは、今度は何も言わない。
「とうさんがついていくわけでもないんだよ。──そうだよね」
「……うん」
 聖樹さんは小さくうなずき、悠紗はじっと僕を見つめる。
「意地悪で言ってるんじゃないんだ。ただ、萌梨くんは断れるようになるべきだと思う」
「でも……僕、もう五月で十九だし。十九の男なんか……」
「歳とかじゃない。バカはバカだ。そういう蠅は、萌梨くんがジジイになってもつきまとってくる」
「……悠、言葉遣い」
 聖樹さんが低く注意し、僕は箸を置いて息をつく。そして、「分かってる」と抑えた声で答える。
「分かってる、悠紗の言うことは。すごく……分かってる」
「じゃあ、俺は安心してていいんだね?」
「怖い、よ。正直、分からない。はっきり、拒絶できるって、それは言えない」
「だったら、」
「うん、でも……行くだけ行ってみたいと思うんだ。そろそろ、僕も悠紗みたいに頑張りたい」
「え、俺」
「悠紗がギター毎日弾いてるみたいに、僕も頑張りたい。でも、何をすればいいか分からないから、高校でそれを見つけられたらって思うんだ」
 悠紗は僕を見つめ、「ギター出されたら何とも言えないや」とにんじんを口に放った。くすりとした聖樹さんは、僕にややまじめな目を向ける。
「萌梨くん、無理はしなくていいんだ。行ってみて、合わないと思ったら、またここで休んでいいんだからね」
「……うん」
「『行く』って言ったからって、つらくなっても、それでも行く必要はない。通えそうな高校かどうかを、まず見ておいで」
「……そうする。ありがとう」
 僕が笑みを見せると、聖樹さんも悠紗も咲ってくれた。そう、いつだってこんなふうにここは温かい。そして、この温かい場所が僕の家なのだ。それは、すごく、幸せなことだ。
 僕は、子供の頃から、男──同性に性的虐待を受けてきた。父親にさえ、犯されていた。それを救ってくれたのが、同じ過去を持つ聖樹さんだった。僕も聖樹さんも、いまだに性的なことが怖いし、気持ち悪い。無意識に男は避けてしまうし、すれちがう女の子を意識することもない。
 僕の性は欠落してしまった。恋愛感情は麻痺してしまった。それは、鳥が羽を失うように、“当たり前”ができない一種の壊死で……
 けれど、僕は十九歳にして出逢う。
 そう、「千の羽」を持つ女の子と──

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