ふたりの夏休み
昔は、紗琴があたしと女の子の格好をして遊んでいても、大人は咎めることはしなかった。
いつから大人は、紗琴からピンクのスカートやレースのブラウスを奪うようになったのだろう。あたしの家と紗琴の家で共有しているクラウドで、PCのフォルダをさかのぼると、まるで姉妹みたいなあたしと紗琴が写っている。
「お人形さんみたいなふたりねえ」
みんなそんなふうに喜ぶから、あたしのおかあさんのお裁縫も進んだものだ。でも、いつのまにか大人は紗琴にジーンズを与え、スカートは取り上げるようになった。歳を取るにつれ、写真の中の紗琴の表情は暗くなっていく。ついにおかあさんもお裁縫なんてやめて、紗琴は着たい洋服も着れなくなってしまった。
小学校高学年くらいから、女の子は服ぐらい自分の趣味で買うようになる。小学生のあいだは、あたしは駅前の商店街を歩いて選んでいた。
でも、もう中学生だ。もっとかわいいの探したいな、とスマホで検索をかけると、ひと駅先の隣町のモールのファッションショップの規模がけっこう大きいことが分かった。
早朝から蝉の声が耳を引っかいて、微熱がおさまらないような夏休みが始まっていた。昨夜おかあさんに洋服代をもらっていたあたしは、昼食後のチョココーティングのバニラアイスバーを齧りながら家を出て、紗琴を訪ねた。
太陽は青空を破るように白く輝いている。アイスを舌に蕩かすとすっきりした甘味が冷たく喉を通って、かったるい風には植木沿いの草の匂いがする。
日向家はひとりっこで親も共働きだから、出たのはもちろん紗琴だった。「どうしたの」と首をかたむけた紗琴に、あたしはアイスの最後のひとかけらを飲みこんで言った。
「あたし、これから服買いに行くんだけど、一緒に行かない?」
「え」
まばたいた紗琴は、服装もそうだけど、髪も短くされて、ひと目なら男の子に見える容姿にさせられている。
「駅前の店じゃなくて、隣の駅まで行こうと思うの。そこなら、その……知らない人ばっかだし。紗琴も、自分の服を選べるんじゃない?」
紗琴は少し、表情にまごつきを混ぜる。
「自分の服、って」
「あたしの服借りればいいなら、ぜんぜん、それでもいいんだけど。紗琴、まだあたしの服着れそうだし。でも、あたしの趣味が紗琴の好みかは分かんなくて」
紗琴は小さく笑い、「茉莉はちょっとパンクな感じだよね」とつぶやいた。「うん」と自覚していたあたしは、紗琴を覗きこむ。
「紗琴は甘ロリっぽいのが好きでしょ。何となく、というか、昔から」
「PCで見てる服は、そういうのが多いかな」
「じゃあ、紗琴の好きな感じの服があるか見に行こう。あったら、着てみるの」
「でも、お金……」
「また行くときは、お金持ってさ。とりあえず、今日は一緒に女の子の服見るの。それで、いっぱい試着しようよ」
紗琴はあたしを見つめた。「ねっ」と瞳を重ねると、紗琴はまだとまどったものの、やがてこくんとして嬉しそうに咲った。
春のあたしのセーラー服以降、紗琴はスカートも穿いていないと思う。その前だって、女の子のような服はどんどん奪われるだけだった。でも、紗琴だって中学生だ。自分の着たい服を自分で選んでいい。
けれど、このまま向かって、男の格好の紗琴がスカートを試着しようとしたら、変な目で見られるだろう。紗琴はそういう目をされると、一気に畏縮する。だから、ひとまず今日は持ってきたあたしの服を着てもらって、化粧もして、紗琴を綺麗な女の子に戻した。
紗琴は男の格好をした自分が映らないよう、鏡には布をかけるようになっている。でも、「よし」とあたしがエクステまで仕上げると、その布を取ってかわいくなった自分を急いで見た。その女の子に還ったすがたを見て、暗くなっていくばかりだった紗琴の瞳はきらきらしはじめる。
「ありがとう」とこちらを笑顔で振り返って、あたしはうなずいて微笑む。そして自分にもメイクを施すと、「じゃあ行こう!」と紗琴と並んで外に出た。
紗琴は陽の光にそわそわして、誰か通りかかるとあたしの陰に隠れようとした。「大丈夫だよ」とあたしは咲って、ロングヘアが夏風になびく紗琴の背中を押す。顔見知りの多い団地さえ出れば、紗琴もさほど人目を気にせず歩けるようになって、あたしたちはすぐ駅に到着した。
ホームに立ったときや電車に乗ったとき、紗琴にはちらちらと視線が来ていた。紗琴は不安そうにあたしを見たけど、その視線は男からのものばかりだったから、「紗琴がかわいいからだよ」ときっと事実であることを言ってなだめた。
そうしてひと駅乗り継ぐと、あたしたちは改札を抜けてロータリーでちょっと迷って、ファッションショップ以外にもアクセサリーショップやフードコートが入ったモールに駆けこんだ。
