砕けるように
その痛みを抱えて、試験勉強したり、聖樹さんに話す切っかけを探していたりしたら、すぐに試験が始まった。試験日はいつもより登校する生徒が増える。でも、一日目は二時間目に美術の試験があったから、千羽ちゃんと合流することができた。
僕はこのあともう試験はなかったけど、千羽ちゃんは四時間目に地理がひかえているらしい。三時間目は自販機で冷たい飲み物を買って、ふたりで日陰で涼んだ。周りでは、「全滅だったわー」とか「わけ分かんなかったんだけど」というさざめきが多く、自信のある声はあんまりない。
頭を壊しそうに蝉が鳴いていた。プールのあとの雫みたいに流れる汗に息をつきながらも、「終わるの待ってるよ」と僕が言うと、「暑いから気にしないで」と千羽ちゃんは咲った。
僕は手のひらを冷ます烏龍茶の缶を握り、言いたい、と思った。夏休み。会えない。だから──。
でも、知り合って一ヶ月で、さすがにずうずうしいだろうか。僕は男で、千羽ちゃんは女の子で、警戒もするだろう。その警戒が僕はよく分かる。警戒されたら、踏み躙りたくないのと同時に、どこか僕はショックだと思う。
僕が、「あの感情」を、人に覚えさせる。それはすごくぞっとすることだ。だから言い出すのが怖くて、めずらしく沈黙していると、不意に千羽ちゃんのケータイが光った。
「あ、何か来てるよ」
「え? あ、誰だろ──」
言いながら千羽ちゃんはケータイを開き、少し動きを止めた。どうしたの、と僕は言おうとした。あと一秒早く言えばよかった。僕の声の前に、かち、と千羽ちゃんはボタンを押して──その途端、千羽ちゃんは大きく目を見開いた。
「い……いやあっ!」
一気に頬が蒼くなった千羽ちゃんが、ケータイが虫であるかのように手元からはらいのけた。そして、その指先を大げさなほど震わせて握りしめる。
「ち、千羽ちゃん?」
狼狽える僕と、明らかにパニックに起こす千羽ちゃんに、周りはこちらを見る。その視線に耐えかねるように、千羽ちゃんはおののく腕で顔をおおった。「何?」とささやく声と、好奇の雰囲気に混乱が加速したのか、千羽ちゃんは「見るな!」や「消えろ!」といつもと違う口調を口走って、わあっと泣きじゃくりはじめた。息遣いも狂わせ、感覚がおぼつかないように肩も膝も震駭させる。僕は千羽ちゃんの肩に手を伸ばそうとしたけれど、たぶん違う、ととっさに察して引っ込めた。
「千羽ちゃん──」
代わりにそっと声をかけても、千羽ちゃんは髪を振り乱していやいやするばかりで、次第に過呼吸も激しくなってくる。涙をあふれさせ、喉を抑えて咳きこみ、「何で」と弱い声で呼吸を痙攣させる。
「もう嫌っ。ほっといて……っ」
「彼氏ー、うるせえから黙らせろよ」
無神経な男子の声がした。自分でも信じられないけど、僕は無意識にその男子をきっと睨みつけていた。そうとうきつい目だったらしい。その男子は、僕の眼にぴたっとすくんで、絡んできたりはしなかった。そのとき、ひとりの女子が小さく手を挙げる。
「あ、あたし、保健の先生呼んでくるっ」
「あ……あたしも行く。すぐ来るから、ねっ、待ってて!」
ふたり連れの女子がばたばたと校舎へと走っていって、千羽ちゃんは少し顔を上げた。ぱっくりした瞳はどくどくと涙でゆがみ、髪がべったり頬に貼りついている。
「千羽ちゃん……」
僕の声に、千羽ちゃんはやっと反応してこちらを見た。僕はとっさに飲まれないように構えていた。それぐらい深い闇が、底無しに千羽ちゃんの視覚を穿っていた。
「……り、くんも……っ」
「え?」
「っく、……わ、たしをっ……」
