つきまとう悪意
「千羽ちゃん」
僕はカーテンにもぐりこんで、椅子に腰かけると千羽ちゃんを覗きこんだ。一回、二回、まばたきごとに乾いた目が潤いを帯びた瞳になってくる。触れたいと思った手がほどかれ、虚空を彷徨い、僕は思わず握っていた。千羽ちゃんはじっと僕を見つめ、弱々しく微笑む。
「千羽ちゃん──」
「……聞こえてた」
「えっ」
「初海先生の話」
「あ……」
「初海先生は悪くないの。頼りない先生でもないの」
「……うん」
「ほんとに、信頼してる先生だよ」
「うん。僕もだよ」
千羽ちゃんは僕にもう一度微笑み、不意に軆を起こそうとした。
「あ、ダメだよ。休んでないと」
「ちょっと、空気吸いたい」
「でも、おかあさんが迎えに──」
しゃっとカーテンが開いて、保健の先生が僕の頭を小突いた。
「行ってきなさい。無理はしないように。させないように」
そう言った先生は、僕たちににっこりとして、「ありがとうございます」と上体を起こした千羽ちゃんははにかんだ。ぎゅっとつかまれて、千羽ちゃんの手を握ったままなのに気づく。「あ」とか声だけもらしておろおろしていると、「つないでていい?」と訊かれて、僕はとりあえずうなずく。
保健室はクーラーがきいているのに、妙に軆がほてってくる。その熱を我慢して千羽ちゃんがベッドを降りるのを手伝って、僕たちは手をつないだまま保健室を出て、廊下に面したグラウンドに出ると段差に腰をおろした。
まだ空は青く明るく、蝉の声もあって暑かった。それでも、やっと一日目の試験が終わって生徒はさっさと帰路についたのか、ちらつく人影は少ない。夏風はぬるく、ふわりと千羽ちゃんの優しい香りを僕まで運んだ。つないだ手は早くも汗ばんでも、何となくお互い離さなかった。
「ここでは普通だよね」
不意に千羽ちゃんがつぶやいて、僕はその頬がまだわずかに蒼いのを認める。
「中学時代に、何かあったとかって」
「……まあ」
「私もね、普通に、イジメられてたの」
僕は相槌の声を入れかけ、適当な声ははさまずにうつむく。
「でも、その先がちょっとゆがんでてね」
「ゆがむ」
「うん。メル友がね、いたの。すごく仲良しで、何でも打ち明けてて、もちろんイジメの相談もしてた」
「……男?」
言ってみると想像以上に不安そうな声になってしまい、千羽ちゃんを失笑させてしまう。僕が頬を染めていると、千羽ちゃんは首を横に振った。
「女の子だよ。同い年の。少なくとも、向こうはそう言ってる」
「そっ、か」
「でね、その子と一緒にサイトを始めたの」
「え、“千羽鶴”?」
「ううん、違うサイト。あ、共同サイトでもなくて、個人ね。私は絵で、その子は詩。で、初めはお互い同士しか訪問者いないくらいだった」
千羽ちゃんの声が、夕闇のようにかすかに重く陰りはじめる。
「でも、何でかな、私のサイトのほうがちょっと訪問してくれる人が増えてきて。爆発的とか、人気サイトとか、そんなんじゃない。むしろ、その子のサイトのほうが雑誌に載ったりもしたの。でもやっぱり、掲示板の書きこみも私のほうがあって、カウンターは開いていった」
「……うん」
「でね、その頃からWebで日記はつけてたの」
「あ、読んじゃいけないやつ」
「ううん、当時のはもう削除したよ」
「えっ──」
「日記にね、イジメのことを書いたの」
千羽ちゃんの横顔を見た。千羽ちゃんはグラウンドを見つめるままだ。
「中学卒業して、その頃が一番ケータイ依存がすごくて。ずっとケータイいじってて、ここに入学しても、授業中もずっとつくえの影でケータイ。たくさんメル友ができた。いろんな人をケータイだけのつながりだけど信頼した。そんな人たちに、きちんと打ち明けたいと思ったの」
「……うん」
「でも、それがあの子を傷つけちゃって」
「えっ──」
「『私はあなただけに話してきたのに、あなたは私だけを信頼してたわけじゃないんだね』って」
「………、」
「『すぐ裏切る人間だからイジメられてただけじゃない。信じてた私がバカだった。言っておくけど、みんなあなたの自分語りを軽蔑してるよ。そういう苦情のメールは私に来てるの。あなたが酔っててうざいって。イジメられたこと語って楽しい? 不幸自慢して気持ちいい?』」
千羽ちゃんはいったん言葉を切って、一瞬「何で暗記してるのかな」と表情を泣き顔に崩しかけた。僕が握る手に力をこめると、確かにその瞳は濡れてしまっていたけど、千羽ちゃんは話を続ける。
「一番ショックだったのは」
千羽ちゃんも僕の手を握った。
「『イジメ受けてる子からメール来たよ。その子をイジメる人、あなたの自分語りを参考にして、同じことしてくるんだって』」
千羽ちゃんの声が、息を引き取るように溶暗していく。
「『もうやめなよ。あなたの軽々しい告白のせいで、イジメが増えてるんだよ』」
そうつぶやいたあと、いくらか沈黙を置いて、「さすがに削除した」と千羽ちゃんは言った。
僕は何と言えばいいのか分からなかった。ぜんぜん、分からない世界だった。僕はいつも生身に受けてきたから、顔も知らない相手の言葉の攻撃力なんて想像もつかない。「それからずっと」と千羽ちゃんは睫毛を伏せて頬にその影を作った。
「その子が、私を見てるの」
「見てる、って」
