水鏡に映して-9

一番いけないこと

 二学期が始まったときには手遅れの状態だった。始業式の朝には始まる準備が整っていた。大量の写真、そのコピー、ばらまく仲間。みんな手に取ったり、足を止めたりして、その写真を見た。ついで、そのたくさんの写真はネットに上げられ、SNSでのクリックひとつで一気に拡散された。
 女の子の服を着て、下着はつけずにスカートを自分でめくりあげている。
 綺麗な化粧をした顔に精液を飛ばされ、突き出されたものを苦しげにくわえている。
 服を乱されて肌を剥かれ、泣きながら振り向かされて後ろから犯されている。
 あの夜、あたしは何とか立ち上がって紗琴に駆け寄った。紗琴は男の子の格好をしていたけど、紙ぶくろに大事な女の子の服を詰めて持っていた。たぶん、家では泣けないから、そこでひとしきり泣いていつも帰宅していたのかもしれない。
 あたしのすがたに紗琴は目を開き、でも涙も急に止まらなくて、しゃくりあげながらただ首を横に振った。「近づかないで」と言われた気もする。それでもあたしは紗琴に近づいて、抱きつくようにその細い軆を抱きしめた。
 紗琴はいつもいい匂いがする。なのに、そのときはかすかにあの白濁のものであろう生物の臭いがして、みぞおちがひずんだほど痛くつらくなった。
「ごめん」
 あたしも涙がこみあげてきた。女の子なのに。この子は女の子なのに。そんなこと、女の子として、一番されちゃいけないことなのに。
「ごめん、紗琴」
「……茉莉、」
「あたしが、ちゃんと言ってれば」
「えっ……」
「佐内くんには気をつけろって、言ってればよかったんだ」
「何、で……? このためだって、し、知ってたの」
「暮村くんに、言われてた。佐内くんは昔イジメをしてたから、気をつけてって」
「暮村、くん……って、あの?」
「うん。夏休み前に忠告されたの。一緒の小学校で、その頃佐内くんはイジメをしてたからって。でも、あたしほんとに佐内くんがそんな人か信じられなかったし」
「……そ、なんだ」
「もう──夏休み前から、あったの?」
「夏休み前、は、優しかった。ひどいこともされなかった。キス、とか。そんなのだけだった」
 あたしは唇を噛んで紗琴の服を握る。じゃあ、もっとあたしのせいだ。あたしさえきちんと紗琴に伝えて、引き止めて、あいつが近づかないようにそばにいれば。
「夏休みに入ってから、女の子の服を着たところ見せろとか、写真撮られたり、ほかの友達も呼んだり、なっていって。八月に入って、もう、どんどんひどくなって。怖くて、逆らえなくて。男が好きなんだろって、それも、間違いではないから何も言えなくて」
 紗琴の大粒の涙があたしの肩や首を濡らしていく。あたしが「ごめん」ばかり繰り返していると、徐々に紗琴もあたしにしがみついてきた。体温が同化して、蒸して汗が滲んで、それでも軆を離せない。
「二学期が楽しみだって、言われてるから」
 紗琴はさっきの震えるかぼそい声で言う。
「夏休みが終わったら、何かされる」
「何か、って止められないの? 止めようよ。あたしも何でもするから」
「………、遅い、よ。きっと。何をされるのかは、分からないけど──
 紗琴は始業式、学校を休んだ。おばさんが紗琴をベッドから引っ張り出そうとしているのを、あたしが止めてお願いもして、今日は休ませた。
 もちろん学校では、あっという間にみんなが紗琴のことを知って、「オカマ」とか「ホモ」とか「女装癖」とか──ぐちゃぐちゃに言い貶めて、眉を顰めていた。すべてをばらまいた犯人のことは、考えもしていないようだった。
「茉莉は知ってたの? 日向くんのこういう趣味」