「ごめんね、ちょっと迷って」
「ううん。平気」
建物の中はクーラーが行き届いていたけど、それでも外を歩いてきた余熱でくらくらする。汗も絞り取られて、服がじっとり湿るほどだ。
「何か飲んだほうがいいかな。今日も熱中症予報出てたし」
「茉莉の、ひと口だけちょうだい」
「え、でも紗琴のがほっぺた赤いよ」
「ん……何か飲んでお手洗い行きたくなっても、行けないでしょ」
「あ──そっか。いや、女子トイレで大丈夫だと思うよ」
「でも」
「個室だし、たぶん洋式だし。ばれるわけないし」
「そ、そっか。じゃあ、うん、何か飲みたい」
素直に照れ咲った紗琴にあたしも咲って、まずは服の前にフードコートでドリンクを調達した。あたしはマンゴーフロート、紗琴はタピオカミルクティーにした。
適当な席に座って、お互い宿題をまだやっていないこととか、ここでいくらか服を買ったらもっと街に出たいこととかを話した。そして、喉の渇きとほてった体温が何とか落ち着くと、あたしたちはエスカレーターで二階に行って、ファッションショップに飛びこむ。
あたしはお金をもらったところだから、気に入ったものの中から買うものを吟味した。そのあいだに、紗琴はパステルカラーのワンピースやクラシカルなブラウス、レースのチュールスカートを手に取って、軆に当てて鏡を覗いていた。
「着てみないの?」と訊くと、「いいのかな」と紗琴は逡巡する。なので、「あたしも試着するから」とちょっと強引に紗琴を試着室に踏みこませた。
ひとりでぼんやり商店街を歩いて、適当な服を選ぶのと違う。紗琴と服を選んで、着て、見せ合うのはすごく楽しかった。服の趣味は違っても、お互い気に入った服が似合うかを何度も試すのは飽きない。
紗琴は裾に白い刺繍で蝶を描く桜色のワンピースがどうしても気に入ったようで、頑張ってお財布にあったお小遣いから買ってしまっていた。あたしも欲しいのを二着くらいにやっと絞ると、レジに通して、ふくろを提げた紗琴と満足な笑みを交わした。
それから、ほかの店も覗いて歩いた。シルバーアクセ、香水のミニボトル、色とりどりのポーチや財布、見ていたら欲しいものは尽きない。「お金足りなくなってくるね」と紗琴は真紅のリボンがついた白の革のショルダーバックを手にして咲い、「早くバイトしたい」とあたしもインディゴとホワイトのボーダーリュックに手を伸ばす。
「バイトかあ」と紗琴はベロアのリボンを撫でて、「制服とかないところってあるのかな」とつぶやく。
あたしは紗琴を見て、そうか、と思った。ただバイトをしたくても、紗琴はそこでも男を演じさせられるのだ。性別を伏せて働くことはできないのだろうか。あるいは──
「紗琴なら、そのまま女の子で通じるんじゃない?」
「えっ。そ、そうかな」
「うん。かわいいもん」
「でも、それっていいの?」
「いいと思う。嘘ではないし」
「嘘……だよ」
「嘘じゃないよ。男だって言うより、ずっとほんとのことだよ」
紗琴はあたしを見つめて、「みんな茉莉みたいに優しくはないよ」と哀しそうに咲ってバッグを棚に戻した。あたしもお金がないのでリュックをフックにかけなおしつつ、「あたし優しいかなあ」と首をかしげる。
「けっこう、ずうずうしいと思うけど」
「そんなことないよ」
「そう? 紗琴に踏みこんでないかな」
「茉莉が踏みこんでくれるから、ほったらかしにならないんだよ。ちゃんと、女の子なんだって思える」
「そっか」
「茉莉がいなかったら、もう忘れて、殺して、……男だったかもしれない」
「紗琴──」
「だから、こんなふうにしてくれて嬉しい。茉莉は認めてくれてるのが、ほんとに支えなんだよ」
あたしは変わらない身長の紗琴の頭を、セットが崩れないようにぽんぽんとした。紗琴はそれに照れて微笑み、「ありがとう」と言う。それに首を横に振ると、「次行こっか」とあたしは紗琴の白い細腕を引っ張った。
その日以来、家族の留守中に女の子になった紗琴と、よく外出するようになった。紗琴はあの日はお金がなかったけど、貯金を多少溜めこんでいた。「いつか手術とかしたいと思ってたから」と言うので、使わないほうがと言ったものの、あたしと服を買いに行く時間も楽しいからと紗琴はその貯金とお小遣いをやりくりして好きな服を買っていった。
そうして手に入れた服を着て、今度はもうちょっと遠出をして街に出るようにもなった。そういう場所のショウウィンドウがある店で売っている服は、さすがに中学生には手が出なくて見るだけだったけど、それでも紗琴は嬉しそうに咲っていた。