「閉鎖しても、移転しても、メールやめた人もいる。それでも、その子は私を見つけて、日記とか更新とか監視してて。拒否するんだけどね。何度もアドレス変えて私にメールしてくるの」
あの男子生徒も見てしまった陰湿なメールが、脳裏をよぎる。
「そのたび、あんなふうになっちゃって。ほんとに、死ねばいいのかなって。死んだら、もう監視されないのかなって。サイトやらなきゃいいって思うかもしれなくても、でも、絵は……」
「そ、それは、分かるよ。千羽ちゃんに絵が大切なのは分かるし、あの絵を見たいって人がいるのも分かる」
「……うぬぼれてるよね」
「そんなことない。僕は千羽ちゃんの絵、好きだよ。見てて落ち着くし、千羽ちゃんが本当にその絵を心を込めて描いたのが伝わってくるから、何か……僕も、頑張れる」
千羽ちゃんは僕を見て、「ほんと?」と心細く訊いた。僕はうなずき、「千羽ちゃんの絵は、ちゃんと誰かの心を癒してる」と言った。すると千羽ちゃんはやっと頬に色をさして、「それ言われると恥ずかしい」と目を閉じて笑った。そう言われると、僕も恥ずかしい。
「ねえ、千羽ちゃん」
「うん」
「もうすぐ、夏休みだよね」
「え、その前に試験だよ」
「うん、試験終わったら──僕の家に、来ない?」
「えっ」
「その、ごめんね。千羽ちゃんはここで話してくれたけど、僕は……ここでは話せない。それに、会ってほしい人がいる」
「会ってほしい人……」
「今の僕を守ってくれた人」
千羽ちゃんは僕の瞳を見つめ、「女の子?」と言った。その声はさっきの僕の声のように不安げだった。僕はもちろん、首を横に振る。そして、僕たちは似たような自分たちに笑い出してしまって──ひとしきり笑うと、「うん」と千羽ちゃんは、すっかりいつも通りの穏やかな微笑を見せた。
「萌梨くんの家、行きたい」
──そうして、試験が終わったら話したいことがあると、僕はようやく聖樹さんの服を裾を引っ張って、話しかけることができた。悠紗がこういうとき、察して部屋に消えるのは変わらない。聖樹さんがどういう人かはまだ伏せても、“守ってくれた人”に少し事情を話していいか、千羽ちゃんに許可はもらっていた。
まず千羽ちゃんと知り合ったことから初めて、先日髪を切ったときに悠紗にうながされたことも合わせ、やっと千羽ちゃんの背景に触れることができた。静かに、でも真剣に話を聞いていた聖樹さんは、「最近はそういうこともあるんだね」とやるせなくつぶやいた。「それで」と僕はようやく本題に触れることができた。
「その、千羽ちゃんを、ここに連れてきたいんだ」
「この家に?」
「うん。聖樹さんに会ってもらいたい」
聖樹さんは悪戯っぽく咲うと、「もうその子のおかあさんには気に入ってもらったのに」と氷が溶けた麦茶を飲んだ。あのあと何度も丁重に千羽ちゃんのおかあさんのお礼を言われた僕は、少しどぎまぎしても、「聖樹さんを知ってほしいんだ」と苦し紛れの強い口調で言った。聖樹さんは僕を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「萌梨くんは、どんどん強くなっていくね」
「え」
「僕は、それを見守ってあげるしかできない父親かもしれないけど──」
「聖樹さんはどんな父親よりすごいよっ。聖樹さんがいなかったら、僕、まだ……」
「うん。分かってる」
聖樹さんはもう一度微笑んだあと、「眼鏡はかけてていいのかな」と物柔らかに言った。僕は聖樹さんを見て、その手元の伊達眼鏡に目をやると、それは聖樹さんの領域だからうなずく。すると、「よし」と聖樹さんは嬉しそうに咲い、僕の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。その笑顔に、僕は悠紗の言葉を思い出す。
『彼女できても伝えるよ。絶対喜んでくれるしさ』
彼女、とか、彼氏、とか、何だかみんなに言われるけれど、僕はそういうのはよく分からない。麻痺しているのか、本当に僕には千羽ちゃんは友達に過ぎないのか。それも分からない。それでも、聖樹さんが僕と千羽ちゃんとの関係を喜んでくれるのは、すごく嬉しかった。すごく、ほっとした。
千羽ちゃんが僕の家に来たのは、夏休みに入ってしばらく経った、八月の初めの日曜日だった。僕は午前中に高校まで千羽ちゃんを迎えにいった。千羽ちゃんの最寄りの駅は、高校の最寄り駅より、違う路線になってしまうのだそうだ。
千羽ちゃんは白とピンクのボーダーチュニックに、細身の水色のパンツを合わせて、炎天下に日傘をさしてやってきた。黒のバックを肩にかけ、めずらしく、黄色のシュシュで髪を両脇にまとめている。かわいいね、と言いかけて、無防備な言葉かと抑え、「行こっか」と並んで歩き出す。
今日も突き抜ける青空に蝉時雨がすごい。
日中とはいえ、夏休みの日曜日の電車なので混んでいる。千羽ちゃんはあんまり電車に慣れていないようだったから、人に当たる前に僕がかばった。「つかんでて」と腕をさしだすと、千羽ちゃんはこくんとして僕の半袖の裾をつかんだ。
何度か乗り換えをしていつもの町に着くと、公園沿いを歩く。「緊張してきた」と千羽ちゃんは苦笑いして、「大丈夫だよ」と言いつつ、僕も見えてきた煉瓦色のマンションに深呼吸してしまう。
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