そこまで言って千羽ちゃんは地面に崩れ落ち、僕は急いでコンクリートに膝をついた。
「千羽ちゃん、息吸える? 吐いちゃダメだよ。もう息は吐かないで。息吸って」
「こ……わいっ、もう、こわいよっ……」
「話さなくていいから。息を吸って」
「わ……たしっ、もう見られたくなっ──……」
「新菜さん!!」
ばたばたといくつかの駆け足と、そんなハスキーな女の人の声がして僕は顔を上げた。ショートカットのその人は、白衣をまとっているから、保健の先生だ。先生は一瞬かたわらの僕を見たけど、すぐに千羽ちゃんを胸に抱いて背中をさする。
「新菜さん、おかあさんは?」
「もう……分かんなっ……」
「おかあさんは一緒じゃないの?」
「……このまま、……死ねば、っ……」
保健の先生は、凛としたメイクの顔を上げて僕に問いかけた。
「新菜さんの友達?」
「に、にいな……さんというか、千羽ちゃんの名字知らないですけど」
「千羽ちゃんで合ってる。おかあさんはいないの? 今はあなた──名前は?」
「鈴城です」
「鈴城くんが新菜さんに付き添ってるの?」
「え、えと……、千羽ちゃんはいつもひとりで学校来てます。僕は学校で会ってるだけです」
「もういやあっ」
千羽ちゃんはこめかみを抑えて頭をぐちゃぐちゃに振って、「大丈夫だから」と先生は千羽ちゃんを抱きしめる。十四歳だった僕が、よく、聖樹さんにそうされていたように。先生は千羽ちゃんの肩を抱いて立ち上がらせ、「付き添ってあげてくれる?」と僕にも声をかけた。うなずいてついていこうとした僕に、眼鏡をかけた男子が急いで駆け寄ってきた。
「あの、これ」
千羽ちゃんのケータイだった。ぜんぜん知らない生徒だったけど、「ありがとう」と受け取ると、彼は首を振ってなぜか謝った。
「画面、見ちまった。……この高校でも、結局イジメってあるんだな」
そう言って背を向けた彼を見つめ、僕はおそるおそる手元を見た。「鈴城くん」と先生の声がかかる。なのに、つい適当なボタンで、画面を白く点燈させて──
『あなたが人間のクズだって知らない人が可哀想。
あなたに近づく人には、私があなたが最悪な奴だって伝える。
あなたが死ぬまで、私はそれをやめない。』
──千羽ちゃんは、四時間目の試験に参加できなかった。過呼吸も涙も落ちついても、ぽっかりとした目で空を見つめていた。
空っぽだった。その感じを僕はよく知っていた。僕はベッドのかたわらの椅子に座り、何とも言えない息苦しさで、たまに変に咳きこんでしまった。
誰かが持ってきてくれたらしい、プルリングも抜いていなかった烏龍茶を飲んでいると、誰かが保健室を訪ねてきた。「初海先生」と保健の先生の声がして、「そのベッドですかね」と聞き憶えのある声が続き、足音が近づいて仕切られたカーテンにひとつの顔が覗く。
「あ……、」
「おお、鈴城くんか」
美術の先生だった。そう、確か、この先生の名前は初海先生だ。初海先生は千羽ちゃんの様子を見、何度かうなずくと、「新菜さんはよーく頑張ってるよ」と優しく言った。千羽ちゃんは一瞬まばたきしたけど、こちらは見ない。僕は初海先生を見上げた。
「……先生」
「ん」
「あんまり、深い話はできないんですけど」
「うん」
「僕は、その……昔から、同級生に、ひどいことされてて」
「うん」
「……千羽ちゃん──新菜さんも、なんですか?」
僕の問いに、初海先生は困った顔で笑った。
「それは、先生からは言えんなあ」
その口調は先生らしくて、僕も少し笑ってしまう。「ただね」と初海先生は腕組みをした。
「新菜さんは、去年ここに入学してね。先生が担任だったんだよ」
「えっ、そうなんですか」
