Diamond Azalea
「あ、そろそろ道憶えてきたから。ここから帰れるよ」
蝉はさすがに声を失ったけど、暑さはばてない九月の終わりの土曜日、僕は家に来てくれた千羽ちゃんを送っていた。手もつなげない自分が鬱陶しかった。駅に着いて定期を取り出そうとしたら、千羽ちゃんはそう言って微笑んだ。日が落ちるのは早くなり、時刻は十八時前で薄暗い。
「でも、電車混んでくるから危ないよ」
「私のことなんか、痴漢する人いないよ」
「そ、そんなことないよっ。ダメだよ。送る」
梅雨より伸びたウェーヴの髪を、シュシュで左右に分ける千羽ちゃんは、僕をじっと見つめた。その視線に、思わず僕の被害妄想が走った。
千羽ちゃんはこう思っているのではないか──じゃあ、彼氏のあなたは、どうして私に触れないの?
「あ……、えと、………」
僕は千羽ちゃんを見た。心臓が胸に打ちつけ、なぜか息が上がりそうになって、唇を噛む。それでも、静かに千羽ちゃんの手に手を伸ばして、その冷たさにふと驚いた。
「手、冷たいね」
僕の間の抜けた言葉に、千羽ちゃんはくすっと咲った。今度は自然な微笑だった。
「うん。冷え性だから」
「……じゃあ、冬には」
「ん?」
「ずっと握れるようになるから」
千羽ちゃんはまばたきをした。
「手は、つなげるように──なるから」
僕の絞り出すような言葉に、千羽ちゃんは苦笑して、「大丈夫だよ」と僕の手を離そうとした。それが怖くて、僕は千羽ちゃんの華奢な手を強くつかむ。
「僕──」
「……萌梨くん、私ね、」
「僕が無理だったら、どんな手ぶくろでも買ってあげる。バイトしてもいい。だから」
「………」
「ほかの人には、握らせないで……」
僕の泣きそうに細い声に、千羽ちゃんは仕方なさそうな、でも柔らかい笑みを浮かべた。
「ほかの人に握らせない方法があるんだよ」
「えっ」
「私のこと送れるなら、ちょっと時間あるんだよね」
「う、うん」
「この商店街に、雑貨屋さんとかアクセショップってない?」
「行ったことはないけど、あったと思──」
そこまで言って、はたと千羽ちゃんを見た。千羽ちゃんはちょっとはにかんで、うなずく。僕は財布にいくらあったか心配だったけど、手数料を取られてもATMからおろせばいいだけだ。僕は何かしてあげられることにほっとして、やっと千羽ちゃんに咲うことができた。閉店を気にして早足になりながら、「どんなのが欲しいの?」と一応僕は訊いてみる。
「シルバーくらいしか買えないかも」
「私、フェイクでいいから、誕生石が入ったのがいいな」
「誕生石。千羽ちゃんは、四月で──え、四月って何」
「ん……何か、男の子には恥ずかしい宝石かもしれないけど。四月はね、ダイヤモンド」
僕はまじろいだ。ダイヤモンド。あらゆる宝石の中で、一番の宝石だ。そんなの、かえって本物をあげたい。そう思っても、財布も貯金も叶えてくれるわけがない。
小さいけど手頃なアクセサリーショップに入った僕たちは、ラインストーンの入った、目立たない細めの指輪を贈り合った。千羽ちゃんは僕に、五月のエメラルドをくれた。ケータイで調べた千羽ちゃんによると、言葉は“幸福”や“幸運”だそうだ。そして僕は、千羽ちゃんの願いを叶えて、ダイヤモンドの指輪を贈った。
「ダイヤモンドの言葉は?」
値札を外してそのまま店先で交換しながら僕が問うと、千羽ちゃんは暮れていく空に左手をかざした。
「“変わらぬ愛”と “永遠の絆”」
ラインストーンは、並ぶ店の明かりで、ちょっとわざとらしく輝く。それでもにっこりとしてみせた千羽ちゃんに、僕は胸がいっぱいになった。情けないけど、僕のほうが満たされてばかりだ。
変わらぬ愛。永遠の絆。それは、僕が一番千羽ちゃんにあげたいものだった。
「萌梨くん」
「うん」
「私は、萌梨くんを幸せにできてるかな」
千羽ちゃんはそう言って僕を見た。僕はもちろん、こくんとした。その幸せそうな笑顔が、僕が出逢った幸運そのものだった。
結局、本当に遅くなったので、僕は千羽ちゃんをいつも通り高校の最寄り駅まで送った。千羽ちゃんは電車に慣れたようでも、相変わらず僕はなるべく接触からかばう。そして改札で別れて、人通りに千羽ちゃんが消えるまでそこに僕は立っていた。
それから、やっといつもの街に帰宅した。電車で何度も、左薬指のきらきらした緑色を見つめてしまった。もしかしたら、僕でも千羽ちゃんを幸せにできるのかもしれない。気分はそう前向きなほどになって、マンションに到着した。
ダイレクトメールが来ていたら捨てておくために、深い意味もない習慣で郵便受けを開けた僕は、正方形に折られた茶封筒が入っていたので、首をかしげて取り出す。メール便だったそれを裏返して、目を開いた。
りわ
紫苑
モトム
HAZUKI