あっという間に夏休みも明けそうになっていた日、あたしと紗琴は一緒に宿題を片づけたお互いへのご褒美に、街まで出かけることにした。
紗琴は自分で化粧するのも覚えてきて、百均のものでじゅうぶん綺麗に魅せれるようになってきた。癖で伏せがちの睫毛をマスカラとビューラーでぱっちりさせる。白い肌も綺麗だけど、ファンデとチークで華やかになる。伸ばせない爪にはせめてマニキュアを塗る。
そして、廊下や階段に誰もいないのを見計らって棟を出て、団地も出て町も出て、見知らぬ人だらけの市内の人混みで紗琴は自由になる。
そのときの紗琴はとても幸せそうで、何も知らない人には、よほど魅力的に見えるらしかった。紗琴を目当てに声をかけてくる男の子は、本当に多かった。変わらない年代の子もいれば、明らかに怪しいおっさんのときもある。
声がかかると、紗琴はびくんと固まってしまうので、あたしがあいだに入って「この子には普段、めちゃくちゃかっこいい彼氏がついてるから」とか言ってはぐらかす。それで引き下がるのもいれば、今度はあたしの肩に手をかけてくるのもいる。
一度、「ふたりでアイドルになれるDVDに出ない?」とか言ってきた大学生ぐらいの男がいて、そのときはかわすというか逃げた。「怖かった」と紗琴は半分泣いていたけど、「紗琴はリアルにアイドルになれそう」とあたしが言うと、残り半分で咲った。
とにかく、誰ひとり、紗琴の性別を疑ったりしなかった。
「茉莉」
「んー」
「夏休み、終わっちゃうね」
「そだね」
「今までと違って、すごく楽しかった」
「はは、あたしも」
「来年も楽しいかな」
「もっと楽しいよ」
「茉莉に彼氏できてたら寂しい」
「そんなんできないよー」
「夏休み、暮村くんには会えた?」
「ぜんぜん。紗琴は秋葉くんとは?」
「メッセは来た。少し通話もした」
「そうなんだ。スマホ持ててよかったよね」
「うん。秋葉くん、ちょっと声が低くなってた気がする」
「男だもんなー」
雑踏に面した涼しいカフェの窓で、ガラス越しには熱射の中を人が行き交っている。甘い香りのいちごのスムージーを飲んでいたあたしのつぶやきに、アイスロイヤルミルクティーを飲んでいた紗琴は言葉を切る。
あたしはスムージーの中の氷の粒子を噛んで、紗琴を見た。今日の紗琴は、淡いライム色の生地で大きなフロントボタンがかわいいワンピースを着ている。
「この声も……低くなるのかな」
「……体格は、まだ性別分かんないね」
「そうかな。何か、夜に骨が痛いときがある」
「………、手術ってどのくらいかかるのかな」
「分かんない。というか、手術って違法ではないよね?」
「どうなんだろ。昔はそうだったかもしれないけど、何か、医者が認めてたらいいんじゃなかったっけ」
「病院……かあ。何科に行けばいいのかも分かんないね」
「ネットで調べられると思うよ。PCで見ないの?」
「え……エッチなことばっか書いてるとか、ニューハーフの店の求人とか、そんなんばっかだよ。あ、SNSとか掲示板もヒットしたりするかな」
「そっかあ。そういうとこには書きこまないの?」
「まだ怖い、かな。それに、十八歳になってからってとこも多いし」
「十八歳かあ」
「……どっちみち、お金は貯めないとね」
「うん。服買うの楽しいけどね」
あたしはスムージーをすすり、紗琴もストローに口をつけた。
「夏休み終わっても、またこんなふうに出かけてくれる?」
「もちろん。あたしのほうがお願いしたい」
「一緒に服とかたくさん見ようね」
「夏休み終わってほしくないなー。やっと宿題も終わったんだしさ」
「暮村くんに会えるよ?」
「んー、まあ。そうだね。そこは嬉しい」
「話しかけないの?」
「切っかけがなー」
そんなことを話していると、わりと落ち着いていた店内がざわめきはじめて、外のビルの隙間の空もうっすらオレンジがかってくる。「おかあさん帰ってきちゃう」と先に帰らないとそのすがたでは家に入れない紗琴は時刻を気にして、あたしも甘酸っぱいスムージーを飲み乾すと「帰ろっか」と財布を取り出した。
帰宅ラッシュで蒸すように混んだ帰りの電車で、紗琴は手鏡を取り出して何度か自分を見つめていた。「何か気になる?」と首をかしげると、「また制服ばっかりになるから、見納め」と紗琴は傷の痛みをごまかすみたいに咲った。
あたしは紗琴を見つめ、「来年でも、いつでも、またデートできるよ」と言った。紗琴はあたしを見て優しく咲うとうなずく。
その笑みに、一枚くらいプリクラ一緒に撮ればよかったな、と思ったけど、きっと証拠になるものは紗琴は断っただろうと、少し哀しくなった。
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