「うん。まあ、ずいぶんと内気な子でねえ──ひとりでは危なっかしいからと、おかあさんに付き添われて何とか登校してたんだ。それが、夏休みをはさんで来なくなってね。ああまだしんどかったんだなあと思っていたら、三学期の終わり頃に、ひょいと顔を出して。来年度から、また来ますって」
「……クラスが変わるから、って、いうのも変ですよね」
「そうだね。この学校は、クラスメイトは月に一度のホームルームで顔を合わせるぐらいだ。それでも、先生は悩んだがね」
僕はまくらもとに置いている千羽ちゃんのケータイを一瞥した。言うべきか、と思ってもなかなか声にならない。
「で、四月になった。そしたらまったく元気そうで、付き添いもなしに学校に来てるじゃないか。何だろうねえ。分からないんだ。本当に情けない話だがね、この高校で何があったか、先生は知らないんだよ。入学以前のことは、おかあさんからも、新菜さん自身からも聞いてるのにね」
僕は千羽ちゃんの虚ろですらない無表情を見つめた。初海先生は僕の肩をたたいた。
「十分間だけ、試験の監督を代わってもらっただけなんでね。先生は頼りにならないから、鈴城くんが新菜さんのそばにいてあげなさい」
「あ……あのっ」
「ん」
「に、新菜さんは、先生を信頼してるから、芸術科目の中で美術の授業を取ったんだと思い……ます」
「はは、そうだと嬉しいね。ありがとう」
初海先生は皺を見せて微笑むと、カーテンの外に出て、保健室を出ていった。
僕は千羽ちゃんに向き直り、死体のように胸の上で組んでいる手を見つめる。女の子の手は、もろそうですぐ折れそうな関節なのに、不思議と柔らかそうだ。触ったらどんな感じなのかな、と思っていると、四時間目の試験終了を告げるチャイムが鳴った。
「鈴城くん」とハスキーな声がかかって振り向くと、保健の先生だった。僕はいったん立ち上がって、カーテンを出る。
「鈴城くんって、このあと帰る?」
「いえ。千羽ちゃんが心配ですし」
「そう、助かる。おかあさんがね、パートでどうしても抜けられないらしいの。でも、迎えにきてくださるそうだから」
「ほんとですか。よかった」
「……意外と、しっかりしてるんだね?」
「えっ」
「鈴城萌梨くんだよね? 下の名前で思い出した」
「あ……変な名前ですよね」
「いやいや。若いおとうさんがいらっしゃるよね。一度ね、保健室にいらしたことがあるの」
「え、聖樹さんが」
父親を名前で呼んだことに一瞬先生は首をかたむけても、僕が気まずくなる前に、何も触れずに話を進める。
「何かあったら、すぐ連絡くださいって名刺くれたんだよね。この高校はいろんな生徒がいるし、別にめずらしくないんだけど」
「はあ」
「だから、そんなに親御さんに心配されてるのに、鈴城くんはぜんぜんしっかりした男の子じゃない? びっくりしちゃった」
「あ、いえ。家では、その、弟に勝てないです」
「あはは。弟くんいるんだ?」
「学校には行ってないんですけど、すごく立派な子です」
「立派か。けっこうな兄バカだ」
先生は楽しそうに笑い、「まあ、しばらくは弟くんより彼女さんを優先して」と僕の肩をベッドへと軽く押した。彼女の語を否定しておいたほうがと思ったものの、もう先生はほかの生徒に話しかけている。
僕なんかが彼氏だったら、千羽ちゃんに悪いのに。そう思いながらカーテンをめくり、千羽ちゃんを見てはっとした。長い睫毛が、静かにゆっくり、上下している。僕が息を飲んで見守っていると、千羽ちゃんの黒目が、僕を映した。
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