 何人か、そう訊いてくる友達もいた。そんなことを訊いてきた時点で、友達だとは思えなくなったけれど。あたしは何も言わず、早く下校して紗琴のそばに帰りたいと願った。
 佐内くんを一瞥すると、接点なんて見えなかったはずの男子とスマホを覗きこんで笑っていた。
 放課後、校門をくぐると急いでスマホを取り出した。紗琴からメッセが来ていて、開くと『拡散見た。』とだけ書いてあった。あたしはスマホをポケットに入れて、次第に駆け足になって、制服のまま紗琴に家に飛びこんだ。
 ドアを開けた紗琴はパジャマのままで、瞳を真っ赤に腫らして、それでもなお泣いていた。
「紗琴、ごめん、あたし何もできな──」
 紗琴はあたしに抱きついて、わっと声を上げて泣き出した。あたしは何とか後ろ手にドアを閉めると、手探りで鍵もかけて、紗琴を抱いて柔らかい髪の頭を撫でた。紗琴は何度も「死にたい」という言葉を吐いた。大切な親友に、そんな言葉を言わせるしかできない自分が悔しかった。
 紗琴が少し落ち着いてから、今日もおじさんとおばさんは出勤して誰もいない家に上がった。ベッドサイドに並んで座ると、紗琴はあたしの手を握って、もう一方の手で目をこする。
「みんなあの写真見たの?」と紗琴に問われて、あたしはやや躊躇したものの、あの拡散に加えてコピーがばらまかれたことも伝えた。紗琴は鼻をすすって、「ほんとに死んじゃいたい」と目をつぶった。
「もう……学校には行かない?」
「……行けない、よ」
 紗琴を見た。紗琴は睫毛をびっしょり濡らしている。そうだよな、と思った。学校に行ったって、もう紗琴は無駄に傷つけられるばかりだろう。そこまでして行かなくてはならない場所でもない。
 暮村くんの友達だってそうした。不登校。そうして当たり前なほど、もう陰湿で過酷な状況だ。
 なのに、なぜかあたしは紗琴の手を握り返して言っていた。
「学校、行こうよ」
 紗琴はあたしに目を向け、首をかたむけた。
「あたしがそばにいるから」
 何で、こんなことを言っているのだろう。紗琴にそんな無理なんかさせなくていいのに。つらさのあまり壊れてほしくもない。だって、紗琴は──
「紗琴は──間違ってないもん」
「……え」
「紗琴は女の子で、あたしは正しいと思うもん。男の子の軆だけど女の子だって、あたしは一番知ってるよ。ここで学校に行かなかったら、紗琴は女の子じゃないって勘違いされたままだよ」
「………、」
「男の子が男の子を好きになるのも悪くないと思う、でも紗琴は違う。女の子だし。服着るのとかだって、趣味とかじゃなくて、それが自然な格好なんでしょ。紗琴は悪くないんだよ。あたしはそれをみんなに分かってもらいたい。学校辞めたら、みんなバカみたいに紗琴を決めつけるんだよ。紗琴が悪いとか言い出すんだよ。そんなの許せない」
「……でも」
「紗琴は女の子でね、ほんとに女の子で、だから一番ひどいことをされたんだよ」
「ひどい……のかな」
「ひどいよっ。男が一番女にしちゃいけないことだよ」
「でも、男の子が好きなのはほんと……だよ」
「じゃあ、あたしが『お前は男が好きだから』って同じことされたら、やっぱりみんな、笑うの?」
 紗琴は口をつぐんでうつむいたものの、小さく首を横に振る。
「じゃあ、紗琴だって『笑わないで』って、『女の子なんだ』って言おうよ。言っていいんだよ。あたしがちゃんとそばにいる。好きでもない人とあんなことをするのは、おかしいんだよ。好きな人と、結ばれてすることなの。それとも、佐内くんが好き?」
 紗琴は今度は激しく首を横に振って、「少し気になってきてたけど」とまたあふれてきた涙をぬぐう。
「ひどい人だって分かって、……もう、好きじゃない」