それぞれ本人が書いたらしい、筆跡の違うXENONのメンバーの名前だった。その場で開けたくなっても、いや、聖樹さんが開封すべきだろう。僕は駆け足で部屋に戻って、その封筒を、僕の帰りと夕食をリビングで待ってくれていた聖樹さんと悠紗に届けた。
おかえりを言いかけたふたりは、何だか僕が元気になっているのにもびっくりしても、封筒にはもっと色めいた。「何だろっ」と待ち切れずに悠紗は駆け寄ってきて、聖樹さんがはさみを持って歩み寄ってくる。
そうして出てきたものに、そういえば、と三人で顔を合わせる。例のDVDと、四つ折りのレポート用紙一枚だった。レポート用紙はなぜか四人の寄せ書きになっていた。
『何の因果でこれが俺たちかなあ』と葉月さん。
『俺たちじゃ判断できねーから、聖樹と萌梨の意見聞きたい』と要さん。
『聖樹たちが作ってよければ、曲のイメージはある』と紫苑さん。
『たぶん、ぼくがうたう』と梨羽さん。
僕たちはもう一度顔を合わせた。
「梨羽くん、歌うって……」
「メジャー行くの、かな」
「それはないと思うけど──じゃあ、早くごはん食べて、三人で見ようか」
そんなわけで、ひとまず僕たちは、脂の乗ったさんま一式の夕食を取った。
味噌汁をすするためお椀を取ったとき、「指輪だ」と悠紗が指さしてきた。う、と僕はつい恥ずかしくて隠したくなったけど、そうしたら味噌汁を引っくりかえすことになる。聖樹さんも覗きこんできて、「ほんとだ」としばたいた。
僕がうつむいてしまうと、ふたりは目を交わして、「そっかあ」と声を合わせた。
「何か萌梨くん、元気になってるなーって」
「女の子の力はすごいね」
「これ、何の宝石? 本物?」
「か、買えるわけないよ、そんなの。千円くらいだよ」
「緑だね。きらきら」
「千羽ちゃんとお揃い?」
「デザインは。千羽ちゃんは、その、もちろんフェイクだけど。……ダイヤモンドを」
「ダイヤ!」
悠紗が声を上げ、「本気度高い」と続ける。僕は頬が熱くなるのを感じて、「誕生石で選んだんだよ」とつけたす。
「あ、だから萌梨くんはエメラルドか」
「うん。何か、その……不安になってることで、不安にさせてたんだけど。千羽ちゃんが、欲しいって言ってくれて。いや、露骨にお願いされたわけではなくても──」
「そういう子だよね、千羽ちゃん」
「うん。俺、萌梨くんと千羽ちゃんが並んでるの好きだよ」
「そのわりに、悠はよくふたりの時間を邪魔してるけどね」
「えー、俺って邪魔かなあ」
むくれる悠紗に、聖樹さんはくすくすとして、僕には「良かった」と穏やかに微笑んでくれた。僕はうなずき、すっかり親しんだ聖樹さんの味噌汁の味を噛み締めた。
それから、僕たちは悠紗が愛用するゲームのハードでDVD鑑賞を始めた。それは、よく分からなかった四人の寄せ書きが、最終的にはよく分かる内容だった。
冒頭からいきなり画面は真っ暗だった。ただ、低い笑い声と荒っぽい息遣いの音声が混じった。それで、こう言っては悪いけど、嫌な予感がした。盗み見た聖樹さんも眉を寄せていた。
──あー……やべ。
不意にそんな台詞が入る。
──……いきそう。
台詞──いや、演技の声だろうか?
──もういいだろ、お前どけよ。
これは本当にただの映画?
──るせえなっ……あ、くそ、お前ちゃんと舌使え。
間違えて、要さんか葉月さんのポルノが──
「……悠」
聖樹さんも察知したらしい。
「ん」
「部屋に行ってなさい」
「えー。つーかこれ、要くんのポルノ──」
──僕の、
僕?
──指先は、
苦しげな、声変わりもしない少年の声。
──すごく冷たい。
モノローグのあと、気持ち悪い音声も途切れた。代わりに、かちゃかちゃというベルトを緩める音が響く。
“監督 天海智生”
じーっというファスナーをおろす音。それと共に、クレジットがまたたく。
“脚本 天海芽留”
次第に、またあの気持ち悪くなる物音が近づく。そんな悪趣味な冒頭のあと、縫い目のように黒に赤いタイトルが現れた。
“ハンドメイド”
突然、音声がよくある学校のざわめきに切り替わった。そして、壁にもたれて座りこむ、制服を乱されて、白い脚も開きっ放しにして茫然としている男の子が引いたアングルで映った。局部にはぼかしが入っていたけど、それでも、何の事後かは忌まわしくほどによく分かった。
「悠紗」
今度の聖樹さんの声は強かった。悠紗もさすがに分かったらしい。「ちぇっ」と言いながら立ち上がる悠紗に、聖樹さんはため息をつく。
「悠が見ていいかは、最後まで観てから決める」
「見てもいいの?」
「内容による」
聖樹さんの声は、苦い厳しさすら浮かんでいた。僕は急激に酸素を吸えなくなったようにも感じながら、その映画を見たくないと思いながらも見てしまった。
【第十四章へ】
