水鏡に映して-Monologue

ある春の日のこと

 まだ幼稚園のときだった。
 その頃から親友だった茉莉まつりと、団地に面した野原の真ん中にいた。
 穏やかな青空の下で、シロツメクサで冠を作ったり指輪を作ったりしていた。
 緑の匂いが、温かい風に溢れる春の日。
 さく、さく、と足音が近づいてきて、茉莉と顔を上げた。
日向ひなた紗琴さことちゃん」
 目をしばたいた。
 そこにいたのは、顔だけ知っている、同じ団地に住む小学生の男の子だった。
「あのね、僕──」
 男の子はポケットに手を突っこみ、白とピンクのビーズでできた指輪をさしだした。
「僕、紗琴ちゃんと結婚したい」
 突然の言葉にびっくりして、おろおろして、思わず茉莉を見た。
 けれど、茉莉も驚いて、シロツメクサを編んでいた手を止めていた。
「来年、紗琴ちゃん、小学校でしょ」
「う、うん」
「誰かに取られる前に、僕と結婚してほしいんだ」
「……でも、」
「紗琴ちゃんのこと、幸せにするから」
「大人に、ならないと。結婚は、できないよ……?」
「じゃあ、大人になったら結婚してくれる?」
 どう答えたらいいのか迷っているうち、男の子は同じ目の高さにしゃがんで、指輪を渡してきた。
 はねのけるわけにもいかずに受け取ると、「約束だよ」と男の子は立ち上がり、走り去っていった。
 けれど、その約束は結局果たされなかった。
 その子と再び会うことさえなかった。
 彼の心が変わったのだろうか。
 あるいは、知ってしまったのだろうか。
 この軆が女の子として生まれていなかったことを。

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