「じゃあ、紗琴は堂々としていい。女の子で、だから一番いけないことで踏み躙られたって、分かってもらおうよ。そう主張することも、何にも悪くない。あたしはそうしてほしい」
「できる、かな」
「できるよ。あたしだって味方についてる。紗琴が何も間違ってないことを、あたしはよく知ってる。紗琴は女の子だよ。そのこと、みんなに知ってもらっていいじゃない。そして、佐内くんが悪いんだってことを絶対に分かってもらおう」
 紗琴はあたしを見つめた。あたしも紗琴を見つめる。紗琴の手があたしの手をきつく握る。
「ほんとに、茉莉はそばにいてくれる?」
「うん」
「ひとりじゃない?」
「あたしが一緒だよ」
「茉莉も……ひどいこと言われるかもしれないよ」
「あたしは、紗琴がいれば平気」
 紗琴は睫毛を震わせ、少しうつむいた。あたしはその噛まれた唇の白さを見つめる。紗琴はそっと息を吐くと、ゆっくり声を出した。
「……もう、男の子みたいにするのは苦しい」
「うん」
「女の子、だもん。ほんとに、女の子なんだよ」
「知ってる」
「あんなこと、ぜんぜん、嬉しくない。嫌だった。するなら、好きな人としたかった。ホモとかも言われたくない。女の子として見られたい。女の子だって分かってもらいたい」
 再び紗琴の頬を伝っていった涙が、ぽたぽたとパジャマの膝に落ちていく。あたしは紗琴とつないだ手を持ち上げて、頬を当てた。紗琴はあたしの肩に顔を伏せて泣き出す。
 ぎゅっと手を握り合って、あたしは「一緒に頑張ろう」と言った。紗琴は何度もうなずいた。今度こそ、この子のそばにいようと思った。この親友を、一緒に信じようと思った。
「──まず、おとうさんとおかあさんに話してみる」
 夕暮れも過ぎてそろそろおばさんが帰宅するかもしれない頃、やっとあたしは紗琴の隣から腰を上げた。玄関まで見送ってくれた紗琴は、だいぶ泣きやんだ顔であたしにそう言った。
「話せそう?」
「変なかたちで伝わるよりは、頑張ってみる」
「そっか」
「話し終わったら、メッセしていい?」
「うん。通話でもいいよ」
「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」
「いいの。あたしも悪かったんだし」
「茉莉は悪くないよ」
「でも、」
「たぶん、言ってもらっても信じられなかったし」
「………、暮村くんに、謝らないといけないね。こうなるかもしれないって知ってて、ちゃんと伝えにきてくれたんだから」
「でも、お礼も言わなきゃ。茉莉だけでもほんとのこと知って、味方でいてくれるようにしてくれた」
「そう、だね。暮村くんって──」
 紗琴を見た。紗琴は少し首をかたむける。暮村くんは、よくあたしのほうを見ていた。そう、そしてあたしの隣にはいつも──。
 ちょっと咲ってしまった。そういうことか、とやっと分かった気がした。
「何?」
「ううん。いつか、紗琴も暮村くんと話せるといいね」
「こんなになっちゃって、話してくれるかな」
「暮村くんは、きっと事情分かってる人だから。大丈夫だよ」
「そう、だね。いつか、ちゃんとお礼言いたい」
 そのとき、背後のドアノブからかちゃかちゃと鍵をまわす音がした。はたと振り返ったのと同時にドアが開き、「あら」と化粧をした紗琴のおばさんが顔を出す。
「茉莉ちゃん。いらっしゃい」
「あ、お邪魔してます。今から帰りますけど」
「そうなの? って、紗琴ー。パジャマのままって、ほんと、仮病は今日だけだからねっ」
「……ん。明日は学校行く」
「そっか、よしよし。ま、たまには一日くらいサボるのもいいか。おとうさんには黙っておいてあげる」
「おとうさん、今日遅いの?」
「いつもと同じくらいじゃないかしらね。夕飯には帰ってくるでしょ」
「そっか。あの、じゃあ──話があるんだけど」
 あたしは靴を履いて、おばさんと場所を入れ替わった。「頑張れ」と言うと紗琴はこくんとして、不思議そうなおばさんの手から「持つよ」とエコバックを引き取る。あたしはドアを開けて、まだまだ素肌を舐めてくる熱気の中に出る。「また来てねー」と言ってくれたおばさんに会釈すると、かばんを持ち直してドアを閉めた。
 帰宅したあたしは、ひとまずシャワーで汗を流して、集中できないまま宿題に向かった。何度もかたわらに置いたスマホを見てしまう。宿題を片しても、夕食を取っても、着信はなかなかつかなかった。
 二十時。二十一時。二十二時になる頃にはさすがに心配になってきて、つい『大丈夫?』とメッセを入れてしまった。それにも返事は来ないまま二十三時もまわり、ようやく紗琴から『通話できる?』とメッセが来た。あたしはそれにメッセで応えるより、急いで通話ボタンをタップした。コールは一度で終わって、『もしもし』と紗琴の声が聞こえてきた。
「紗琴」
『ごめん、遅くなって。返事もできなくて』
「ううん、大丈夫。話、した?」
『うん。ちょっと……期待しすぎてた』
「え」
『よくあるでしょ。「そんなの実は気づいてたよ」とか、親なら言ってくれたとか。子供の頃、茉莉と女の子の服着てたりしてて、もしかして感づいてるかなあとか思ったけど』
「……あんまり、考えてくれてなかった?」
『ん……、何か、同性愛とは違うってことから、あんまりよく分かってなくて。心は女の子だとか、芸能人のキャラ設定とか思ってる感じで。すごく説明しなきゃいけなかった』
「そ、う」
『一応、言いたいことは分かってくれたみたいだけど。受け入れてくれるかは分からない。「ちょっと改めて考えさせてほしいから、今日は寝なさい」って』
「紗琴の親なら、ちゃんと分かってくれると思うけど──時間はかかるのかな」
『うん。特に、おかあさんは普段から「もっと男らしく」って言うほうだったし』
「学校のことは、言ったの?」
『少し。写真のこととかは言わなかったけど、知られてイジメられてるみたいには言っておいた。それには、「だったら学校は無理に行かなくていい」って言ってくれたけど。「学校は行くよ」って』
「そっか。学校──明日、一緒に行こうね。ひとりでは行かなくていいんだからね」
『うん』
「家も学校も不安だと思うけど、あたしがそばにいるから。つらくなったら、あたしに隠れててもいいから」
『ありがとう。明日から、ちゃんと、女の子として認められるように頑張っていく。茉莉がいてくれるから大丈夫』
「紗琴──」
『茉莉がいるから、頑張れるよ』
「……うん。あたしも一緒に頑張る。そばにいるから」
 それから、明日の登校時間を確認すると、お互い眠たくなってきたので電話を切った。明かりとクーラーを消して、ベッドにもぐりこむ。
 そばにいる。自分が本当に、そんな盾みたいに頼りになる存在でいられるかは分からない。でも、紗琴があたしが知る中で一番かわいい女の子だと、それを言い切れる自信はある。分かってくれる人は少ないかもしれない。もしかしていないかもしれない。
 それでも、紗琴を信じよう。紗琴はあたしを信じてくれている。大事な親友だ。一番の親友なのだ。紗琴がもう偽らなくていいように頑張ろう。
 おとうさんとおかあさんがまだ起きている物音が遠くなっていく。ふとんの匂いに軆が沈み、暗闇にまぶたが溶けていく。胃のあたりにはまだ緊張が残っていたものの、それより意識がおぼつかなくなってきて、そのまま眠りこんでしまっていた。

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